[研究] さつま汁考 ―― さつま汁とはなにか? 江戸時代の薩摩人はそれをなんと呼んでいたのか――
※このエントリは筆者の Fanbox からの転載です。
https://mitimasu.fanbox.cc/posts/8606285
江戸時代の薩摩人は、サツマイモをサツマイモと呼ばず、カライモと呼びました。
その後もずっとカライモと呼び続け、鹿児島県でカライモとサツマイモの使用頻度が逆転したのは平成以降ではないかと思います(個人の主観です)
アメリカ人がアメリカンドッグと呼ばないようなものです。
中国人が冷やし中華と呼ばないようなものです。
では、江戸時代の薩摩人は、さつま汁をなんと呼んでいたのでしょう?
これが、とんとわからないのです。
それどころか調べれば調べるほど
「さつま汁とは、どういう料理か?」
までが、ゆらいでしまうのでした。
ちょっと、調べてみましょう。
## さつま汁とはなにか?
現在(2024年)の、広く人口に膾炙している定義で言えば、こうです。
「鶏肉を入れた具沢山の味噌汁」
ほら、いま、ここで読者の何人かは
「あり? 豚肉でなかった? さつま汁≒豚汁でなかったっけ?」
と小首をかしげたはず!
ともかく辞典辞書や堅い情報源から定義を拾いましょう。まずウィキペディア。
ウィキペディアは、ちょっと内容にブレがあります。つまり
「薩摩の肉入り味噌汁(鶏に限らない)が、明治時代に「さつま汁」と呼ばれるようになった」
と
「薩摩には肉食習慣があり、闘鶏で負けた鶏を汁にしたのが『さつま汁』のルーツである」
の両方を整理せずに書いているため、さつま汁が原則としては鶏なのか、鶏はべつに原則じゃなくて獣肉ならなんでもいいのか、いまいちハッキリしないのです。
ともあれウィキペディアの記述をいったん採用して整理するとこうなります。
肉入り味噌汁である(鶏肉・豚肉・(ニワトリ以外の)鳥肉・兎肉を使う)
鶏肉が使用されることが多い
明治時代に全国に広まり、さつま汁または鹿児島汁と呼ばれるようになった
逆説的に、江戸時代に薩摩でなんと呼ばれていたのかはわからない
次にコトバンク
さあ、わからなくなってきました。
みそ汁に限らなくて、すまし汁でもOKだよ派(デジタル大辞泉 , 日本国語大辞典)
豚肉の方が主流だよ派(日本国語大辞典)
基本は鶏肉なんだけど、全国各地に広まって豚肉や牛肉が使われるようになったよ派(日本大百科全書 , 百科事典マイペディア)
そして、混乱をあさっての方向からかきみだす「世界大百科事典」www
大分県の佐伯などでは、白身の魚をすりまぜた味噌汁を「さつま」と呼んでいる。
この大分県の佐伯の「さつま」を、豊後水道をはさんで対岸の愛媛県の宇和島では「さつまじる」と呼んでいる。
ええ……なにそれ……
そんで、その佐伯の「さつま」と宇和島の「さつまじる」は、江戸時代からの言葉なのかどうかがわからないので困ったちゃん。
まあ、「さつま汁」という言葉が全国で通用にするようになったあとに、わざわざ同じ言葉を使って別のものを表現するとも思えません。
佐伯と宇和島は江戸時代には白身魚のすり身が入った味噌汁を「さつま」または「さつまじる」と呼んでたと考えましょう。
整理します。
肉入りの汁である
鶏肉または豚肉を使う
(ニワトリ以外の)鳥肉や兎肉を使ってもよい
魚肉でもよかった可能性がある
基本は味噌汁だが、すまし汁でもよい
明治時代に全国に広まり、さつま汁または鹿児島汁と呼ばれるようになった
逆説的に、江戸時代に薩摩でなんと呼ばれていたのかはわからない
次に、郷土料理といったら、ありがとう政府系サイト!な農林水産省『うちの郷土料理』を見てみましょう。
農林水産省は、原則として鶏肉だよ派でした。
農林水産省にかぎらず、「さつま汁」のルーツを解説しているページの多くが『薩摩旧伝集』をソースにしていますが、私はその一次ソースの部分にたどり着けませんでした。
しかしまあ、重要なことが書いてあります。
この部分です。
『薩摩旧伝集』も戦国時代の武将たちの伝承の本ですから、つまり男たちの記録です。
私は一次情報を確認できませんでしたが、おそらく男が料理して仲間内で食べたというたぐいの話でしょう。
その後の江戸時代でも、士風高揚に行った闘鶏で負けた鶏をその場で〆て調理しているのです。
ただの料理ではなく、荒々しい男の遊びとしての料理なのです。
「さつま汁」のルーツは家庭料理ではなく、青年や中年や壮年の男どもが集まって、酒盛りしながらつつく、あの雑なナベ料理なのです。
あるものをテキトーにぶちこんで、味噌やダシ醤油で煮る、あの雑なナベ。
大学生のサークルの部室鍋。
