鎮西平氏が生まれた瞬間
⚫︎NOTEで初投稿いたします。宜しくお願いいたします。
挨拶だけの投稿では物足りないので、ちょっとばかり歴史ネタで投稿をいたします。還暦を過ぎても好奇心は止まることを知らず、歴史、デザイン、ジャズ、ギター、写真といろいろなことに頭を突っ込んでいますので、今後とも宜しくお願い申し上げます。
⚫︎九州の武家〜鎮西平氏〜が生まれた瞬間
12月8日夜のNHK大河「光る君へ」では周明との死別のシーン、恩賞に対する陣定シーン、乙丸の嘆願するシーン、倫子の「私が気付いてなかったとでも?」で今回が終わる・・・今回の大河ドラマの世界での見せ場だと思うのですが、僕自身にはもっと重要なシーンがありました。多分、殆どの人にとっては見過ごしてしまうワンシーンかもしれませんが、僕はそこに食い入りました。
刀伊の入寇の後、このシーンがあって、九州には多くの武家が生まれていきます。
⚫︎鎮西平氏
隆家が平為賢に刀伊族撃退の恩賞として、肥前の高来郡(島原湾・有明海、西部は橘湾に臨む一帯)を為賢の所領とし、そこの国司に任じた(勿論朝廷の陣の定に従い)ことです。
ちょっと大袈裟ですが、これが鎮西(九州)平氏が生まれた瞬間でした。平為賢は伊佐為賢と名乗るようになり、高来郡一帯を伊佐早としました。伊佐早とは今の長崎の諫早のことです。
ここまでは鹿児島とはあまり関係がありませんが、実はここから鹿児島と繋がりが出来ていきます。
⚫︎薩摩平氏
それから暫く時代が経ち、薩摩の豪族達(国司や郡司をはじめとする地元の有力者達が入っていると思う)と伊佐氏の間に多くの縁組がなされました。これは婿取り合戦ですね。
平為賢の子孫の伊佐氏は元は桓武天皇のひ孫(高望王)に繋がる貴種・・地方では貴種の血統がどうしても欲しかった筈です。
「我こそは平朝臣〜〜〜」と名乗りたかったのだと思います。家格や権威が違ってきますから。
その流れで、薩摩でも平氏が増えていきました。これが薩摩平氏です。島津家以前の薩摩の武士団です。
河邊氏、伊作氏、阿多氏、谷山氏、頴娃氏、加世田氏、鹿児島氏、串木野氏、指宿氏、知覧氏・・etc...など鹿児島の地名そのままの平氏がずらりと並んでいます。
薩摩半島の方はそうなんですが、大隅半島の方は伴氏=肝属氏(大伴氏の子孫、自顕流開祖、幕末に小松帯刀)が居たので、そこはどうだったんだろうと気になります。
この時代にはどこにでもあるかも?な話ですが、やはり、身近な話なので嬉しいです。
刀伊の入寇、本で読み文字情報では頭に入ってはおりましたが、今回のNHKドラマで血の通った人間が演じるのを見て、断然、理解が進みました。映像の力はすごいですね。史実に忠実じゃないところがあるかもしれませんが、そこは自分で勘案しながら観れば良いと思いました。