玖瓊鳳㐂戀(くにとり・きれん)

日本史の研究者。 我流書道(?)まがいの落書きはインスタ @kunitori_kire…

玖瓊鳳㐂戀(くにとり・きれん)

日本史の研究者。 我流書道(?)まがいの落書きはインスタ @kunitori_kirenにて。依頼も承ります。 あと明らかに投稿には興味ないけど広告用でいいねとか押してきても反応しない。うざいからとっとと失せろ

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ソ・チョンソク「精神科医が診断を下すということ」(FBより)

「うちの子ってチック症なんですか?」 「子供がADHDかどうかを知りたくて…」 病院を訪れた親御さんたちがよく口にする言葉である。親御さんたちは子供がどのような病気持ちなのかが知りたがり、そのほとんどがその病を持っていないということを私から聞きたがる。たとえうちの子がこのような症状を持っており、そのせいで大変な目にあってはいるけれど、とはいえ病ではないということを確認しようとする。そのとき、私に与えられた役割は判定官である。あなたのお子さんは正常です。否、あなたのお子さんは

    • シン・ヒョンチョル『没落のエチカ』より

      私はいつも没落したものたちに魅了されてきた。人生のある曲折において、一瞬ですべてを失うものは残酷なほど美しかった。それはなぜだったか。彼らはただすべてを失うばかりではなかった。すべてである一つを守り抜くために、その一つを除いたすべてを諦めたのであった。だから彼らは空っぽのまま充満しており、没落已後の彼らの表情は崇高だった。私を揺さぶりまくる作品たちは、絶頂の瞬間でまさにそのような表情をしていた。その表情たちはなぜ重要か。没落は敗北なれど、没落の選択は敗北にあらず、ゆえである。

      • 黃芝雨(ファン・ジウ)「痛恨の後悔」

        哀しい 私が愛したあとごとに 尽く廃墟である 完全に壊れきりながら 完全に壊しきっておいて去ってゆくこと;その証なしでは まことに愛したというわけには参るまいか 私に来た人びと、 どこか幾処は壊されたまま みな去っていった 私の胸中にはいつもぼんやりと移動する砂漠の神殿 風柱の建てた内室へまでも砂が押しかけており 根ごと無造作に転んでいる木くず、そして 枯れてゆく死んだ獣の耳元に砂の音がカリカリと どのような恋愛ででもどのような狂気ででも この物恐ろしいところまでは

        • イ・ユリ「絳(あか)キ実」

          凡例 ・本文中におけるすべての表記揺れなどは、意図されたものである。 ・注はすべて訳者によるものである。 親父は自分を火葬したら、残ったその遺骨を植木鉢にしてほしいと言っていた。それはてんで話にならない戯言だった。ところが親父は、そんなとんでもないことをしょっちゅう平気で言い出すようなタイプの人間だったから、つられたわたしも油断して、もののまぎれにその場ではつい、うんわかったと答えてしまった。後になってやっと、ちょっと待ったこれおかしいぞ、と思ったら時すでに遅し、いつの

        ソ・チョンソク「精神科医が診断を下すということ」(FBより)

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        • その他翻訳
          5本
        • 引用
          24本
        • 批評
          9本
        • 韓国文学翻訳
          11本
        • 恋?
          11本
        • 日本史
          19本

        記事

          シン・ヒョンチョル「無情な神と愛の発明」(『人生の歴史』より)

          ある価値あるいは制度の再発明を要請する人は革命的である。既存のものは偽りと、本物は別にあるというからである。ところで私は再発明ではなく発明について考えてみようと思う。もうこれ以上壊すものも崩すものも、なにもないところから何かを初めて創り上げる人の、その恐ろしくて勇ましい心について、である。(・・・) 「私でも側にいなければ」(・・・)ふとそのような独り言を発しては、自ら驚いてしまったかもしれない一人の人のことを想う。私の眼の前でべろんべろんに泥酔している人を見つめて、「私で

          シン・ヒョンチョル「無情な神と愛の発明」(『人生の歴史』より)

          シン・ヒョンチョル「ひらめの十全さについてー愛の論理学のための補足」(『悲しみについて勉強するという悲しみ』より)

          誰しもが欠如を持っている。恥ずかしさゆえに大概はそれを隠す。他の人々もしかりであろう。ところで或る決定的瞬間に、私があの人の欠如を見つけ出す時がある。そしてその時、このようなことが起こりうる。あの人の欠如が醜くて背を向けるのではなく、むしろその欠如のためにあの人を見直すこと。その発見に伴い、私の欠如が、消し去りたい或るものではなく、むしろあの人の欠如と分かち合うべきあるものと化する。私でなければあの人の欠如を理解できる人がいないと思え、まさしく私の欠如を理解してくれる人として

          シン・ヒョンチョル「ひらめの十全さについてー愛の論理学のための補足」(『悲しみについて勉強するという悲しみ』より)

          栗原康『村に火をつけ、白痴になれー伊藤野枝伝』より

          (…)野枝の人生の軌跡をおっていくが、あらかじめその特徴をひとことでまとめておくとこうである。わがまま。学ぶことに、食べることに、恋に、性に、生きることすべてに、わがままであった。そして、それがもろに結婚制度とぶつかることになる。(…)  もしかしたら、これを真実の愛をもとめた結果だというひともいるかもしれないが、そんなきれいなものではなかった。わがままだったのである。だいたい真実の愛がどうこうというひとは、カップルの理想みたいなものをもっていて、その実現のために献身的にな