アレです。
そりゃあ、みそ仕立てのときもあれば、すまし汁のときもあります。
鶏肉の時もあれば、豚肉の時もあります。
キジやカモや兎肉でもいいし、なんなら魚でもいいわけです。
さあ、ちょっと光明が見えてきました。
次に鹿児島県公式サイトから、PDF。
ここにもほら。
やはり、さつま汁は「男鍋」なのです。バカが酔っぱらってても作れる簡単料理。
野戦料理風にってんですから、さつま汁のルーツは闘鶏がさかんいなるよりもっと前、戦国時代の野戦料理がルーツと見るべきでしょう。
そのとき手に入った材料を、そのとき持ってた調味料で煮る、雑な陣中食が、さつま汁のルーツなのです。
だから、ウサギでもタヌキでも魚でもよかったわけです。
食べられるならなんでも。
戦国時代は全国各地の武士が肉食していましたけど、太平の江戸時代に入ると廃れてしまいました。
戦国をひきずっていた薩摩だからこそ、汁に肉を入れる風習が残ったと思われます。
あと、琉球との関係で豚肉料理・鶏肉料理にアクセスしやすく、その美味しさを知ったらやめられるもんかい!て事情もあったでしょう。
整理します。これで決定とします。
戦国時代の野戦料理をルーツとする肉入りの汁である
肉は必ず入れる。食べられる肉ならなんでもよい。魚も可
闘鶏が盛んだった関係で、鶏肉が使われることが多かった
基本は味噌汁だが、すまし汁でもよい。原理主義的には塩だけでもよい、はず。
原則として、男たちが酒宴でつつく鍋料理であり、男たちで作る料理だった
明治時代に全国に広まり、さつま汁または鹿児島汁と呼ばれるようになった
逆説的に、江戸時代に薩摩でなんと呼ばれていたのかはわからない
こうして、定義は私としては納得できるものになりました。
江戸時代、薩摩での宴会でこの男鍋を食べた佐伯人が、
「あのコッテリした味をなんとかして再現できないものか……」
と考えて試行錯誤のうえ、白身魚をすり身にして入れた味噌汁を開発し、「さつま」と呼び、それを食べた宇和島人が地元に伝えて「さつま汁」と呼ぶようになった……とまあ、これは空想です。
まあ、空想の部分はさておき、佐伯と宇和島での呼称から推測できることがあります。
薩摩人は、自分たちの男鍋に、特に名前をつけてなかったっぽい……と。
名前がついていたら、佐伯人は「白身魚のすり身みそ汁」を、その名称に近い名称で呼んだでしょうから。
というわけで、ここから国会図書館の本を調べていきます。
## おそらく薩摩人は「さつま汁」に名前をつけていなかった
> 鰌と鮒 : 飼ひ方売り方料理法 (趣味の副業叢書 ; 第9篇) - 国立国会図書館デジタルコレクション — https://dl.ndl.go.jp/pid/1178957/1/33
この本には「さつま汁」のルーツについて何も載っていません。昭和二年の本。
ただ、『鰌《ドジョウ》の薩摩汁』なる料理が出てきます。
「さつま汁」が、ようするに肉か魚の入ったゴッタ煮であると認識していなければ、さすがにドジョウ汁を「さつま汁」とは呼ばないでしょう。
> 実験家庭七面鳥処理及び料理法 - 国立国会図書館デジタルコレクション — https://dl.ndl.go.jp/pid/1109389/1/38
これも同類。七面鳥! ターキー! まさかターキーも「さつま汁」にされるとは思ってなかったでしょう。昭和三年の本。
> 割烹教科書 - 国立国会図書館デジタルコレクション — https://dl.ndl.go.jp/pid/926774/1/20
ここでは動物性たんぱく質として、「焼き魚」を使っています。大正七年。
もう日本人がだいぶ肉食に慣れたころですが、さすがに「割烹料理」としては豚肉や鶏肉に抵抗があったのでしょうか。
> 島津風懐石くずし : 薩摩料理と日本の味 - 国立国会図書館デジタルコレクション — https://dl.ndl.go.jp/pid/12102085/1/56
これは懐石ですが、薩摩人が薩摩料理を解説している本なので、遠慮なく豚肉・鶏肉を使います。
その記述が興味深いのです。
「さつま汁」を作るとき、上級武士は主に鶏肉を用い。非武士とか下級武士とか青年とか若い荒っぽい人々は豚肉を使ったと。
なるほど、そういう使い分けがあったのだとすれば、のちの辞書で、鶏が主だったとする派と豚が主だったとする派に分かれたのもうなづけます。
著者が島津姓であるところを見ると、先祖は島津家に連なる人でしょうから、信頼してよさそうです。
> 美味の遍歴 - 国立国会図書館デジタルコレクション — https://dl.ndl.go.jp/pid/2488809/1/45
