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異形者たちの天下第3話-8

第3話-8 踊る漂白民(わたり)が笑ったあとに

 慶長一九年春に方広寺普請は完了した。豊臣秀吉の遺した事業の完成は、大坂方の感慨深いものである。淀殿あたりが一世一代の華々しい大仏開眼のセレモニーを画策しても、無理らしからぬことであった。この報せは幕府に届けられたが、京都所司代・板倉勝重を通じて徳川方はすべてを察知している。
 これに対しての回答は、嫌がらせそのものだ。
 七月三日、南光坊天海は大仏開眼供養に際し
「何とぞ我が天台宗を真言宗の上席とすべし。さもなくばこれの出席を辞退するものなり」
と文句をつけてきた。それに対して真言宗は抗議してきたし、また真言宗派でも内ゲバが起きて事態は混乱した。上席問題については大坂方は相当苦慮させられたようである。ようやくこれが鎮まり、改めて
「大仏開眼と堂供養は八月三日に執り行う」
と通達してきたのが二〇日前後。これに対して幕府は返す刀で
「開眼と供養は別々とするのが宜しい。堂供養は、八月十八日を以て然るべし」
と反撃した。
 八月十八日は秀吉の十三回忌である。このような大事を幕府が知らない筈がない。これはまさに歴然とした言い掛かりそのものである。仏事を催すその日に堂供養などできようか。
 そして最も悪質な言い掛かりである鐘銘事件は、七月二十六日に起きる。
徳川の使徒僧たる金地院崇伝が
「異議」
を唱えたこの事件の根本は、鐘銘に刻まれた文字にある。銘文を創案したのは東福寺の清韓文英であるが、この文面は事前に幕府へ届け出されており、その認可さえ下りていた。しかも四月十六日に鐘は完成し、月末には突き始めの儀が行われていた。
 にも関わらず崇伝が
「これは由々しき言葉なり」
と騒ぎ出したのである。
 このことを清韓文英は大阪城家老の片桐東市正且元から聞かされた。
 片桐且元は賤ヶ岳七本槍で知られる秀吉子飼いの武将である。加藤清正や福島政則等と比べて常に後進を踏まされていた彼は、秀吉の死に臨み秀頼の後見役を遺言された。以後、必死にその役目を務めてきたが、合戦のなかで生きてきた彼と淀殿の間でウマが合うはずもなく、何かと横槍が入って思い通りにならない苦労人だ。今度のことも当惑する淀殿に体よく面倒を押しつけられたようなものだった。武断派の彼は弁論に弱く、それで清韓文英に助け船を求めたのである。
 このとき幕府側から突付けられたのは
「国家安康」
の銘文が家康調伏を意味しているというものである。すなわち家と康をふたつに分断して、首と胴を斬ることを意味したという児戯に等しい言い掛かりである。
「崇伝ともあろう男が、血迷うたか。かつては南禅寺の同門であつたが、こんな馬鹿な男ではなかったぞ」
 清韓文英は呆れると同時に情けなくなった。自身も博識で讃えられたが、崇伝もまた学識秀才と呼ばれた同門である。ましてや自身は崇伝の先輩にあたり、こんな血迷うた仕儀に恥入る思いさえ抱いていた。なんとも情けないと、清韓文英は嘆きにも似た呟きを禁じ得なかった。
 幕府の言い掛かりにより、大仏開眼も堂供養もとりやめとなった。再開の目途すら立たない始末である。
「このままでは豊臣の面目が立ち申さず」
と、片桐且元と清韓文英は弁明のため駿府へ赴いた。
 ふたりが駿府に着いたのは八月十九日である。
 しかしふたりは家康への目通りも許されなかった。しかも本多正純の命令により、安倍川宿で身柄を拘束された。そのうえで、儒学者・林羅山、そして金地院崇伝や南光坊天海から、執拗な糾問を受けたのである。
 更に崇伝は
「右僕射源朝臣」
をこう読んだ。
「源朝臣を射る」
 右僕射とは右大臣の唐名で、源朝臣は家康のことだ。つまり右大臣家康という意味になるところを
「右僕」
を無視しした強引な読み方だ。
 更に
「君臣豊楽 子孫殷晶」
の銘文を
「豊臣を君として子孫の殷晶を楽しむ」
 元来は君臣ともに豊かに愉しみ子孫は栄えるという意味に解釈した。わざわざこういう読み方をするのは、害意以外の何物でもない。
 とにかく銘文をあらゆる不吉にこじつけて、豊臣家が幕府に対し叛意を抱いているのだと、糾弾してきたのである。こうなると弁明の次元ではない。なりふり構わず戦争の口実を突付けているに等しい。
「これはおかしい。是非とも大御所に目通りしたい。事の仕儀は直接弁明したいが如何に」
というふたりの主張は退けられ、半ば軟禁状態のように、毎日詰問が繰り返された。
 大坂城では一向に戻らない片桐且元に焦れて、九月二十九日、淀殿の側近たる大蔵卿以下女官一行が諮問のために駿府入りした。この女官たちに家康はすぐ面会し、饗応を尽くして送り返した。このことを知った片桐且元は地団駄踏んで悔しがった。が、どうすることも出来ない。
 淀殿というのは血統に秀でただけの世間知らずというイメージが世間に定着しているが、恐らくはその通りだろう。このとき大蔵卿を差し向けるならも、一旦は片桐且元を呼び戻し、仔細を見極めたうえで然るべく沙汰に及ぶのが筋である。それを怠ったばかりか、交渉にまで水を差すようなやりかたは、少なくとも片桐且元のやる気を喪失させる行為以外の何物でもない。また豊臣家の重臣で
「そのことに」
諌言ないし指摘する者が欠落していることも露呈している。
 家康は機が熟したことを実感しただろう。
 結局大坂へ追い返された且元の胸中は煮えくりかえったが、戦争回避の為には怒りを収めねばならない。当然、大阪城では女管たちと片桐且元の徳川方に対する見解は食い違っていた。大蔵卿はこの問題がさしたるものでないと報告していたが、且元は
「豊臣家存亡の危機」
を唱え、戦争回避を願うなら
「綺麗事」
は云ってられない状況にあることを訴えたうえで、場合によれば大坂城明け渡しか、淀殿の江戸身柄預けもやむを得ないとまで進言した。片桐且元は合戦の呼吸を知り尽くした戦場の漢であり、文官でない。だから、こういう駆引きは理屈でないことが判っている。
 が。
 淀殿はこの言葉を聞いて烈火の如く怒り狂った。
「そちは徳川の手先か」
 大蔵卿の報告とは程遠い片桐且元の言葉に、淀殿は烈火のごとく怒り痛烈な罵声を浴びせた。彼女は自ら、且元のことを裏切者呼ばわりした。その影響さえ考慮せぬ軽挙だ。そのことは瞬く間に大坂城内に広まった。片桐且元はそれでも堪えた。秀吉の遺命のためには
(どんなに汚名を晒そうとも)
 大坂城を捨てるわけにはいかなかったのである。
 
