利右衛門

腐れ縁で戦国時代の摂津・塩川氏の事を調べている歴史マニアです。川西市山下のイベント「東…

利右衛門

腐れ縁で戦国時代の摂津・塩川氏の事を調べている歴史マニアです。川西市山下のイベント「東谷ズム」で「戦国1日博物館」というブースを担当しておりました。元・模型職人(紀州・手取城、豊後・杵築城下町、平安京&鳥羽離宮、etc…)

最近の記事

播磨 三木城下町のヴィスタ

ご無沙汰致しております。 あっという間に1年経ってしまいました🙇 取り急ぎ画像のみアップさせて頂きます。 各画像はクリックで拡大標示されます。 (2023.12.06 文責 : 中島康隆)

    • 摂津国衆・塩川氏の誤解を解く 第35回 物集女城跡の看板(2022)

      昨日、久々に京都府向日市の「物集女城跡」の脇を通りました。 以前ちょっと触れましたが、26年程前にここで個人的にかなり不本意な出来事がありました。 誠意をもって提示した「事実の可能性の芽」を、有名どころの学者の安易な解釈によって摘み取られてしまったという… 「あの説明板、まだあるだろうか?」 既に陽も沈んだ黄昏時、恐る恐る立ち寄ってみると、説明板は新しいものに差し替えられていました。 私にとって忌まわしいあの「復元イラスト」は消えていました。 「物集女城の調査はまだ始

      • 摂津国衆・塩川氏の誤解を解く 第34回 大修復前の西宮台場・石堡塔(西宮砲台)で拾った“漆喰壁”のこと(1)プロローグ

        [はじめに] いつもながら御無沙汰致しております。 前回のアップは6月27日でしたか…。 最近はもっぱら「季刊 塩ゴカ」ペースというか、ブランクばかり長くなって申し訳ありません。 隙間を埋めるべく「短いブログ」(本来はそれが普通ですが)でも書こうとするのですが、書き始めてみるとついつい「あれもこれも」と膨らんでしまって結局停滞し、調べるばかりで何も書かずにさらに空白を開けてしまう(汗)というパターンは、死ぬまで治りそうもありません。 ただし「画像」の方だけはサクサクと進んで

        • 摂津国衆・塩川氏の誤解を解く 第33回  新たな「塩川長満宛 織田信長黒印状」出現‼ 塩川による多田鉱山支配の傍証も‼

          またまた新たな「塩川伯耆守宛 織田信長黒印状」 が出現‼もはや2ヶ月前の出来事ととなってしまいましたが、去る4月10日、定期的な日課である「塩川サーチ」をしていたら、京都市の河原町通御池上ルの画廊"ギャラリー 創"様の公式ツイッター上に「塩川伯耆守」の文字がヒットし、書状とおぼしき画像が見えました。 一瞬、今春に豊能町で発表させて頂いたばかりの「稙通公別記 紙背文書」の記事をリツイートしておられるのかな?と思ったのですが、よく見ると 「塩川伯耆守宛 織田信長黒印状」 とあり

        播磨 三木城下町のヴィスタ

        • 摂津国衆・塩川氏の誤解を解く 第35回 物集女城跡の看板(2022)

        • 摂津国衆・塩川氏の誤解を解く 第34回 大修復前の西宮台場・石堡塔(西宮砲台)で拾った“漆喰壁”のこと(1)プロローグ

        • 摂津国衆・塩川氏の誤解を解く 第33回  新たな「塩川長満宛 織田信長黒印状」出現‼ 塩川による多田鉱山支配の傍証も‼

          戦国時代~織豊期の主に城下町に見られるヴィスタ(見通し)の例

          (画像はクリックで拡大) なお、各図は以下のものに加筆した。 *「三田」は安政二年の町絵図(山崎敏昭氏作成1998年頃のレジュメより孫引き) *「山下」は拙図(「ひょうごの城紀行 下」の角田誠氏執筆"山下城"掲載。 朽木史郎、 橘川真一編 神戸新聞総合出版 1998年) *「小浜」は現地に設けられた説明板掲載図に加筆。毫摂寺(ごうしょうじ)が、山上の「中世中山寺」跡、「中世清澄寺(清荒神)」跡を見通した方位を基準に都市プランが形成されている。 *「茨木」は 豊田

