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摂津国衆・塩川氏の誤解を解く 第34回 大修復前の西宮台場・石堡塔(西宮砲台)で拾った“漆喰壁”のこと(1)プロローグ

[はじめに]


いつもながら御無沙汰致しております。
前回のアップは6月27日でしたか…。
最近はもっぱら「季刊 塩ゴカ」ペースというか、ブランクばかり長くなって申し訳ありません。
隙間を埋めるべく「短いブログ」(本来はそれが普通ですが)でも書こうとするのですが、書き始めてみるとついつい「あれもこれも」と膨らんでしまって結局停滞し、調べるばかりで何も書かずにさらに空白を開けてしまう(汗)というパターンは、死ぬまで治りそうもありません。

ただし「画像」の方だけはサクサクと進んで「エンジンの無い三式戦闘機“飛燕”」の如く、どんどん集積されています。

進行状況を申し上げると、今春に豊能町ホームページで発表させて頂いた内容https://www.town.toyono.osaka.jp/page/page004985.html

のつながりで、3月から5回ばかり登って得た「河内・津田城における表採遺物」についてまとめております。
「津田城」(枚方市・国見山ほか。山岳寺院を改装した可能性が指摘されている)は、永禄十一年(1568)に三好義継が一時駐屯した場所です。主要な遺物も8月末に枚方市教育委員会さんに届け済です。訂正、追加調査等があってなにかと遅れておりますが、今年中にはアップしたいと思っております。

ともあれ、あまりにも空白が長引いてはアレなので急場しのぎながら、摂津・塩川氏とは直接関係ない話題をいくつかに小分けしてブッコみたいと思います。
具体的には、幕末建造の史跡「西宮砲台」(西宮市)にまつわる"ひょんなご縁" からのレポートです。

[気が付いたら特別展が終わっていた…]


去る7月16日~8月28日の期間、西宮市立郷土資料館において、西宮砲台指定100年記念・第37回特別展示「御台場築造―西宮・今津の砲台―」というというものが開催されていた模様です。https://www.nishi.or.jp/bunka/rekishitobunkazai/ritsukyodoshiryokan/tokuten2022.html

「~いた模様です」なんて他人事みたいに書いておりますが、西宮市今津出身の不肖利右衛門としましては、当然ながら参るつもりではあったのですが、上記の「河内・津田城」の資料整理に没頭しているうち、気が付いたら会期終了の三日後でした(ゴ~ン)←鐘の音。
もちろん、展示そのものが見かったわけですが、私にはもうひとつ、「指定100年記念」を機に西宮市さんに是非お渡ししたかったものがあったのです。

[およそ48年前の出来事]


記憶はおぼろげながら、昭和48年(1973)もしくは49年(1974)のいずれか。なんとなく後者の可能性が高いように思います。
小学校6年生~中学1年生だった私は、すでに西宮市から転出しておりましたが、父親に連れられて(?)「西宮砲台」を訪れたのでした。
旧宅に近かった「今津灯台」の方は、幼少の時分より慣れ親しんだ存在でしたが、「西宮砲台」を見るのはおそらくこれが初めてだったのです。

時期的には「昭和49-50年の大修復」のまさに直前に相当しますが、私は(おそらく父も)そのような予定が組まれていることなど露ほども知りませんでした。
当時の「砲台」は花崗岩の岩肌がむき出しで、入口も塞がれてはおらず、内部に自由に入れる状態でした。

「遺跡として敬愛されている」というよりは、どことなく「廃墟として蔑まれている」ような荒れ果てたシロモノでした。
私はそれが、いつ無くなってしまうかわからないような「哀れな感じ」さえ受けたのです。
内部は薄暗くて涼しく、上の「砲眼」から差し込む弱い光が砂地の地面を僅かに照らしていました。

そしてその「内部」であったように記憶しておりますが、正確な場所はちょっと自信がないのですが、元の壁面に塗られていて剥落したのであろう「白漆喰」が結構な量で岩壁の下に散乱しており、「西宮砲台の儚さ」に誘発されたのか、私はその小さな1片を記念に持ち帰ったのでした。
心の内では「こんな“地味で変なもの”を持ち帰るなんて、自分以外には誰も居ないだろう」という意識もちょっとあった気がする…

