ソ・チョンソク「精神科医が診断を下すということ」(FBより)
「うちの子ってチック症なんですか?」
「子供がADHDかどうかを知りたくて…」
病院を訪れた親御さんたちがよく口にする言葉である。親御さんたちは子供がどのような病気持ちなのかが知りたがり、そのほとんどがその病を持っていないということを私から聞きたがる。たとえうちの子がこのような症状を持っており、そのせいで大変な目にあってはいるけれど、とはいえ病ではないということを確認しようとする。そのとき、私に与えられた役割は判定官である。あなたのお子さんは正常です。否、あなたのお子さんは患者さんです。
しかし、どのようなときにも私の役割は判定官ではない。私は医者であり、病気で困った人を助けることこそが私の役割である。困った、という言葉には病名以上の何かがある。病名は、たった今、私の前にいる人の困りごとをとりあえず説明するためにつけておいた、お粗末な方便にすぎない。彼の心の痛みは、病名ではすべてを完璧には説明できない。仮に、同じ病名がつく人を一人も残さず皆集めたとしても、彼らの痛みというものは、皆それぞれ異なるわけである。うつ病を患う千人の人たちは、それぞれが千通りの違ううつを持ち、もっとも、彼らははなから千人の違う人間であった。
とある子にADHDという診断名を下したからといって、その子=ADHDであるわけでもない。子供には、診断名なんかでは言い表しきれない膨大な側面がその裏にある。例えば、認知能力が著しく優秀なADHD(持ち)の子もいれば、そうではないADHDの子もいる。社交的で愛想のいいADHDの子も、他人に何の興味もないADHDの子もいるわけである。攻撃的で怒りっぽい子もいる一方で、とても温厚だったり自己主張があまりできないADHDの子もいる。この子供たちが共通してもつ困りごとがあって、これに対してADHDという名前をつけたものの、子供たちは皆それぞれ違う。過去も違えば、現在も違い、未来も違わざるを得ないであろう。
診断は英語で「diagnosis」である。「dia-」はその語源上、「徹底的に」「深く」という意味で、「gnosis」は「認識する」「理解する」という意味である。結局、診断というのは「深く」「理解する」過程である。診断名をつけることが診断のすべてではない。その人を深く理解するためには、別に診断名をつける必要性はない。一人の人間の苦痛に対し、私が理解したところをさらにもっと長く述べることもできる。精神科で修練を受けるとき、我々は可能な限りそうせよと教わった。生きる一人をそっけない診断名に閉じ込めたまま、それを「理解した」といってはならないのである。どんな「患者」でも、診断名で説明できないものよりも、その数十倍も数百倍も何かを裡に秘めている。
しかも、診断は治療過程でいくらでも変わりうる。精神科の領域では、とくにそのような場合が多い。精神科の診断は、未だその疾病の原因に関する確固たる理解よりも、患者の症状に基づく。すなわち、特定の脳の細胞やその細胞間のある異常を確認したうえで診断を下すのではなく、ある症状を一定期間以上、一定程度以上呈するのであれば(そしていくつかのしれた理由が原因ではないことさえ確認されれば)診断を下す。いわゆる「現象学的診断」である。したがって当初に診断を下した内容が、治療の過程を経ていくらでも変わりうる。患者への理解が深まるからである。うつ病の診断を下した人の治療にあたってみたら、実はその人が躁鬱(双極性障害ー訳者)であったことがわかったり、躁鬱と診断したが実はその裏にあった境界線パーソナリティ障害を見つけたりすることもある。診断が変わったからといって誤診なわけではない。さらに深く理解していけば、別の診断にたどり着くこともあるのである。
診断というものは、痛みの持ち主である一人格を理解する永い過程ではあるが、治療をはじめるに際して我々は診断名をつけざるを得ない。診断名をつけてこそ、やっと国民健康保険の診療費を請求することができ、初期の治療プランを立てることができる。もちろん、かといって医者たちがその診断名に囚われた視線で患者に向かい合うわけではない。患者への理解が深まれば、自身の診断も変わりうるとわかっており、診断名という単なる枠の外に存在する一人の人全体を理解しようとする。
他人とのインタラクションにまったく興味がなく、専ら自分の世界に耽っている子供。普通の両親が、他の両親と同じように子供をケアしたにもかかわらず、相変わらずインタラクションがままならなく、言語発達も遅延する子にであえば我々は自閉スペクトラム症という診断を下す。しかしその子が、これからも自閉スペクトラム症という最終診断を受けるかは断言しない。たった今、ここでは、幼児期の自閉スペクトラム症に基づいて治療を進めることが妥当であろうと考えるのみで、治療の過程でその子の見せる反応次第、いくらでも診断名を変えることができる。
親御さんたちは、私のところを訪ねて、自身の子供に病気がないといってほしいと思う。私も同じ気持ちである。ところで仮に、私のところへ来た子供が、数年も苦労をしているのに病気がない、というのなら、その子の苦痛にはどのような名前をつければいいのだろう?どのような理由をつけねばならないのだろう?ただ「病気はありません」とだけ聞いて、安心したまま家に帰ったら問題は果たして解決するのだろうか?束の間の喜びはあるかもしれないが、結局子供はどのような助けも受けることができないまま、これからも苦痛になるだけではなかろうか?
