イ・ユリ「絳(あか)キ実」

凡例

・本文中におけるすべての表記揺れなどは、意図されたものである。

・注はすべて訳者によるものである。


親父は自分を火葬したら、残ったその遺骨を植木鉢にしてほしいと言っていた。それはてんで話にならない戯言だった。ところが親父は、そんなとんでもないことをしょっちゅう平気で言い出すようなタイプの人間だったから、つられたわたしも油断して、もののまぎれにその場ではつい、うんわかったと答えてしまった。後になってやっと、ちょっと待ったこれおかしいぞ、と思ったら時すでに遅し、いつの間にかわたしは骨壺を膝のうえにのっけた儘、火葬場からの帰りのバスのなかだった。

バスのなかには、火葬場前のバス停で乗った人々が数人かおり、彼らはみな泣いていたか、泣いているか、泣きそうになっているかのいずれであり、それに比べればわたしは、あたかも弁当箱を抱えてどこか行楽にでも行く人みたいだった。そんなこんな考えていると、いっそのこと本当にこのまま行楽に行くこともまあ悪くなさそうに―だって、行楽日和のお天気で風もちょうど気持ちよくて―感じられ、家近くの公園とその隣のサンドウィッチ屋さんを思い出したらお腹まですいてくるのだった。わたしはバス停を一つ乗りずらして、公園前で降りようと路線図に目を配った。ところで折しもこそあれ、誰かが大声の嗚咽をはじめて、ついさきまでの行楽のわくわくした気持ちが失せ、わたしは公園には行かずじまいとなった。


骨壺を掘り出したのは、それからまた季節が2つはかわってのことデ、わたしは茶だんすの奥のところにしまってあったそれを、ミスッカル[1]かなと思いスプーンでいっぱいすくって、くんくんと匂いまで嗅いだ。もともと保存食などを入れておく普通の茶だんすデ、一体何故にそこに入っていたかは謎だったが、とにもかくにも食べなくてよかったとほっとしては適当に蓋をして流し台にほうっておいた。しかしこれまた場所が悪くて、ガスレンジの換気扇の下でタバコを吸う度に、骨壺が迚も目障りで落ち着かなかった。結局ある暇な朝にわたしはそれをじっと眺めては、玉で製られたものだと信じ込んでいた骨壺が、実は玉と見せかけたプラスチックに過ぎなかったことに気づく同時に、なぜだか知らないけれど例の親父の無茶ぶりが思い浮かび、まあそんなに無理難題な頼み事でもあるまいしやったるか、とタバコを吸いながら軽い気持ちで考えていた。

かの鉄梃親父は存命中にも荒唐無稽な寝言をよく言う人で、その傾向は病を患ってからは止まることなくますますひどくなる一方で、たまにはただのわたしへの嫌がらせにちがいないと思わされるほどだった。いきなりカニ料理が食べたいとか言い出して西海(ソヘ)[2]の海岸に送りだすし、<アチンマダン>になぜイ・クミが出ねえのかとKBS[3]に聞いてこいとコキ使うし、植民地時代の建物になぞって建てられた居酒屋を目にしては、夜ひっそり行って火をつけてこいと言ったことさえある。それにはさすがに呆れたわたしも、なにバカいってんの、わたし捕まっちゃえばおとっつぁんの世話は誰がすんだよ、一人ではトイレもろくに行けねえくせにと唇を尖らしたら、あの鉄梃親父はひゅーっと背を向けて寝返ってはまる半日は一言も口利かなかった。晩ご飯の時がになるとまた懲りもせず、そういえばさ、パプリカってな、赤のやつと黄色のやつで何が違うんだいとわたしに聞いてきて、洗い物をしていたわたしはまたそのまま水気どころか石鹸さえも拭ききれていない手で、スマホで検索した。絳は骨粗鬆症に、黄色は高血圧に効くらしいよ、と素直に教えてやった。

もちろん仏の顔も三度までとよくいうし、わたしだって常日頃いい顔ばかりしていられるわけもなく、時折イラっとくることも多々あって、例えばある時は金魚を十匹ぐらい買ってこいと、布団の下からくしゃくしゃくしゃっと揉まれた二万ウォン[4]を出すから、もう文句をいうことにすら疲れてしまい、黙って一匹二千ウォンの金魚を十匹も買ってきたことがある。そしたら渡された金魚をもってトイレに入っては一向に出てこない。一体何をしているのやらとこっそり覘いてみたら、水を入れた湯舟に金魚を引っ越させて、一匹ずつすくって掌の上で揉んだり撫でたりしながらじっと、ただただ観察をしていたのだ。父ちゃん正気かよとわたしがすごい剣幕で怒鳴ったら、親父は後ろに振り向いてびくともせず、平然たる顔で言った。魚って人の手で触ると火傷するんだって本当かどうか確かめようとしただけさ。わたしはトイレの敷居のうえに立ち止まったまま、堪忍袋の緒が切れたあまりに一瞬呆然となり、やっと気を取り直して再び怒鳴ったのだった。もういいかげんにしなよ!いい迷惑も全方位すぎるんだってば、と。