          戦国時代~織豊期の主に城下町に見られるヴィスタ(見通し)の例

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          摂津小浜のプラン

          摂津小浜のプラン

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          吉川高代寺

          吉川高代寺

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          三好義継が入城した北河内の二城

          三好義継が入城した北河内の二城

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          岸和田

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          獅子山城と山下町

          獅子山城と山下町

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          余野本城画像

          余野本城画像

          摂津国衆・塩川氏の誤解を解く 第32回 九条禅閤稙通、塩川長満の居城にあらわる‼

          豊能町のホームページに解説文をアップご無沙汰致しております。 長らく予告編ばかりでお茶を濁しておりましたが、ようやく塩川長満の城を訪れたという、例の「高位」かつ「反 三好三人衆」の人物について、まだ不完全ながら「一般向け解説編」のページを立ち上げました。 そのダイジェストはこのような感じです。 (画像はクリックで拡大します) 「論考編」の方が遅れていて、「一般向け」(とはいえ結構複雑ではございます…)の先行となりました。 ただ、まだ画像の解像度や、リンクへのジャンプ

          摂津国衆・塩川氏の誤解を解く 第32回 九条禅閤稙通、塩川長満の居城にあらわる‼

          摂津国衆・塩川氏の誤解を解く 第31回の5「遠くの光が」

          こんばんは。 引き続き「予告編祭り」ですが、一体何時になったら「本編」に到達出来るのでしょうか? それはともかく(汗)、今回はちょっと訂正記事です。 「第31回の3」(https://note.com/tohbee_/n/n74193965b0d6) において、「獅子山城(いわゆる"山下城")主郭の南肩から、岸和田の城や旧城下町の方角が見える」旨を記載してしまったのですが、新たに確認すると、獅子山城から見える岸和田市域の範囲は *「春木」ー「JR東岸和田駅」ラインよ

          摂津国衆・塩川氏の誤解を解く 第31回の5「遠くの光が」

          摂津国衆・塩川氏の誤解を解く 第31回の4「間部詮房(まなべあきふさ)の誤解を解く」

          2つのウソ(?)がマコトを生んだなお、「東谷ズム版」でも上記タイトルでアップしました。 これは、3年前に " お蔵入り " していた原稿にちょっと手を加えてみたものです。 上図は、左手の越後国「瀬波郡絵図」における「村上要害 & 村上町」の景観が、あたかも塩川長満時代の「獅子山ノ城 & 山下町」(上と右模型)を彷彿させるように思えたので 、思いきって" 2ショット " に仕立てたものです。 「村上」と「山下」、一見無縁に思えるこの両者の共通項は、ただ上記の類似性ばかりでは

          摂津国衆・塩川氏の誤解を解く 第31回の4「間部詮房(まなべあきふさ)の誤解を解く」

          摂津国衆・塩川氏の誤解を解く 第31回の3 “岸和田城から ? 来た御客人”

          (上画像は「近世岸和田城 二の丸」を北東から見たもの。「戦国期の岸和田城 主郭」は、あるいはこのエリアだった可能性が指摘されている。) 毎度御無沙汰致しております。あっという間に今年も終わりですね。 さて今回もまた、未だに「予告編」の続きばかりを書いていて「本編」に達しておらず、誠に申し訳ありません。「例の書状」の翻刻公開に向けた手続き等は、目下着実に前進しておりますので、今しばらくご堪忍のほどをお願い申し上げます。 --------------------------

          摂津国衆・塩川氏の誤解を解く 第31回の3 “岸和田城から ? 来た御客人”

          摂津国衆・塩川氏の誤解を解く・第31回の2 “九条まつり”予告編の補足

          今回は、前回の”九条まつり 予告編”の補足ながら、関連リンク等のご紹介です。まず 東谷ズム版のページにも、ちょっと違った角度で予告編を入れました。 上の画像は、そちらの末尾でも触れている、天文三年(1535)暮れに京を出奔した「九条稙通」が、翌四年に「逗留」して「塩川種満」「国満」父子と交流したという(高代寺日記)、摂津・小浜(こはま、宝塚市)の小浜御坊こと毫摂寺(ごうしょうじ)の本堂です。「小浜」は16世紀半ば頃に建設された「真宗(浄土真宗)寺内町」です。 それから、

          摂津国衆・塩川氏の誤解を解く・第31回の2 “九条まつり”予告編の補足