北より全景


(画像はクリックで拡大。上にスライドすると元に戻る)
画像右上が方眼紙の上に置いたその漆喰壁です(2022年9月撮影)。48年間も保管しているうちに、割れたり一部が粉々になったりしています。

[修復された姿にショックを受ける]


「西宮砲台」はその翌、昭和50年(1975)の大修復で、新たなモルタル漆喰壁に覆われました。
おそらく夏頃であったように記憶しておりますが、中学2年になっていた私は、この修復完了直後に何も知らずにここを再訪し、前回見た姿とのあまりの違いに大変なショックを受けて落胆しました。
なお、「モルタル漆喰壁に」と書いたのはごく最近得た情報であって、当時から今年に至るまで長らく「セメントで塗り固められてしまった」と思い込んでおりました。
このあたり、当時のカラー画像がネット上でも見つからず、現在の姿からは想像することが難しいのですが、修復直後の「西宮砲台」は、あたかも「穴の開いた新造の水道タンク」にしか見えませんでした。
それまでの「歴史的風格」や「汚さ」をも含めた「妖しさ」といった要素が一挙にゼロになり、「キレイな縮尺1/1のプラモデル」に成り下がってしまった観さえあったのです。また、これについては他の方々からも批判があったようです。

今、造営時の史料(西宮砲台築造出来形帳)を拝見すると「薄墨色ニ塗立」とあるので、外観の復元は(後述する屋根以外は)忠実な"良い仕事"をされていたのですが、かえってそれが「セメント」に見えたという、言わば当方の誤解もありました。

また何よりも、この大修復が施されたことも幸いして「西宮砲台」は20年後に発生した「阪神・淡路大震災」にも耐えたわけでして(幕末の入念な地盤工事自体もまた素晴らしかったですが)、当時の自分の一方的 外野的な感想を反省し、修復に携わられた方々にはあらためてお詫びを申し上げ、感謝の念を申しあげたいと思います。
(ひょっとしたらもうひと手間だけかけて、映画美術のような“ヨゴシ"(ウェザリング)を施せば、あのような批判も受けずに済んだかと思いましたが、これは時代的には"贅沢"というものでしょう。加えて上に述べた「歴史的風格」というものも、近代の大火災等による著しい損壊も加わっての「風格」なので、言わば「錯覚」でもあったようです。)

ともあれ、自分が「花崗岩むき出し状態の西宮砲台」を見たのは初対面時の1回のみ。
奇しくもその場に散らばっていた漆喰壁を1片だけ持ち帰った、というわけなのでした。
なお、まっさらだった「モルタル漆喰壁」の方も、半世紀近くの風雨にさらされた今、独特の“ウェザリング”が施されております。

[昭和49年は大河ドラマ「勝海舟」が放映された年]


この初対面の出来事が、昭和48年ではなく49年であったと思うのは、まさにその年のNHK大河ドラマが、「勝海舟」(原作・子母沢寛)だったからです。
勝海舟こそ「和田岬砲台」や「西宮砲台」を構想して実現化の道を切り開いた存在でした。
この年の"幕末ブーム"が自分の訪問へと繋がったのかもしれません。

ドラマ「勝海舟」は、冨田勲さんのテーマ曲が「いかにも海!」という感じで、今聴いても当時の気分が甦ってドキドキ致します。https://youtu.be/JAUolijayeo

昨今とは違い、この時代の「テレビ」は輝ける存在でした。

加えて昨今「列強に好き放題にされてこの先日本は一体どうなるのだろう?」という状況も、この幕末ドラマの曲調とシンクロします。

なお、このドラマにおいて「西宮砲台」など大坂湾周辺の台場に触れるくだりがあったかどうかは覚えておりません。

しかしながら、“勝海舟役”だった主演の渡哲也さんが病気の為にやむなく途中降板され、代わりに登板された松方弘樹さんが、どうしても"別人"に見えてしまって混乱した記憶があります。

その記憶がまた、当時の「西宮砲台に対する不評」(後述)と、上述した翌年の「修復壁への当惑」と妙にシンクロしています。加えて"修復"がなされた時、「皆から一応大事に思われてたんだ…」という意外性も実はあったんです。

[西宮市文化財に電話してみた]