それでもまあ、かの鉄梃親父という人間にもままならぬものがあって、わたしが苛立てる度に備えての、いわゆる切り札とでもいうべき武器を隠し持っており、いざという時にすぐそれを出してくるのだ。それはわたしが五歳の頃、親父がわたしをプールに連れていったある夏のことだった。わたしは膝下くらいの深さのキッズプールで、親父は大人用のプールでそれぞれ泳いでいて、早速もキッズプールに飽きたわたしは、向かった大人用のプールで足が滑って溺れかけてしまい、あまつさえちょうどたまたま午前のプールにはわたしと親父しかいなかったのだ。

わたしはとうに三十路になった今でも、あの時のすべてをしかと覚えており、例えばプールの天井に張られた四角いガラスの隅々に、雨水が乾いた跡と土や砂の汚れがあちこちついていた模様なり、消毒剤の匂いがする水が体のありとあらゆる孔に闖入してきて、わたしの血を屈服させわたしを乗っ取ろうとしたことなり、なかなか足が届かなくて、地面に足を踏みしめる普段の感覚を探し求めすべての神経を集中し、早く届けと切に切に下へ下へと伸ばしていったサビシい足の裏、そういったささやかなものまでもが未だ記憶に新しい。ましてやあの日のことを思い出せば、わたしは水に溺れかけたわたしでもあるけれど、その同時にあたかもプールの天井から自分自身を見下ろすように、観察者目線からもがくわたしを眺めることもできる。それはそれでやはり生々しくて、アカい水玉柄のスイムキャップを被ったブサイクな女の子が徐々に溺れ死してゆくサマを、まるでスノーボールのごとくひと目で見渡すこともできる。

ところがわたしがあの日のことについて、たった一つ思い出せないこともある。それはほかならぬあの親父がわたしを助けてくれるシーンだった。それはあのコトに関して親父が覚える唯一な事柄でもあり、親父はわたしの溺れるところを目にするなり、すかさず駆け込んで泳いでわたしをスクったらしい。親父の切り札とはまさしくそれだった。わたしが苛立てて不機嫌だったり頼みを聞き入れてくれない度に例の話を切り出し、ふにゃふにゃした幼きわたしの躰がどれほど柔軟に親父の首に粘着したか、息をすることに必死になったあまりに自らの父親の頭を抑え込んだ力がどれほどすさまじいものだったか、このようなことを語ったうえで、最後には必ず、あの時俺がいなけりゃお前はとっくに溺れ死にしてるんだぜと、粛々というのだ。黙って好き放題にいわれっぱなしでいい気にさせてはこっちもたまったもんじゃないので、父たるものとして精々娘を助けた程度の話なんてそんな我が物顔でうぬぼれるネタかよ、と言い返したりするが、不思議なことにそのことをいわれると、口を封じられ全身が重たくなる一方でついにはココナッツワーターとやらを買いに真夜中のコンビニに行ったり、製造会社に電話をかけ扇風機のファンは何故に反時計回りにしか回らないのか問い合わせたりもした。

もうクソ親父はくたばっていないのだけれど、流し台のうえにとぐろを巻いて座り込んだ骨壺を目にする度に、わたしはそっくりあの時と同じ気分になる。しかしその骨壷はそれは生きている親父とはまるで別物で、ただ無視してばかりしまえばそれだけの話。わたしはさほど不便は感じずして、骨壺をベランダにうつしておきながら、いずれヤンジェ[5]に用事があればついでに買い物でもするか、と思うっきりですっかり忘れていた。そんなはずが、またこれ不思議なことに前々から決めていた予定のように、わたしは朝起きてご飯食べてテキトーだけど化粧までして、ヤンジェへ向かうバスに乗っていて、バスのなかで一眠りした後起きてから、あ、はめられたとやっと気がついた。

結局その日、黒い土をひと袋とガリガリの木を一株買って帰ってきたら、土はさておきこの木でいうと、ぶ厚い葉っぱが僅か数枚ばかり垂れていて、何度見返してもみずぼらしいヤツだった。花き園芸市場の、そこそこハードルの低そうなお店のまえでひょいひょいちらちらと覗き込もうとするところ、ふくよかな店長のおじさんが出て、お探しのものでも?と尋ねてくるものの、さすがに口が裂けても親父の遺骨に植えるものを探しているのですが…というわけにもいかず、はぐらかそうと口を濁していたら、ならばこれ、といいビニールポットに植えてあるげっそりとした樹一本を勧めてきたのだった。それなりにご立派な名前もあったけれど、聞くっきりですっかり忘れてしまい、五千ウォンというから五千ウォンを渡して店を出たらそれだけだった。

