慶長19年(1614)7月26日は方広寺の鐘銘に徳川の抗議があった日。銘文「国家安康 君臣豊楽」は諱「家康」分断の呪詛で豊臣が君主で楽しむ意図か、と大坂の陣は徳川の難クセと言われる。この時代、諱の分断に見えるは豊臣の脇が甘いとも。誤解を招かないように文章を推敲するって大切ですね。
『1.618 BLOG』 → http://s.ameblo.jp/kayaori-saraki/ ┗🆕『メガネ・ジプシー』 国立博物館横の豊国神社。隣が方広寺。[国家安康][君臣豊楽]。家康がイチャモンをつけ、大坂冬の陣を起こした“あの鐘”がコレ。ポイッと地べたにあった記憶ありだが、今回は元の鞘。
慶長19年(1614)10月11日は家康が大坂の陣に向けて駿府を出陣した日。7月に方広寺鍾銘事件が起き徳川と豊臣の交渉は続くが豊臣方は秀吉が残した莫大な金銀で浪人衆を召抱えるなどして互いに戦の準備を進めた。駿府を出た家康は二条城に入り11月に奈良経由で大坂に向かい冬の陣が始まる。
慶長19年(1614)7月26日は方広寺の鐘銘について徳川からの抗議があった日。銘文「国家安康 君臣豊楽」は諱「家康」分断の呪詛で豊臣が君主で楽しむ意図ではと。こうして大坂の陣は徳川の言いがかりから始まったとされる。ただこの時代は諱の分断に見えるのは豊臣の脇が甘いという指摘も。