さて、せっかくの特別展を逃してしまった私ですが、もはや2度と訪れない「史跡指定100年記念」の機会でもあるので、思い切って8月31日に西宮市文化財に「実はこんなものを保管しているのですが、ご入用でしょうか?」と電話をかけ、漆喰の画像をメールで送りました。
一応おうかがいを立てたのは、もし昭和の大修復の際、剝がされたであろうオリジナルの漆喰壁が大量に保管されているならば、こんなスズメの涙ほどの個体はあえて不要であろうと思ったからです。
しかしながら、当時の考古学や古建築学の風潮にかんがみれば、「近世」どころか「近代前夜」でもある幕末の漆喰壁など、いわば「瓦礫同様」であって「歴史的的遺物」とはみなされなかった可能性があります。当時はまだ「幕末生まれのご老人」がそこそこご健在でもあられた“微妙な時代”でもありました。
一方、仮にそれら(剥がされた漆喰)が何処かに保管されていたとしても、半世紀近い時を経ているので、すぐには見つからない可能性もあるでしょう。これについては某市で携わった文化財の収蔵庫整理のアルバイトで痛感しました。

はたして西宮市さんの回答は、有り難いことに「どうか是非」ということでしたので、ホッとしました。
こうして漆喰壁片は半世紀ぶりに西宮市に帰郷することになったのです。
なお今回西宮市文化財の担当の方から伺って初めて知ったのですが、現在も「西宮砲台」の壁面の一部(上画像の赤矢印)だけは幕末のオリジナルの漆喰壁がそのまま残されているそうです。

[補足とリンク]


*史跡「西宮砲台」の「砲台」という単語は、幕末の文献にも散見されますが、どちらかと言えば近代以降に用いられた単語のようです。
現代では「トーチカ」を連想させるこの単語は、後述する“ある種の誤解”の遠因ともなっており、、今後はなるべく幕末の正式名である、施設名称としての「西宮台場」、及びその主要構築物としての「石堡塔」という呼称を用いることにします。なお構想者である勝海舟はこの塔のことを「砲台」と呼んでいたようです。

*西宮市立郷土資料館における特別展示を逃してしまった私ですが、以下の情報媒体がありました。特別展に合わせて西宮のローカル局”SAKURA FM“(78.7MHz)が「西宮砲台」にまつわる解説番組「西宮徹底解剖7月号 御台場築造―西宮・今津の砲台―」計4回分を制作され、インターネットで聴くことが出来ます。https://www.nishi.or.jp/shisei/koho/sakuraFM/tetteikaibo/2022/7gatsugo.html
あわせて西宮市立郷土資料館では、ヴィジュアル満載の上記特別展の図録がわずか200円(!)で販売されています。
実は「西宮台場」に関する知見も、中学1年の時からほぼアップデートされていない私(汗)はこの両者で取り敢えず情報の埋め合わせをさせていただきました。

*また当ブログを書くにあたって拝見させて頂いた「凜太郎亭日乗」さんのブログの「西宮砲台」記事にも得難い感銘を受けました。http://p-lintaro2002.jugem.jp/?eid=722#gsc.tab=0

これは2012年に「西宮流」に計30回にもわたって連載されていたものを、あらためて再録されたもののようです。
これがまた“熱い内容”で、私はすっかり“ハートに火を点けられ”てしまいました。(よってブログ更新もさらに遅延する)

かつて「西宮砲台」に、やたらと“枕詞”のようについてまわった「石堡塔内は砲煙が充満し、とても実戦の役には立ちそうもなかった」というフレーズが如何に"端折られた"内容で、このフレーズのみが「実積」として紹介され続けた事態が、如何に理不尽であることか。(上でチラッと触れた「不評」というのがコレです)

また石堡塔は本来「三層構造」でオープンな屋上部があり、現在西宮と和田岬の石堡塔を覆っている”屋根”は、共にあくまで「後世の不正確な形状」であって「復元部分」とは呼べず、こういった知られざる要素も「不評」に繋がっている旨も力説されています。

いわば、当時の最先端技術が投入されたはずの「西宮砲台の誤解を解く」「名誉を回復する」といったコンセプトで貫かれており、特にこの「屋上階」については当ブログにおいても紙数を割いて触れてみたいと思っております。

(多分、速攻で?つづく。2022.10.19 文責:中島康隆)

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