こちらの本では鹿児島出身だという著者の寺下辰夫(詩人が本業らしい)が、「さつま汁」について語っていますが、使うのは「骨付き豚肉」であって、鶏肉のトの字も出てきません。
> 乃木夫妻の生活の中から - 国立国会図書館デジタルコレクション — https://dl.ndl.go.jp/pid/1213585/1/115
こちらの本では「鹿児島風の鶏の汁、即ち通例、薩摩汁と云ふ」とあります。
乃木希典氏、長州人ですがさすがに上流階級だからか、豚ではなく鶏のさつま汁を召し上がっています。
次に興味深い記述がこちら。
> 久徴館同窓会雑誌 (22) - 国立国会図書館デジタルコレクション — https://dl.ndl.go.jp/pid/1537007/1/23
>余輩ガ郷里ニテハ通常之ヲ滅多汁トモ称ヒ又鹿児島汁ト云フ
この文章の執筆者は、汁講が再興してほしいと訴えています。
汁講とは、ようするに鍋パーティーです。
明智光秀が好んだと伝わります。
そして、次のように言ってます(赤線部分)。
「汁講とは、私の故郷では通常、滅多汁と呼ばれるもので、鹿児島汁とも呼ばれるものだ」
と。
滅多汁は北陸の郷土料理で、ようするにゴッタ煮です。
> めった汁 石川県 | うちの郷土料理:農林水産省 — https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/mettajiru_ishikawa.html
やはり、さつま汁のルーツは戦国時代であり、ようするに男衆の雑な鍋料理宴会に始まるのです。
しかし、国会図書館を検索しても、鹿児島汁はもちろん、「さつま汁」でヒットする江戸時代の文献は見つかりませんでした。
その呼称は、おそらく明治以降に作られた呼び方なのです。
検索数のヒットが伸びるのは明治21~23年頃です。
いったい、江戸時代の薩摩人がこの料理をなんと呼んでいたのか、私は見つけられませんでした。
なぜでしょうか?
推測になりますが、おそらく、名前がなかったからじゃないかと思います。
鹿児島城は今では地元民に鶴丸城と呼ばれていますが、その呼び方は明治以降の呼び方で、江戸時代はだれも鶴丸城なんて呼んでいませんでした。
なぜでしょうか?
なぜなら、名前をつける必要が無かったからです。
ただ「城」とさえ呼べば、地元ではそれでことたりたのでした。
鉄道時代になって他県にいったり他県人が来たりするようになって、はじめて区別が必要になったから「鶴丸城」と呼び始めたのです。
「さつま汁」も、まったく同じ構図でしょう。
手持ちの材料を使い、手持ちの調味料で味付けする男の雑な手料理なので「汁」とさえ呼べばこと足りたのだと思います。
鹿児島・宮崎には『冷や汁』という郷土料理があります。
通常は焼きアジのほぐし身を入れるのですが、『アジ汁』とは呼びません。
南九州においては「汁とは必ず動物性たんぱく質を入れるもの」であり、わざわざ当たり前のことを強調するという発想がなかったんじゃないでしょうか。
私も大学生の頃、サークルの仲間と
「鍋でもするか」
となったとき、いちいち「〇〇鍋にしよう」と決めて作るのは半分くらいで、残り半分はテキトーに肉と野菜とタレ・ツユを買うだけでした(ビンボ学生だったので圧倒的に鶏の水炊きが多かったのですが、いちいち、水炊きしよう!とか鶏ナベしよう!などとは言いませんでした)。
若者の雑な宴会とはそういうものです。
話をもどしましょう。
幕末までは、薩摩ではただ、それを「汁」とさえ呼べば十分だったのです。
でも、明治時代になって薩長閥の大臣たち増え、世間はなんでもかんでも薩摩のものが流行します。
料亭では薩摩料理を出したがります。
海軍でも、薩摩の上級士官が
「よーし、おいどんが汁ば作っど!新兵どん集まれ~!」
なんて言って薩摩風の肉が入ったゴッタ煮をふるまいます。
そうなると、名前が必要になってくるのであって、ここで「さつま汁」「鹿児島汁」という呼び方が誕生したのです。
その実態が
「ようするに薩摩の雑なゴッタ煮。動物性タンパク質さえ入っていれば、それはさつま汁」
だったとしても。
ちなみに私の個人的な記憶にもとづく、さつま汁の印象は
「めっさゴボウの多い豚汁」
ですね。
鶏肉っていう印象はありません。
上流武士の家系じゃなかったんで。
もひとつ、ちなみに。
記事では触れませんでしたが、鹿児島・宮崎で「冷や汁」と呼んでいるものを、伊予では「さつま汁」と呼ぶようです。
もうわけわからんので触れませんでした。
おしまい。
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