診断名というものは、我々が、苦痛と、痛みと、困難と闘うためにつけた名前に過ぎない。大したものではない。人間の背負った苦痛を理解し、助けるために人間がつけた枠なのである。診断名をつけないからといって幸せにはなれない。むしろどうしようもなくなるだけである。我ら人類がこれまで研究・探索してきた範囲の外の苦痛であり、まだ助け方がわからない苦痛なのである。医者にできることがなければ、苦痛は患者本人が一人で立ち向かわなければならない。
私は今日も、困った人に会い、彼らに診断を下す。しかし、診断は特権ではない。人に烙印を押したりレッテルを貼る行為ではない。彼らが正常かどうかを判断する行為でもない。ただ、彼らを苦痛から助けるためにする行為である。もっと深く理解する過程に過ぎない。もし助ける必要がなければ、あえて診断を下す理由もなかろう。人間は診断名で限定することのできない存在である。ただ、私に助けを求めたがゆえに、彼らのことをもっと深く理解しようと努力してみたがゆえに、その努力の結果を一次的に整理したものが、他ならぬ診断である。助けが必要であれば、診断を受ける必要が生じる。診断の過程を通して、自らへの理解が深まる。しかし、憶えておかなければならない。医者は判定官ではなく、診断名はあなたではない。いつもあなたは診断名以上の存在であり、医者はそんなあなたを助ける存在である。
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もうひとつ。
精神科の医者も、もちろん、診療室の外で人に会ったりするわけである。皆冗談をいう。あなたと面を向かえば、私のことを異常な人と診断するか怖いと。しかし、精神科の医者とて人に会って相手を診断するわけではない。診断する権利もないし、実は診断する能力もない。他の人々同様、精神科の医者も眼の前の人に、ただ人間として向き合い、人間として理解するのみである。診断は苦痛を背負った人を助けるために、彼を理解する過程である。理解というものは、なかなか容易いものではない。慎重でなければならないし、テクニカルな出会いが必要であるし、知識に基づいた観察を必要とする。時折、相当な時間をも必要とする。
精神科的診断を判定だと思う人びとがいる。正常か非正常を判断する過程とも誤解されたりもする。そんなことはない。精神科的診断が判定になってしまう瞬間、人々が精神科の医者に自らの真実を見せられなくなるのであろう。そしたら我々は、彼らを深く理解しえないし、終には助けることもできない。診断はその目的を達成できずじまいのまま、失敗してしまう。補償などを目当てに障害診断を受けに来た人々がそのいい例である。彼らはしょっちゅう自分自身の状態を騙すため、我々は彼らのことを正しく理解することに失敗したりする。理解したとしても、表面的にしか把握できないままである。障害の診断を下したあと、後日再開したら、あのとき私が判定した人とはまるで別人であったことに気づくこともある。
ときどき私は親御さんたちにいう。なぜ診断を受けようとされるんですか?と。子供の苦痛を助ける目的でなければ、あえて診断を受ける必要はないという。診断の目的は助けることにある。助けが必要でなければ診断を受ける必要もない。親たちはいう。子が正常であることを確認してもらいたくて、と。しかしすべての子供は正常である。ただすこし異なる正常状態であるのみ。子供が苦痛に陥っているとしても正常である。我ら皆は、ただ、異なる人生を生き抜きつつあるだけである。
どこまでが正常でありどこからが非正常であるか、それを区別することは思うより難しいことである。そして無意味でもある。正常でも我々は苦痛で、ときには助けが必要である。少なからずの人々が、歴史の永い自分の限界で苦しんでいる。新たにできた苦痛とともに一生生きていかなければならないときだってある。しかし皆正常である。ある人は手の凝った助けが必要で、ある人は助けなんか必要としないが、いずれも皆正常である。そして、その同時に、我ら皆は幾分はまた、非正常でもある。
歴史を通じて我々は学んだ。人間に非正常のレッテルを貼ることは、とても危険であることを。それは助ける目的の行為ではない。排除と差別を生み出す。だから、心配するなかれ。精神科医は同胞市民を診断しない。ただし、あなたが私の前に、苦痛を背負った一人の人間としてやってきて、助けを求めるときに、その助けのために診断するのみである。理解しようとかかるだけである。それが、診断のすべてである。