帰ってきてリビングに新聞を敷き骨壷を出した。中身をぶちまけて、加熱した錐でビニールポットの底に水が流れる穴をあけ、土と混ぜてビニールポットのなかに戻した。遺骨はほんの少しだったしさほど細かくまでは挽かれていなくて、ところどころわたしの爪くらいの大きさの鈍い骨の欠片が混ざっていた。わたしはそれをいやというほど触りたくない同時に、指先で一寸(ちょっと)転がしてみたいとも思った。結局のところ後者の気持ちが勝って、そのなかで最もおっきい欠片を執ってコロコロと転がしては、光に照らしてみたりこの骨は親父のどの部位だっただろうかと考えてみたりもした。そしたらついに夕方になってやっと、今や植木鉢と呼ぶけれども本来は骨壷だったものに土と骨の粉を混ぜ入れて木を植える作業が終わり、植物の植たての時のお決まりの「お作法」のように、水をたっぷりやってベランダに斜め立ったまま鉢の下からちょろちょろと流れ出てくる泥水を眺めた。

そしてお湯で手まで洗ったらとても疲れてその日は早く眠りにつき、次の日からわたしはすでに鉢のことはすっかり忘れて以来一度もキにしたことがなかった。そのうちみずぼらしかった木はヒトリですくすく育ち、梢からつるつるとした緑色の皮革のような若葉が芽生え幹もふとくなりつつあったけれど、ある日わたしがリビングに座って洗濯物を畳んでいたときに急にベランダから親父の声が聞こえた。

水。

わたしは最初びっくりしてしばらくぼっとしていたがすぐ、なんなんこんなんじゃ生きてた頃と何らちっとも変わりゃしないだろうがと愚痴をこぼして、コップ半分くらいの量の冷水をやり、親父は満足げに葉っぱを徐にうなずかせながら水を飲むのだった。

 

その後も親父はすくすくと育ちすぎて、鉢を二回も新しいものに入れ替えなければいけなくて、水もひとカップでは足りないほど、たくさん飲むようになった。育てば育つほど葉は生い茂り、幹も太くなり、もはや一本の樹として見るに殊勝なものになったけれど、多少剪定くらいはさせてくれてもよかろうに、剪定のせの字だけでも悲鳴をあげ全力で嫌がるので、ボーボーと伸び放題に放置するほかなかった。こうなることとわかっていたら、少しは可愛らしくて小さな苗にした方が断然よかったと時折後悔することもあった。まあそれでも親父は概ね気分良さそうだったし、必要とするものも水と光しかなかったから、存命のときよりはずっと手間がかからず楽だった。

それでもあの親父はさすがにあの鉄梃親父なのだから、相変わらずたまに変な真似をつづけていて、一体どうやって見るのかわからないし、聞き専なだけなのか知らないけれど、とにかくテレビの前へつれてってといい「韓国グルメの旅」という番組を一日中観ていたり、根に虫がいるみたいだから引っこ抜いて確認してちょうだいと頼むこともあった。わたしは爪下に土が入ることが嫌で、まあ後で、と言ったら例の伝家の宝刀、プール事件を話題にしてきた。昔ね、俺が人間だった頃な、お前がプールでさ、水玉柄のスイムキャップを被ってさァ…。ああわかった、わかったってばよ。結局使い捨てのビニール手袋をつけ、親父を引っこ抜いて根のところをよく確認したが、もちろんそこには何もなかった。

 

わたしはフランス語の小説や雑文の類を翻訳するお仕事としている。いわゆるフリーランサーと呼ばれるで基本家で仕事をするとはいえ、仕事自体が少なくて無為徒食する日だって多かった。最近とりかかっているものは、ある無名作家の『りんご』という小説であり、自分がりんごであると信じ込んでいるフランス人女性が主人公の物語なのだ。その女性の人は物心のつく頃からそう信じていたため、歩く代わりに転がり、化粧の代わりに皮の光沢を磨き、食べ物も清キ水を飲むことがすべてだった。ある日その女性(ひと)は街中で、フルーツジュースをその場でしぼって売る露店という驚くべき光景を目にして、ショックのあまり一瞬気を失ってしまう羽目となった。転倒し真っ二つに割れた姿でベッドを丸二台占めたまま、病院で目がさめる。子房なりなかの種なりを曝け出した自分の姿に羞恥心を覚えたことも一瞬のこと、女性はすぐに極度の精神的な混乱に陥ってしまう。体が割れたときに、あたかも精神も真っ二つに割れたようで、意図やら意識やら意思やらがいったい、どの欠片の方に宿っているのかが自らも区別つかなくなったのであった。

丁寧な治療にもかかわらず、女性はだんだん腐っていき、最後には病院のベッドで息を引き取った。臨終の際、なんとか力を振り絞って発した言葉は医者にはまったく伝わらず、もう一度聞き返したところで女性の息が途絶えた。その最後のセリフは我武者羅に書き散らされたアルファベットの列となっており、医者はおそらくそれはりんごの言語ではなかろうかと思い深く悲しむ。わたしはここのくだりまで訳して、てんで話にならないものだと思って一笑に付したが、一笑するほかないものこそりんごのゲンゴだなんて。親父はキになっても窓あけろ、コーラ買ってこい、普通にのうのうとよくもしゃべるのに。