 このようなやりとりが交されていると知ってか知らずか、朝廷は七月二十四日付で豊臣家臣十四人に官位を下賜した。すべて幕府にも駿府の家康にも内緒の独断である。
 もっとも表向きは公卿補任のためであり、それなりの人物が実際に任官されている。豊臣のそれは、ドサクサで下されたものであった。これが帝の意思なのか何者かの入れ知恵か定かではないが、朝廷と豊臣の親密度をちらつかせる行動であったことは云うまでもない。
 家康はこの行動に対して強硬な干渉を行わなかった。
 代わりに京都所司代の兵力を増強することで無言の圧力を加えた。大坂城の救援より先に、幕府の兵が都へ殺到する。そのことを認識させれば、つまらぬ奸計も虚しくなる。確かに朝廷は、それだけで黙り込んでしまうのであった。
 
 世間でのそんな凄まじい情勢を、服部半蔵は知らない。
 家康からの声も途絶え、ただ麹町御門の守護のみに費やされる日々は退屈極まりない。倅の半蔵正就はいま一度修練すべく、大菩薩の山奥に籠もっていたし、多くの忍ノ者もこれに倣った。
 御門の闇の中で、服部半蔵はじっと考えていた。
 彼はまだ家康の密命を下していない。というより、とてもその気にはなれなかった。松平忠輝の首を麹町御門から伸びる街道の真ん中に埋めるという猟奇的なことが
(してはならないこと)
のように思えてならない。かといって、こんなことは他言できない。
(八郎さまのことを親身になって考えてくれる人など、幕府にはいない)
 この沙汰を必死になって押留めてくれる人物は、このとき江戸にはいなかった。家康に物申せる度量の男など……。
(いや、いる。ひとりだけいる)
 服部半蔵はその者にしか縋れないことを強く確信した。
 そうなったら居ても立ってもいられず、半蔵は変装して桜田の伊達屋敷へ忍んだ。幸い伊達政宗はこのとき江戸にいた。夜を待って、半蔵は天井裏から政宗に声を掛けた。
「服部半蔵か、久しいな。下りて参れ」
 ふわりと下りてきた半蔵は、伊達政宗の隻眼をじっと見つめながら
「お願いがございます。八郎さまの御生命に関わります」
と本題を切り出した。伊達政宗にとって松平忠輝は大事な娘婿だ。それに柔軟な物腰や南蛮への理解にも敬服するところがある。こうして服部半蔵がなりふり構わずやってたのは、余程のことと察した。
「話せ。儂の力が及ぶなら尽力する」
「まことに」
「まず話せ。仔細を教えよ」
 半蔵は家康の猟奇的な命令を伝えた。
 政宗は眉を顰めた。その変態的な遣り方が気に入らないらしい。と同時に、このことが何の利となるのかも考えた。
(そういえば)
 政宗は書物が好きで、古典や故事のものも一読する。確かそのような書のなかに真言立川流を扱ったものがあったのを思い出した。真言立川流は邪道と呼べる密教で、欲望をすべて解放することで効験を得る、という密教である。
「そのなかに才槌頭の髑髏を街道に埋めると効験があるとか書いてあったように思う。ああ、そういえば、上総介殿はどちらかといえば才槌頭だな」
 政宗は頭の中でいろいろと考えた。
 その行着く答えは、断じて不吉なものであった。
「半蔵、大御所は何を信仰されているのだ。お前、知っているだろう」
 隠せなかった。半蔵はすべてをぶちまけた。最近の稲荷社を奨励した一件まで明かした。政宗は顔色を変えていた。
「とにかく間もなく大坂と合戦になる。儂は総大将に上総介殿を推挙する。他にもうまく賛同者を集うから、暫くは大御所も我慢されよう。その間にどうすべきか、一緒に考えようではないか」
「はい」
「つくづく思うよ。あのとき婿殿がノヴァ・イスパニアへ行ってくれたのなら、こんなことにはならなかっただろうに」
 政宗は残念そうに呟いた。
 半蔵も目を伏せた。

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