京極夏彦『覘き小平次』より

何もせずとも如何にもならぬのであれば、何かすることに何の意味があるのか、そこのところが判らなくなる。美味しいと思わねば不味いものもない。嬉しいと思わねば哀しいこともない。愛しいと想わねば悔しゅうもない。

誰であろうと不味いものは喰いたくなかろう。哀しい目にも遭いたくなかろう。悔しい想いもしたくはなかろう。良き暮らし、嬉しき思い愉しき想いをしたいからこそ、人は色色なことを為すのだろう。汗水垂らして働くも、凝乎と堪えて辛抱するも、傍目を気にして飾るのも、何も彼も善きことを招き寄せたいがためではあるだろう。そうならば。

世人は勤勉質素こそを讃えるが、如何なものかとお塚は思う。お塚には勤勉と業突張りの区別がつかぬ。倹約と吝嗇の違いが判らぬ。情愛と執着の差が知れぬ。

だから。

無為に暮らすことの、怠惰に過ごすことのどこがいけないのか、今のお塚には解らぬ。

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惚れるとは如何いうことか。今のお塚にはそれこそ解らない。

否、それは昔から解らなかったことなのかもしれぬ。好きだ嫌いだがどれ程大事なことなのか、お塚は能く解らない。そもそも人の心など、有って罔(な)きが如きもの。朝(あした)と午(ひる)、午と夕で違うもの移ろうもの。どれ程好いた相手でも、いずれ厭(いと)うこともあろうし、厭(あ)いたから取り換えるというのも怪訝(おか)しな話。添うた以上は添い遂げよ、連れ合いのために堪えよ尽くせよと、世の人人は謂うではないか。ならば好きだから一緒に暮らすという論(りくつ)は立たぬ。

ーならば。

何故に人がつがいになりたがるのか。一つ屋根の下、寄って集(たか)って暮らすのは何故なのか。

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「信じるってこたァ、騙されても善いと思うこと。信じ合うッてこたァな、騙し合う、騙され合うてェ意味なんだ。この世の中は全部嘘だぜ。嘘から真実なんか出て来やしねえ。真実ってなァ、全部騙された奴が見る幻だ。だからー」


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