わたしは合間に休憩を入れるというよりむしろ休憩の合間に仕事をする感じで気が向いたらたまに働いたけれど、とにかく、気が向いたらたまに働きつつ、あんな荒唐無稽な物語の翻訳を淡々としていった。わたしの働く間に親父は何をしているかというと、洗濯機の上にスワり込んで日当たりを満喫しては太陽の動きに合わせて、おーい、ユジンよ、ソ・ユジン、と大声でわたしを呼び、わたしはフランス語の辞書を机の上に「ん」の字において、ベランダに出て親父を日差しのあたる方にうつしてやったりした。そしたら親父はまた静かになり、わたしも仕事に戻ることができたのだった。

もう親父の看病はしなくてよくなったので、やりくりできる時間も増えて作業スピードも調子に乗ってきて稼ぎも多少よくなった。翻訳仕事の手当をもらう度に、わたしはかわいいワンピを一着買ったり肉を買ってきたりしたのだけれど、ただで済ませることも親父に対して後ろめたいものがあったので、黄色い植物用の栄養剤をさしたら、これを飲んだ親父はまるで若い頃に戻った感じがするぜと楽しげにしていた。若い頃って、一体子どもの頃のことをいうのか、それとも種だった頃のことをいうのか考えていたら、わたしまでも真っ二つに割れそうなほどわけが分からなくなったからやめた。そうやってわたしと親父はしばらくはまあまあうまくやっていた。

 

 年を越して、わたしはボブだった髪の毛が肩らへんまで届くようになり、一方親父はハーモニカからヴァイオリンくらいまで長さが伸びた。その頃、わたしは木の親父との同居生活にすっかり馴染んで、親父も木生活にまたしかりだった。もちろんたまにはあーだこーだ言い合って口喧嘩をしては、あんなもんいっそ伐ったろうかと思うこともあったけれど、大概は仲良くしていた。

 カラダが大きくなるにつれて、親父はベランダ生活に飽きてきたようだった。最初は窓を全開して外の空気を取り入れたり景色が眺められるようにしてやったら、カササギもハトも網戸についたカメムシも見たりして盛り上がっていたが、それにもだんだん飽きてくる様子が見えた。とうとうある日差しの良い春日に喘ぎ声で、ユジン、出よう、出たい…というから、鉢から抜いてほしいの?と聞いたら、そうじゃなくてただ外に出てみたいとのこと。よいしょ、声を出しながら鉢ごと抱えて持ち上げてみたら、思いのほかそれほどは重たくもなかったものの、とはいえ気軽に持ち歩けるような重さでもなく、お父さん、これ重すぎてだめっぽいんだけど、といい持ち下ろしては、親父はあからさまにがっかりしてまたもや葉っぱをぐでっと垂らすのであった。そうやってしばらく黙っているので、わたしは途中でやめた掃除に戻り、ついでに洗濯まで済ませた。ベランダに立ち洗濯物をパンパンして干していたら、唐突に親父がしゃべり出した。昔さァ、覚えてるかい、お前が6歳の頃にさァ、プールに溺れかけたお前がさァ、自分さえ助かればよいと、あの幼い子は俺の頭を水にさァ。

 翌日わたしは近所の雑貨屋さんにいってもってこいの台車を買ってきた。まさに台車という名に相応しい形をしたそれは、プラスチックの板にちっちゃな車輪と手すりをつけてあった単純なものだったものの、親父はそれを目にするなり、枝までぷるぷると揺らしながら気に入った様子を隠さなかった。それに親父を乗せてまるでベビーカーを押すような模様になってそのまま外へ出たら、地べたが凸凹なところではちょっと押しにくかったけど、それでもなんとか親父を散歩に出かけさせることはできた。公園にいこう、いやバス停にいこう、映画館にも行きてェな、いろいろと親父は葉っぱをこすりながら楽しげに叫び出したりする一方、わたしが万一誰か親父のしゃべっているところが聞こえてしまうかひたすら心配で、静かに、もうちょっと小声でいってよ、と囁きながら台車を押したのは、ヒトに聴かれたらここにしゃべる植木鉢がありますとNASA、国情院[6]それとも百歩譲って「世にも珍しき話」[7]の取材陣などが騒ぐかもしれなくてのことだった。