          栗原康『村に火をつけ、白痴になれー伊藤野枝伝』より

          京極夏彦『覘き小平次』より

          何もせずとも如何にもならぬのであれば、何かすることに何の意味があるのか、そこのところが判らなくなる。美味しいと思わねば不味いものもない。嬉しいと思わねば哀しいこともない。愛しいと想わねば悔しゅうもない。 誰であろうと不味いものは喰いたくなかろう。哀しい目にも遭いたくなかろう。悔しい想いもしたくはなかろう。良き暮らし、嬉しき思い愉しき想いをしたいからこそ、人は色色なことを為すのだろう。汗水垂らして働くも、凝乎と堪えて辛抱するも、傍目を気にして飾るのも、何も彼も善きことを招き寄

          京極夏彦『覘き小平次』より

          江國香織『きらきらひかる』あとがきより

          素直にいえば、恋をしたり信じあったりするのは無謀なことだと思います。どう考えたって蛮勇です。 それでもそれをやってしまう、たくさんの向こう見ずな人々に、この本を読んでいただけたらうれしいです。

          江國香織『きらきらひかる』あとがきより

          谷川俊太郎「九月のうた」

          あなたに伝えることができるのなら それは悲しみではありはしない 鶏頭が風にゆれるのを 黙ってみている あなたの横で泣けるのなら それは悲しみではありはしない あの波音はくり返す波音は 私の心の老いてゆく音 悲しみはいつも私にとって 見知らぬ感情なのだ あなたのせいではない 私のせいでもない

          谷川俊太郎「九月のうた」

          谷川俊太郎「泣いているきみ」

          - 泣いているきみのとなりに座って ぼくはきみの胸の中の草原を想う ぼくが行ったことのないそこで きみは広い広い空にむかって歌っている 泣いているきみが好きだ 笑っているきみと同じくらい 哀しみはいつもどこにでもあって それはいつか必ず歓びへと溶けていく 泣いているわけをぼくは訊ねない たとえそれがぼくのせいだとしても いまきみはぼくの手のとどかないところで 世界に抱きしめられている きみの涙のひとしずくのうちに あらゆる時代のあらゆる人々がいて ぼくは彼らにむかって言うだろ

          谷川俊太郎「泣いているきみ」

          谷川俊太郎「きみ」

          きみはぼくのとなりでねむっている しゃつがめくれておへそがみえている ねむってるのではなくてしんでるのだったら どんなにうれしいだろう きみはもうじぶんのことしかかんがえていないめで じっとぼくをみつめることもないし ぼくのきらいなあべといっしょに かわへおよぎにいくこともないのだ きみがそばへくるときみのにおいがして ぼくはむねがどきどきしてくる ゆうべゆめのなかでぼくときみは ふたりっきりでせんそうにいった おかあさんのこともおとうさんのことも がっこうのこともわすれてい

          野家啓一『物語の哲学』より

          (…)後半の注においては、その時間的順序を逆転させ、「語る」あるいは「書く」という人間的行為によってはじめて実在的歴史が成立することを述べている。その語るという行為を「物語行為(narrative act)」と呼べば、実際に生起した出来事は物語行為を通じて人間的時間の中に組み込まれることによって、歴史的出来事としての意味をもちうるのである。ここでコジェーヴが述べているのは、「歴史」は人間の記憶に依拠して物語られる事柄のうちにしか存在しない、という単純な一事にほかならない。

          野家啓一『物語の哲学』より

          誣告と性暴力

          ツイッターのスレッドを整理 一般的な状況において、さらに直接でなく仮想敵としてのフェミニストに対して「お前らこの誣告についてなぜ言及しないのか、ちゃんとそれにも言及すべきだろ」とかいうのは、気持ちをわからんでもないけれど、多少お門違い感がある。 それは彼女らの主眼点ではないから。性暴力を告発する、ということには、そこまで含まれておらず、セット売りするということではない。そりゃ「お前これについてどう思うのや」(そもそもそれが思想の検閲ということはさておき)と聞かれたら「良く

          映画『容疑者Xの献身』

          (ツイッターと同時投稿) 久々に映画の『容疑者Xの献身』を観た。何度見返しても日本推理小説の輝かしい到達だし、映画はさらに美徳を増している。単なる推理小説にあらず、それが伝えるテーマは何よりも重厚である。 愛とは何か、とはこの作品は問わない。それは結論もなく不毛だからである。この作品は、ただ一形態を示すだけである。しかし逆説的に、だからこそこの作品は他のどの作品よりも、「愛とは何か」という根本的な答えに最も近く接近している。 苦痛を分け合うこと。その苦痛を相手に転嫁せず

          キム・ヨンミン『人間として生きることは一つの問題であります―政治的動物への途』翻訳 #4「自然状態を想像せよ―政治已前の状態」

          とうとう私のまわりにも田舎暮らしのよさを喝破する人があらわれはじめた。油断大敵とはよくいったもので、退屈な故郷がいやで一生都会暮らしを讃えた友人さえも、田園に一戸建ての住宅を買い取り、家庭菜園をはじめたそうだ。自分の耕す小さな畑がどれだけ誇らしいものか、化学肥料を排除したその野菜が、大きさでは劣るものの味やら新鮮度やらでいかに優れているか讃嘆する。あのレタスを食べたら、まるで自然が俺にハイタッチをする気持ちになるんだぜ!大地は汗かくほど人間に応えるものだ。子どもより率直だよ。

          キム・ヨンミン『人間として生きることは一つの問題であります―政治的動物への途』翻訳 #4「自然状態を想像せよ―政治已前の状態」