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大坂の陣のきっかけ・方広寺鐘銘事件は家康の言いがかりだったのか

 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1614~15年の大阪の陣において豊臣氏を滅ぼし、天下泰平を実現した。


 豊臣氏を追い詰めた家康のやり方に関しては、「陰険な狸親父」のイメージがつきまとう。例えば、大阪の陣のきっかけとして次のような話が知られている。

「方広寺鐘銘事件」のあらまし

 豊臣秀吉が建立した方広寺の梵鐘(巨大な鐘)に、「国家安康」「君臣豊楽」という文句があった。豊臣を滅ぼす機会をうかがっていた家康は、これに目をつける。「豊臣」を「君子」にする一方、「家康」の二文字が分断されているのは、家康を殺そうという呪詛である――と難癖をつけたのだ。こうして大阪の陣が始まり、豊臣氏は滅ぼされてしまった。

 この「方広寺鐘銘事件」は、家康による非道な言いがかりで、豊臣方は被害者だというストーリーとして知られていた。ところが、現在では上記の通説はすでに否定されている。そのきっかけになったのが、歴史学者の笠谷和比古氏の研究である。

非常識な「諱(いみな)」の使用

 そもそも、方広寺の鐘銘は東福寺の僧侶・清韓の手による。全152字もある長大なもので、徳川方はその中からわざわざ使えそうな文句を探して言いがかりをつけた――というイメージが先行している。
 もっとも、「国家安康」の文句が徳川方から問題にされたのは無理からぬ事情がある。現代の私たちが呼ぶ「信長」「秀吉」「家康」といった名前は、「諱(いみな)」という。諱とは「忌み名」という意味で、主君や親だけが呼びかけられるものだった。
 貴人の諱に使われている字を、文書などに使うのは不敬であるという考え「避諱(ひき)」という習俗も、漢字文化圏に広くみられる。「家康」の二文字を無断で入れたことは、当時の常識としては大変な非礼といっていい。

問題の銘文は「わざと」つくられた

 また、笠谷氏は銘文を書いた清韓の弁明も紹介している。それによれば、「国家安康」「君臣豊楽」は、「家康」「豊臣」の二文字を「かくし題(ある言葉を和歌や漢詩に入れ込む技法)」のように使った、と明言しているのだ。ただし、それは国家の安寧を願ってのことである、というのが清韓の言い分だ。


 つまり、「国家安康」「君臣豊楽」の文句は意図的につくられたもので、徳川方の申し立てはこじつけなどではないことになる。片方は「豊臣」の姓を使っているのに、片方は「家康」の諱を使うというタブーを犯している点も、家康の不興を買ったかもしれない。

 清韓のような学識のある僧侶が、諱を使う無礼を知らなかったとは考えにくいが、「国家安康」の文句が使われた意図は想像するほかない。

 方広寺鐘銘事件は、決して家康の言いがかり、難癖ではなかったのである。どちらかというと、方広寺鐘銘事件への豊臣氏の対応の誤りが、大阪の陣につながっていったとする方が適切なのだ。

(参考文献:笠谷和比古「関ヶ原合戦と大阪の陣」吉川弘文館)

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