 わたしは親父のいう通り公園にも行ったし、バス停にじっと座り込んでバスに乗る人たち降りる人たちを見物した後、映画館に向かい近頃どんな映画が上映されているかを確認し、帰り道には再び公園を通ってきた。このルートはそのまんまわたしたちの散歩道に決まってしまった。わたしは二日か三日に一度は必ず親父を台車に乗せて決まったルートを散歩してきた。時には帰り道の買い物で手に入れたもの一緒に台車に乗せたりして、突然に降ってきたわか雨にうたれて、びしょびしょに濡れた姿て帰ることもあった。その度、親父はそれとコントラストをなすかのように、さらに緑を増して葉っぱが薄いエメラルドの欠片のようにきらきら光ったりもしたのだった。

 

 ある日、いつものように親父を乗せた台車をゆっくりめに押して公園に向かったけど、私がよく休んだりしたベンチに見知らぬ男の人が座ってサンドイッチを食べていた。私は親父をひょいと持ち上げ横のベンチにスワらせては、私も座って膝をぽんぽんと叩きながら帰り道ではサンドイッチ買おうかなと思っていたら、突如親父が囁いてきた。ユジン、みろよ。あれだあれ。

 言われてみればたしかに、男の横にうちの親父と同じくらいの大きさの植木鉢がおいてあった。そこにはまんまるで元気な葉っぱが生い茂っている木が一本植えてあった。パッと見てもかなり入念に育てたことがわかるモノで、私も親父もわァ、と感心しながらチラ見していた。男はまったくこちらには興味を示さず、手持ちのサンドイッチの最後の一口を口にぽろっと入れてから、ビニールの包装紙をぐしゃぐしゃと丸めて少し離れているゴミ箱に投げた。丸められたビニールはヒジョウにクリアで端正な放物線を描いてぽん、とゴミ箱に吸い込まれていった。私は人がゴミを投げるところを、ヒジョウにクリアで端正だなと思ったことが滑稽で、一瞬微笑んだ。一方、男の方はベンチの下にしゃがんだらそこには私たちのと同じ緑色の台車が折りたたんであった。男はそれを手慣れた様子でもとの形に戻し、植木鉢を乗せて私がそうしたように、からからからと音を立てながら台車を押して公園を出た。私と親父は男の後ろ姿をぼーっと眺めて座っていて、そうやって数十分を費やして、その日だけは普段と違ってバス停にも映画館にも寄り道せずじまい、そのまま帰ってきてしまったのだ。

 その男に再びハチ合わせしたのはそれから二日後のことで、男はその日も同じ席で同じサンドイッチを食べていて、最後の一口まで食べ終わった後は、例のごとくビニールを丸めてゴミ箱に投げつけた。あの日と違ったことがあるとしたら、今日は一発で入れることに失敗したことであって、男は多少気まずい気配で立ち上がり、ゴミ箱の横に落ちた包装紙を拾いに行くところが見られた私は、なんだか嬉しい気持ちになった。

 親父は親父で男の植木鉢にキを奪われていた。私は親父にそんなことできるはずなんてないと内心思っていたので、いきなり親父がお天気ですねェと声をかけたらびっくり仰天、ましてや男の方の植木鉢が、ええそうですねとしなやかな女性の声で答えたときには、思わずうぐっと変な声を出すほど、さらに驚いてしまった。驚いたのは男も同様だったようで、片方の頬をサンドイッチで膨らませたまま、私と同じく目が双方の植木鉢を往復し、私と目があったらまるでご説明願います、とでもいうかのように、まんまるになった目で首をかしげた。私は、ごめんなさい、うちのお父さんが、とは言ったばかりで、もちろんそれですべて説明がつくとは思わなったけれど、男は、ああそうですかと答えてきた。今度は私が驚く番で同じ仕草をしたら、男がうちのオカンなんです、といい自分の植木鉢に目をやって、私もようやくああそうですかと答えられた。すると男はまるでドラえもんのポケットのように、何もないはずのところからビニールに包まれた新しいサンドイッチをじゃじゃーんと出して、私に食べますか、とキいてくるのだが、ちょうどそれが私の大好物のサーモンサンドイッチだったので、遠慮もせず軽くお辞儀をしたあと頬を膨らませながら全部食べちゃった。

 

 あの初対面以来、ワタシタチはほぼ毎日同じ時間帯の同じ場所でハチ合わせし、その男の名はPなんとかで、単にPって呼んでほしいこと、挿絵を描くことが趣味かつ職業で、主に童話の本や子供向けの絵本に載せられるということ、タバコはメンソールを、コーヒーは薄めのラテを嗜み、どちらかといえば猫派ということまでわかった。

 親父もPのお母さんに会うと随分とおしゃべりになって、あれこれ盛り上がってしゃべるし、たまにオヤジのオヤジギャグが功を奏すると、Pのお母さんはぷぷっと笑い、その度私たち二人は妙な表情(かお)になったりした。あのフタリが気楽に話せるよう、私は公園を一回り散歩してきませんかと、Pをタブラカして長い散歩をし、戻ってきたら親父はお前ら帰ってくんのが早すぎると拗ねる様子、Pのお母さんは若葉の周縁の部分が薄く赤らんでいた。

