野家啓一『物語の哲学』より

「まず実在する歴史が仕上げられなければならず、次いでこのこの歴史が人間に物語ら(raconter)れねばならない。(本文)
加えて、歴史的想起なしには、すなわち語られ(oral)たり書かれ(ecrit)たりした記憶なしでは実在的歴史はない。(注)」

(…)後半の注においては、その時間的順序を逆転させ、「語る」あるいは「書く」という人間的行為によってはじめて実在的歴史が成立することを述べている。その語るという行為を「物語行為(narrative act)」と呼べば、実際に生起した出来事は物語行為を通じて人間的時間の中に組み込まれることによって、歴史的出来事としての意味をもちうるのである。ここでコジェーヴが述べているのは、「歴史」は人間の記憶に依拠して物語られる事柄のうちにしか存在しない、という単純な一事にほかならない。

これら二つの歴史観の違いを、われわれはアーサー・ダントーの「実体論的歴史哲学」と「分析的歴史哲学」というコントラストに重ね合わせてみることができる。前者は、完結した歴史全体という概念を前提とし、それに関する包括的な理論を構築しようとする試みである。(…)

それに対して後者は、歴史を「物語る」という言語行為によって構成されるものと考える立場である。コジェーヴの短い注に示唆されているこの後者の見方こそ、「歴史の終焉」以後に「歴史」を語りうる唯一の場所であるとわれわれには思われる。

ダントーはその「分析的歴史哲学」の内実を敷衍するために、「物語文」と「理想的年代記」という二つの特徴的な鍵概念を提起する。物語文とは、「二つの別個の時間的に離れた出来事E1およびE2を指示し、そして指示されたもののうち、より初期の出来事を記述する」ような文のことである。

(…)歴史は「物語文」を語るという言語行為を離れては存立しえないと言わねばならない。(…)「理想的年代記」とは、時間的に継起する出来事を、すべてそれが起こった瞬間に書き記しておく膨大な歴史年表のようなものである。それゆえ、理想的な年代記作者は、他人の心の中までも含めてあらゆる出来事を瞬時に把握し、それを筆写する超人的能力を備えているおのと仮定されている。(…)しかし、この作者が書き留めることができるのは、歴史の材料であって、歴史ではない。というのも、彼は単独の出来事を記述できるだけであり、複数の出来事を関連づける「物語文」を書くことができないからである。「神の視点」から見下ろした歴史とは、おそらくこのようなものであろう。そこには複数の出来事を結び合わせる「人間的コンテクスト」が欠けているのである。

歴史的出来事は、この「人間的コンテクスト」の中で生成し、増殖し、変容し、さらには忘却されもする。端的に言えば「過去は変化する」のであり、逆説的な響きを弱めれば、過去の出来事は新たな「物語行為」に応じて修正され、再編成されるのである。これは不思議でも何でもない日常茶飯の事実にすぎない。(…)歴史は絶えず生成と変化を続けていくリゾーム状の「生き物」なのである。

このように言えば、直ちに次のような反問が返ってこよう。すなわち、それは過去の出来事の「評価」が変化しただけであり、過去の「事実そのもの」が変化したわけではない、と。だが、これが理想的な年代記作者の視点からの反論である。(…)コンテクストから孤立した純粋状態の「事実そのもの」は、物語られる歴史の中には居場所をもたない。脈絡を欠いた出来事は、物理的出来事ではあれ、歴史的出来事ではないのである。ある出来事は他の出来事との連関の中にしか存在しないのであり、「事実そのもの」を同定するためにも、われわれはコンテクストを必要とし、「物語文」を語らねばならないのである。

過去の出来事E1は、その後に起こった出来事E2と新たな関係を取り結ぶことによって異なる視点から再記述され、新たな性質を身に帯びる。それゆえ物語文は、諸々の出来事の間の関係を繰り返し記述し直すことによって、われわれの歴史を幾重にも重層化して行く一種の「解釈装置」だと言うことができる。いわゆる「歴史的事実」なるものは、絶えざる「解釈学的変形」の過程を通じて濾過され沈殿していった共同体の記憶のようなものである。(…)歴史記述とはまさに「過去の制作」にほかならないのである。

歴史は超越的視点から記述された「理想的年代記」ではない。それは、人間によって語り継がれてきた無数の物語文から成る記述のネットワークのことである。そのネットワークは、増殖と変容を繰り返して止むことがない。言い換えれば、物語文はその本質において可謬敵なのであり、クワインの周知のテーゼをもじるならば「いかなる物語文も修正を免れない」のである(…)。そして、このネットワークに新たな物語文が付け加えられることによって、あるいはネットワーク内部のすでに承認された物語文が修正を被ることによって、ネットワーク全体の「布置」が変化し、既存の歴史は再編成されざるをえない。その意味において、過去は未来と同様に「開かれている」のであり、歴史は本来的に「未完結」なのである。

人間は「物語る動物」あるいは「物語る欲望に取り憑かれた存在」である。それゆえ、われわれが「物語る」ことを止めない限り、歴史には「完結」もなければ「終焉」もありはしない。もし「歴史の終焉」をめぐる論議に何らかの意義があるとすれば、それは歴史の趨勢を予見する「超越論的歴史」に引導を渡し、歴史記述における「物語の復権」を促すというその一点にのみ存する(…)。それは同時に、歴史を「神の視点」から解放し、「人間の視点」へと連れ戻すことにほかならない。

われわれは今、大文字の「歴史」が終焉した後の、「起源とテロスの不在」という荒涼とした場所に立っている。しかし、その地点こそは、一切のイデオロギー的虚飾を脱ぎ捨てることによって、われわれが真の意味での「歴史哲学」を構想することのできる唯一の可能な場所なのである。

野家啓一『物語の哲学』(岩波現代文庫、2005年)8~14頁。

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