シン・ヒョンチョル「ひらめの十全さについてー愛の論理学のための補足」(『悲しみについて勉強するという悲しみ』より)

誰しもが欠如を持っている。恥ずかしさゆえに大概はそれを隠す。他の人々もしかりであろう。ところで或る決定的瞬間に、私があの人の欠如を見つけ出す時がある。そしてその時、このようなことが起こりうる。あの人の欠如が醜くて背を向けるのではなく、むしろその欠如のためにあの人を見直すこと。その発見に伴い、私の欠如が、消し去りたい或るものではなく、むしろあの人の欠如と分かち合うべきあるものと化する。私でなければあの人の欠如を理解できる人がいないと思え、まさしく私の欠如を理解してくれる人としてクローズアップされてくる。欠如の交換構造が成立するのである。それが彼らをかけがえのないパートナーにしたがゆえ、二人は今生をその構造のなかで耐えていくこともできよう。いうなれば以上のような関係があるのではなかろうか。あるとすれば、他でもなくこれを愛の関係と呼ぶべきではなかろうか。(・・・)

愛の関係を形成したからといって私の欠如が消え去ることはなかろう。従って欠如がないという意味での「完全なる」人にはなりえない。しかし相手を通して私の欠如と新たな関係を結ぶことはできる。私の欠如をありのまま認めたうえでそれと共に生きてゆく関係。もはや欠如が苦痛ではなくなる生、そのような生を生きるようになった人を、「十全」な人と呼ぶことができるのではなかろうか。だから、愛は私を「完全」にはしてくれなくとも、「十全」にはしてくれるのではなかろうか。よって、次のように言えるのならあなたはただ今愛のなかにいるのである。「独りでいる時にあらず、あの人と共にいる時にこそ私はもっと十全になる」(・・・)

我々がこんにちにも愛なるものを営むのは、一つより二つの時にもっと善い人になりうるという希望ゆえである。私は、私が物足りない人間ということで苦痛を感じなくて済ませてくれる誰かに出会って、十全になる。それは(・・・)運命的な番(つがい)に再会して成る奇跡ではなく、相手が私によってさらに十全な人になってほしいという、相互の配慮でなしとげうることなはずである。(・・・)

種々の要素が私の人生を構成しており、そこにはあなたという要素がなくてはならない(・・・)これは、愛のなかで主体が「十全」になることとは違う。いくら重要で大切な要素といっても、要素はあくまで要素に過ぎない。私の愛するあなたは、私の中身を詰め込む「要素」ではなく、私を立て直す「構造」でなければなるまい。私はあなたで充満するのではない。あなたのなかで十全となる。欠如は相変わらず有り続けるものの、その欠如がもう苦痛ではなくなる、そのような、十全な人。私の愛するあなたは、私をそのような人にする。(・・・)

誰しもが自らの分の欠如を持っているのが人間であり、またそのような人間が独りで生きていくにはいかにも重たすぎる、というものがほかならぬ人生という事実を、いつのまにかから私は認めざるを得なくなっておりました。ですので、私は愛とは最終的に我々を生かす力と思います。愛するために生きるのではなく、生きるために愛するのです。概ね利己的な私たちが次のような驚くべき想いに達するのが、愛のなかにいる時です。「私は愛をする。私が生きるためではなく、君を生かすために、そうして君を生かすことで、私もまた生きる価値を有するために。(・・・)神がいれば神が我々を愛すでしょうが、神がいなければ我々が互いを愛すること。これが人間のか弱さであり、偉大さでもあるということ。だから、愛に関してだけはいつもこうとしかいうことができませぬ。側にいるよ、我々が十全になるために。

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