 ある日Pが自分ちでのディナーにお誘いをしたから、お約束の日に私は親父と一緒に出かけた。あの日私は新しいワンピを着て、Pには甘いポートワインを一本、Pのお母さんのためには、土に一度塗ってさえおけば十年はもつというドイツ製の個体肥料を用意した。その日は親父もおしゃれしたいといい、私が剪定バサミでかかってもじっとしていて、ばっさりと枝切りをしたら容姿キレイになってPのところへ向かった。

 Pが開けてくれるドアの隙間から、美味しい匂いの混ざった暖かい蒸気がホクホクと吹いてきて、私は家に上がる前からよい心地を感じた。Pんちはうちと似た間取りで、ベランダ付きのちんまりとしたリビングに、さらにこじんまりとした寝室があるちっこいマンションの一室だった。私がひと目で彼の部屋の気に入ったところといえば、客がくる予定が入ってから急いだ整理整頓のため、そこまで綺麗には拭かれていない隅っこや、ところどころ手の跡がついたガラスの窓、あっちこっち擦れた跡の残る床などが好きだからであり、実際そのことを口に出していったら、Pは恥ずかしがった。

 Pは4人掛けのダイニングテーブルに、何種類かの手作りの料理をふるまい、私とP、親父とPのお母さんがそれぞれ向き合い座って食事をした。ワイングラス4本に私の手土産のポートワインとミネラルウォーターを2杯ずつ注いだあと、ワインは私にワタし、ミネラルウォーターは親父にやったら、Pはこれぞ酒池肉林ならぬ酒池水林だねとさほど面白くもない冗談をしたが、親父はそれにゲラゲラと幹を曲げながら笑った。私はお腹いっぱいご馳走になったけれど、Pは止まることもなく、じゃこれもあれもといい、美味しいお料理を次から次へとどこかから出してきて、皿はなかなか空っぽになることを知らなかった。ようやくあらゆる鍋もお皿も空っぽになってから、終にPはわざとらしくうしろ髪をけばだたせながら、あ、タバコがないや、というので、私はPに一緒に買いに行こうと誘われる前に、先手を打ってすでに玄関で靴に足を入れていた。

 春の夜だった。空気からライラックの香りがした。Pはマンションの団地内のどっかにライラックが生えているはずだけど、どこにあるのかはわかんないとつぶやき、私がそっかぁと一言を口に出したあと、互いに黙々と口をキかなくなった。私たちはそのまま、団地の入り口にあるコンビニまで歩いていってタバコを買い、帰り道もこんな無口な感じだろうなと思ったところ、Pんちの近くまで戻ってきた頃に、Pがライラックでも探すかのようなソワソワとした仕草で、花壇の方をチラチラしていて、口では、僕ら付き合ってみませんかと。私はそうですか、そうですね、と答えた。

 翌日親父にこのことを報告したら、親父はそうりゃよかったねェと答え、いやーそれにしてもユジンよ、最近めちゃくちゃ天気いいよなぁといい急に話題を変えようとするから、私は昨夜私たちが出かけた間に、親父もおカァさんに似たようなことを言ったな、そして、おカァさんも私と似たような答えをしたな、と察した。

 

 Pも私もふたりとも結構なインドア派で、私たちはほとんどの時間をPんちで過ごした。Pんちにはカレの絵の具などがいっぱいあって私はそれで落書きをしたり、それとも漫画を読んだりしながらカレの仕事三昧を眺めていた。描き主そっくりでふわふわしっとりとした彩りの、暖かい雰囲気の絵が、白い紙のうえにそろりと淡くできあがってゆく光景は、いくらみつめていても飽きることがなかった。Pはそうやって何時間も無口で絵を描いては、突然腹減った、あるいは肩が凝ったとかぽろっといって、そんなとき私たちはご飯を炊いたり、外に出て短い散歩を満喫して帰ってきたりした。

 お親父(とう)さんおカァさんも私たちとほぼ似たようなモノで、精一杯に幹を曲げ相手に向かって斜めになったまま、昼間は日差しに当たって晩には葉っぱを垂らして毎日を過ごした。親ギザギザとたお親父さんのぶ厚い葉っぱが、おカァさんのちっこくてまんまるい葉っぱをありったけの愛情を込めて撫でるところを私はチラ見で目にして、いいトシしてどんだけのろけんだよと、こちらまでハズカシくなるような思いをした。

