薩摩

夢のあとさき(第五章⑩)

 京では…。
 永禄八年(一五六五年)五月十九日、将軍・足利義輝が、久永久通と三好三人衆によって殺害されている。義輝は足利幕府権力の復活を目指して奮闘したが、時世の流れに抗するすべなくついに倒れた。
 貴久は遠く離れた鄙にはあったが、征夷大将軍・足利義輝を畏敬すること一方ならぬものがあったようだ。長子・義久の名前も義輝から一字を賜り、伊東氏との争いに際しては調停を仰ぐなど、義輝を武士の棟梁として偏

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夢のあとさき(第五章⑨)

 忠平は飫肥に居た。義父・忠親に仕えて北の伊東の動向に目を配っている。伊東義祐は性懲りなく、飫肥一帯を我が物にせんと蠕動していた。隙あらば襲いかかろうと、あの谷この尾根に兵を配してこちらを伺っている。ここしばらく仕掛けてはこないが、一瞬の油断もならない。
 「油断のならぬ相手だ。今は鳴りを潜めているがの。物見を厳重にせよ。斥候を怠るな。」
 見回って督励している処に、忠親の使いが来た。
 「書院に

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【映画館】天外者(てんがらもん)

 走る浪人風の侍。それを追う大勢の侍。
 もう一人走る浪人風の侍。それを追う大勢の侍。
 追手から逃げるように走る侍は、走っている最中に万華鏡を除く武士とぶつかり、その武士は万華鏡を落として壊してしまう。ぶつかった武士は壊れた万華鏡を覗いて呆然とする。
 万華鏡の武士に気づかずに走り続ける侍が角を曲がるとそこでもう一人の逃げる浪人風の侍とばったりと出会い、同じ方向に走っていく。並んで走っている最中

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日比谷のみずほ銀行、鹿鳴館オマージュ説。

鹿鳴館とは

1883年 明治16年に井上馨外務卿が日本の急速な欧米化を目論んでイギリス建築家コンドル設計により建てられ、井上馨失脚と同時にその役割を終え、1890年に華族会館として払い下げられ、鹿鳴館としての運用は6年あまりと短命な施設だった。

1940年 昭和15年 建て壊し。

昭和17年出版の「海軍七十年史談」沢鑑之丞 著 から抜粋すると

・鹿鳴館と聞けば日比谷の華族会館かと承知するほ

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夢のあとさき(第五章⑦)

 肝付氏の本姓は伴氏である。平安時代に伴兼行が薩摩掾に任命されて大隅国に下向した。大隅国肝属郡を領有したので、郡名から肝付と自称した。十六代・兼続は、正室に日新斎の娘・御南を迎え、妹を貴久に嫁がせて、日新斎・貴久の島津相州派と紐帯を強くしたが、一方で勢力拡大に努め大隅半島をほぼ制圧した。六千の兵力は島津が動員する兵力と互角かそれ以上の勢力となっている。
 兼続は天文二十二年(一五五三年)、嫡男・良

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<スポーツの醍醐味はここだ...> 〜キックボクシング大会運営を通じて〜

少しゆとりが出てきた為、まともなNOTEを書きたいと思う。

事後だが、スポヲタとして12月6日(日)に、元キックボクシング日本チャンピオンの薩摩3373さんによって鹿児島にて開催された、新規キックボクシング大会「ERUPTION2020」の運営サポートをさせていただいた。

主催者の薩摩3373さんは、鹿児島出身で、正真正銘のキックボクシング日本チャンピオン。地元では言わばレジェンド的な存在であ

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夢のあとさき(第五章⑤)



 弘治二年(一五五六年)三月、貴久は五千余騎の大軍を発した。目指すは蒲生範清の本拠、龍ヶ城である。義久・忠平・歳久の三兄弟をはじめ、忠将、尚久の二弟、北郷忠相、樺山善久、伊集院忠朗、種子島時堯、肝付兼演など一郡を領する主将がこぞってこの決戦に馳せ参じた。
 龍ヶ城もやはり、類を見ない難攻不落の堅城である。標高一六二メートルの龍ヶ山頂に本丸を築き、尾根続きの北端に二の丸、その麓に三の丸を配してい

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