慶長20年(1615)3月12日は京都所司代の板倉勝重が豊臣再挙の計画を江戸に通報した日。ここから僅か2か月で秀頼と淀殿が自害へ至る大坂夏の陣。前年12月冬の陣の和議が成立していたが互いに戦準備をしていた。もうすぐ次が来る空気感だったのでしょうね。いよいよ戦国の終わりがはじまる。
慶長19年(1614)10月11日は家康が大坂の陣に向けて駿府を出陣した日。7月に方広寺鍾銘事件が起き豊臣と徳川の交渉は続くが互いに戦の準備を進めた。駿府を出た家康は二条城に入り11月に奈良経由で大坂に向かい冬の陣が始まる。誰か抗っても止めなれない大きなうねりだったのでしょうか。
『1.618 BLOG』 → http://s.ameblo.jp/kayaori-saraki/ ┗🆕『メガネ・ジプシー』 国立博物館横の豊国神社。隣が方広寺。[国家安康][君臣豊楽]。家康がイチャモンをつけ、大坂冬の陣を起こした“あの鐘”がコレ。ポイッと地べたにあった記憶ありだが、今回は元の鞘。
慶長19年(1614)12月23日は大坂冬の陣の和議により徳川方が大坂城の堀の取り壊しを始めた日。3日前に成立した和議の条件に従った。名将言行録の逸話では大坂城は力攻めでなく調停して2度目でなければ落ちないと秀吉が自慢したことを世間は忘れ自分は覚えていただけと家康は語っている。
慶長19年(1614)11月26日は大坂冬の陣の最大の激戦といわれる鴫野・今福の戦いが行われた日。大坂城南側は真田丸が築かれたが北東は低湿地で豊臣側が鴫野村と今福村の大和川両岸の堤防上に砦を築いていた。2つの砦を巡った激戦で徳川勢に敗れた豊臣勢は撤退し城外の重要拠点を失った。
慶長19年(1614)10月11日は家康が大坂の陣に向けて駿府を出陣した日。7月に方広寺鍾銘事件が起き徳川と豊臣の交渉は続くが豊臣方は秀吉が残した莫大な金銀で浪人衆を召抱えるなどして互いに戦の準備を進めた。駿府を出た家康は二条城に入り11月に奈良経由で大坂に向かい冬の陣が始まる。
慶長19年(1614)12月23日は大坂冬の陣の和議により徳川方が大坂城の堀の取り壊しを始めた日。名将言行録の逸話では、この城は力攻めでなく調停して2度目でなければ落ちないと秀吉が自慢したことを世間の人は忘れ自分は覚えていただけと家康は語る。調子に乗って喋る人と要点に気付ける人。
慶長19年(1614)11月26日は大坂冬の陣の最大の激戦といわれる鴫野・今福の戦いが行われた日。大坂城北東は低湿地で豊臣勢が大和川両岸の堤防上に築いた防衛拠点を巡る徳川勢との激戦。豊臣勢は撤退し城外の重要拠点を失う。大勢を変えるには局地戦の前に何かあったでしょと思えてならない。
#1157 #グラーテ・ヘーゼの戦い #1614 #大坂冬の陣 #江戸幕府 #将軍 #徳川秀忠 #徳川家康 #嫡男 #江戸城 #1623 #イングランド #内戦 #エッジヒルの戦い