 Pと私のおしゃべりタイムは、主に布団に入って寝る支度をする時間(とき)だった。Pんちの寝室の天井には、古びて薄暗い星模様の蓄光シールが数枚貼ってあって、その下で私たちは色いろな話をした。例のプール事件を、お親父さんがその話を今でも蒸し返しすことまで含めて話したら、Pは布団を蹴りながら笑った。おカァさんのエピソードも請うたら、Pは選んで選んで8歳のときの話をしてくれた。デパートでおもちゃロボットをおねだりしすぎて、それに怒ったおカァさんがおもちゃコーナーの店員おばさんにPを連れていって、そんなにロボットが好きならいっそのことロボットおばさんと一緒に暮したら?とだけ言い残し、Pをデパートに残したまま、おカァさんは一人で帰ったというエピソードだった。ぽんと置き去りにされて、そこまでいうんだったらそうすっかぁと思ったPは、おばさんのシフトあがりを待ちそのおばさんちにまでついていって、飯も食わせてもらっいアニメも見せてもらい、挙句の果てにはぐっすりとよく寝て、翌日おばさんの通勤と一緒に出て自分もバスに乗って実家(おうち)に帰ってキたという話で、キいた私は腹をキってへそがよじれるほど捧腹絶倒。そうやって話に花が咲く頃、眠気がさすとベランダから親父とおカァさんのひそひそと話す声が聴こえる。夜の空気の膜を一重一重突き抜けて私たちの部屋にまで流れ込んでくるあの声は、軟らかい子守唄のように、ぐっすり私たちを寝付かせてくれるのだった。

 朝起きてベランダに出ると、お親父さんはおカァさんと葉っぱなり枝なりを相絡めたまま私におはよう、と気持ちよさそうな挨拶をし、私は前日汲んでおいた水道水を半コップやることで新しい一日がはじまった。

 お親父さんとおカァさんは、しばらくして完全に互いに寄り添い合って、折らずしてはきり離せないほど枝どうしががんじがらめになって、まるで一本のキ同然だった。よくよく見なければお親父さんとおカァさんを見分けられなかったし、あえて見分けようとする必要もなかったし、その理屈だと私とPもほぼ似たような人間(モノ)どうしで、それに加えてそれぞれ私はお親父さんにPはおカァさんに似たはずだから、結局ワレワレ4ニンは皆で相似していくモノだった。それはそれで悪くなかった。

 

 夕方、Pはリビングにだらけて私の訳した『りんご』を読んでいる一方、私は口さみしさを感じておやつを考えていたところ、お親父さんがねぇ君たちちょっとおいでごらんと言い出し、Pと私は思わず視線を一度交わしてからベランダへと出た。まーたどんな無茶振りをするつもり?とささくれていたら、そんな私にPがやめなよとイマシメの視線を送ってくることにお親父さんは気づかないふりをして、さぞかし威厳を込めようとした声でこういった。俺たち、結婚するつもりなのだよ。Pの方をチラっと見たらPも必死に笑いを堪えているから、私は遠慮なくゲラゲラ笑った。Pが私を笑わないでとつつき、自分ははなから笑ったことはまるでなかったように開き直った。そんなことはどうでもよくてまったくキにせず、私は笑いたいだけ笑ってから、ところで急にどうしたの?と聞いたら、待ってましたとでもいうかのようにお親父さんは答えた。コドモができるんだ。

お親父さんの発言が私に想像させたものは、赤ん坊の形をした根を引っこ抜くと悲鳴をあげるというマンドラゴラとか、映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』に出るようなベビー・グルートみたいなものばかりで、まったく実感が湧いてこなかった。実(じつ)はまあ、変なモノといえばお親父さんもじゅうぶん変だよなと思いまたニヤニヤしたけれど、お親父さんのいった「コドモ」というものは私の想像を遥かに超える、違うモノだった。生い茂った枝をかき分けたら、ちっちゃくて丸いツノ模様にカタく巻いてあるものは、間違いなくツボミだった。お継母(かあ)さんが恥じらう声で、明後日頃に咲きそうなんだと囁き、私とPはまたもや目が合った。ま、とにかく、おめでと。Pが冴えない顔でいうから、その渋い表情が全般的に滑稽に思えて、私はその場に座り込んで再び大笑いをしてしまった。

Pと私はその宣言(けっこんしき)の翌日、花き市場で一番デカくて立派な植木鉢を買ってきて、注意深く引っこ抜いたお父さんとお継母さんを混植した。それから私は一張羅ワンピを、Pはスーツを着込んで、ミンナで食卓を囲んでケーキのキャンドルに火をつけてシャンパンを飲んだ。お父さんがこれはどちらかといえば誕生日じゃねェかとすねようが、私は楽しくて楽しくて、時折妙な気持ちが込み上げてくると、これぞ親心ならぬ娘心なのかしらとボケて、座中を笑わせた。

その夜布団に入って、もう私たちって兄妹(きょうだい)なんだねといったらPが、じゃキョウダイどうしでは絶対しないことでもしてみるかい?と誑かしてきたもので、天井の星もそれがハズカシすぎて―いや実は壁を打ってしまって―落ちてしまった。とにかくそんな夜を送って、次の日の朝には、いつのまにかそのうち花はぱっと咲いて、黄色い花粉まみれのピンク色の花芯からの生臭くて甘い馨りが家じゅうを満たすのだった。

 

花が散るとそのアトには絳くて小さキ実がでキた。

お父さんとお義母さんは結婚式(あのひ)からほぼ言葉を交わすことはなく、ただたまに片方がヒトリ笑いしたりぷるぷると震えたりことがあって、もはや声を出して話さずとも互いに通じる仲になったようだった。もうフタリして一本のキなんだから当たり前のことであった。

そのまま秋が深まるにつれて実もだんだん育ち、最初は小さいボタンくらいの大キさだったものが、日増しに実りのでキもよくなり、キャンディくらいになり、お餅くらいに大キくなって、皮もつるつると光沢がでキたほど熟してキた。じっとみていると時々でこでこと動くこともあって、指先で蝶よ花よと撫でると軟らかくてふわふわするところがなかなかかわいかった。私は毎日その絳キ実を観察しつつ、もう熟したかないつ熟するのかなとぐいぐいついてみたり、声をかけてみたりしつつ待ちわびていた。

ヘタの辺りが赭(クロアカ)く染まり、大キさもそれなりに大キくなって丸く体を巻いた子うさギほどになったある夕方ついに、産まれる、産まれるよというお義母さんの叫び声が聴こえ、私はそちらにすぐ様突っ走っていった。あの絳キ実が自らの表面をぷるぷると揺らしながら、枝から落ちようと必死にもがいていた。そしたらあっという間にぴょんと軽く落ちて、ごろごろごろと転がっていった。ソファの下の狭い隙間に入るところだったヤツを、素早く手を伸ばしたPがつかまえた。あったかい。Pがいった。

私が手を出したら、Pが生まれたてのヤツを私の掌においてくれた。Pのいった通り、ソイツは本当にあったかくて、目も鼻も口もついていないくせになんだかたまらないほどかわいくて、つい頬ずりしまくりたくなるモノがあった。私はPにヤツをかえした。ところで、コイツをどうすればよいのやら。Pが掌のうえで実をゴロゴロとあやしながらいった。そういえば実がはやく生まれてほしいと思ったあまりに、アイツが生まれたらどうするかについてはまったく考えたことがなくて、私も鼻のあたりを顰めてPと目を合わすだけだった。

実(み)はPの掌のうえで一瞬コロコロしては止まり、それがあたかも寝落ちたようでもあって、Pはおずおずと実を食卓へもっていき、タオルを敷いたそのうえにおいた。してから私とPは実を間に向き合って座り、ヤツをどうするかながく議論した。このまま放っておくと腐るだろうし、生まれたてのやつを土に埋めて鉢に植えてしまうことも後ろめたくてなかなか結論が引き出せなかった。ましてや張本人のお父さんとお義母さんに訊いたら彼らは呑んキな声で、あんたらの弟なんだからあんたらで決めなさい、というのだった。私たちはまたしばらくあの実(こ)をつねたり撫でたりして、どうしようどうしよう悩んだが、結局Pが立ち上がって引キ出しからフルーツナイフを持ってきた。普通に半分こに切り分けて食っちゃお。

私も悪くないと思った。Pが実の皮にフルーツナイフを入れるなり、よく熟していたアノコは真っ二つにワカれ、真っ赩(か)な果肉がなかなか美味しそうだった。私とPは各々半分ずつ取り上げて、せーので同時に口に入れた。ふわふわ香ばしい味に甘い果汁が穣(ゆた)かで、私たちは目を丸くして美味しい、という表情(かお)になって顎を懸命に動かした。ごくりと呑み込めば喉を降りる砕けた果肉の動きがくすぐったく、すぐにあの赩いニクが胃腸にぽちゃんと落ちること、軟らかく溶けていくことまで、あたかもリアルタイムで見ているようにその一々がすごく生々しかった。

私はその夜、不思議な夢をみた。営業のおわった遊園地のようなところを走り回りながら、いつまでも延々と果てしなく転がっていく絳キボールをひたすら追っかけ続ける夢だった。結局ボールをつかんでポケットに入れた瞬間目が醒めて、朝起きてこの夢のことを話したら、Pは、えっそれって妊娠の兆しじゃないの?といい、私もぼっとしてそっかなぁ、といった。



[1] 穀物の粉を混ぜてつくられた韓国伝統飲み物。淡い灰色の粉(=カル)状態のものを水や牛乳にに溶いて飲む。長持ちするので保存食や非常食にも、カロリーの低さからダイエット食にもつかわれたりする。

[2] 中国との間にある、朝鮮半島の西側の海、またはその海岸。世界的な規模とされる干潟とそこからの海鮮が有名。

[3] KBSは日本のNHKにあたる国営放送。アチムマダンは「朝の庭」の意で、KBSで長く放送された朝のトーク番組。イ・クミはその番組の司会を長らくやってきたアナウンサー。

[4] 1円は約10ウォン。

[5] ソウルで花き園芸の市場で有名な町。

[6] 国家情報院。韓国政府における大統領直属の情報機関。

[7] 韓国の長寿プログラムで、各地の不思議な物事を取り上げるバラエティー番組。

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