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摂津国衆・塩川氏の誤解を解く 第33回  新たな「塩川長満宛 織田信長黒印状」出現‼ 塩川による多田鉱山支配の傍証も‼

またまた新たな「塩川伯耆守宛 織田信長黒印状」 が出現‼

もはや2ヶ月前の出来事ととなってしまいましたが、去る4月10日、定期的な日課である「塩川サーチ」をしていたら、京都市の河原町通御池上ルの画廊"ギャラリー 創"様の公式ツイッター上に「塩川伯耆守」の文字がヒットし、書状とおぼしき画像が見えました。

一瞬、今春に豊能町で発表させて頂いたばかりの「稙通公別記 紙背文書」の記事をリツイートしておられるのかな?と思ったのですが、よく見ると
「塩川伯耆守宛 織田信長黒印状」
とあり、これまで全く未見の史料(‼)でしたので驚きました。

この"ギャラリー創"様のツイッター記事はこちら。
https://mobile.twitter.com/Gallery_So_/status/1515898560130482181

直接開かない場合は「新しいタブで開く」か、以下のツイッタートップにアクセスし、4月10日、及び18日のスレッドに遡ってご覧下さい。
https://mobile.twitter.com/gallery_so_


塩川伯耆との「取次」はやはり「菅屋長頼」

以下、"ギャラリー創"様のツイッター上で公開されている黒印状の翻刻文をそのまま引用させて頂きますと

書状被見候仍紺
青箱一到来候
節〻せいを入持
越候悦入候将亦
其嶋萬事無由
断候間可然候弥
馳走専一候猶菅屋
九右衛門尉可申候也
 九月廿日 信長(印)
  塩川伯耆守とのへ

とあります。(なお、本状は既に売却済とのことですので画像の転載等は控えさせて頂きます 。)

また、ツイッター上で解説されているように、ギャラリー創様サイドで行われた調査によれば、

「文書後半の「菅屋九右衛門尉」は信長の側近であった菅屋長頼(?~1582)で、信長の使者を務めていることが窺えます。文書の日付と長頼の所在地から、1579(天正7)年もしくは翌1580(天正8)年の9月20日の書状と推定されます。 」

とのことです。

さて、信長の馬廻りであった「菅屋九右衛門長頼」が「織田家における摂津塩川家との取次」であったことは、当連載においても何度かお伝えしてきましたが、これまでの典拠としては「高代寺日記」の天正四年条、天正七年条、及び岡山の池田家文庫所蔵の塩川家譜類、池田市の「 穴織宮拾要記」に関連記述があり、近年公開された泰巖歴史美術館所蔵の「塩川伯耆守宛織田信長朱印状」(荒木村重の謀反勃発直後の天正六年(1578)とみられる十一月三日付)

https://mobile.twitter.com/taigan_hm/status/1521686083028795392?cxt=HHwWgICy6cTbjp4qAAAA

においても同様なので、もはや確定と言えましょう。

(なお上記の池田家文庫の塩川家譜によれば、「菅屋」は「すがのや」と読んだ模様です。)


黒印状は天正七年九月の「有岡城包囲」時のものか

また、今回の黒印状が、ツイッター上で解説されているように、天正七年、もしくは天正八年のいずれかという2択に絞られるのであれば、文中に
「節々せいを入れ 持ち越し候」
「其の嶋、万事由断なく候間、しかるべく候。いよいよ馳走専一に候 」
といった「"嶋"を守備する軍事的緊張感」を示す文言があるので、本状は大坂本願寺との和睦成立後である「天正八年九月」ではなく、塩川長満が有岡城包囲網の一つである「七松の砦」(現 尼崎市)に詰めていた(信長公記)「天正七年九月二十日」の発給と思われます。

以下、「信長公記」、及び「高代寺日記」の記事等から、当時の状況を推測すれば、

この年の四月末以来、岐阜城に「塩川長満の娘」(いわゆる"寿々姫")を妻に迎えて戦陣から遠ざかっていた「織田信忠」は、「八月二十日」に信長の命令で4ヶ月ぶりに岐阜を出馬します。「二十二日」に摂津「古屋野」(昆陽野、現 伊丹市)に着陣。一方、敵方の荒木村重はといえば、その10日後「九月二日の夜」に五、六名の部下と共に、密かに有岡城を脱出して尼崎城に移っています。

(余談ながら、この塩川長満の娘は、"嫁取り式"を経た「正妻」と考えられます。但し、織田信忠の「正妻」が一人であったという確証がなく、「妾」の全体像も不詳なので、彼女が「織田三法師秀信」の母(徳寿院)であった可能性は一応残されてはいるものの、"謎"もまた残されたままです。)

そして「九月十二日」には織田信忠の仕切りで、「七松」(現 尼崎市)近くに「御取出 二ヶ所」を築き、その1つに「塩川伯耆 高山右近」を、もう1つに「中川瀬兵衛 福富(ふくずみ)平左衛門 山岡対馬」を駐屯させました。

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塩川長満は去る「四月二十八日」(中山寺文書)、もしくは「二十九日」(信長公記)に「古池田」本陣から「賀茂岸」砦に駐屯して以来の「移転」でした。この賀茂岸砦は、元々「織田信忠が三月五日に築いたもの」であり、信忠が岐阜帰還を命ぜられた日付が「四月二十九日」であり、加えて信忠は二十八日の晩に、塩川長満の城に宿泊した可能性さえあります。ともあれ、この頃の「塩川長満の動き」はなにかと「織田信忠の動き」と密接なのです。

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話を戻すと、「信長公記」におけるこの「七松」駐屯の記事は、やはり荒木村重の謀反に加担しなかった「塩川伯耆」が「筆頭」で記されており、その配置から「塩川」は「高山」に対する、「福富」(信長の馬廻)「山岡」(近江衆)は「中川」に対する、それぞれ「目付」、「牽制」的な意味合いがあったと思われます。(*22.7.4追記 : 谷口克広氏「信長の親衛隊」によれば、この時期の「近江衆」は信長直属の「旗本」("馬廻"とは別機構)だと言う)

ともあれ、本 黒印状は塩川長満が「七松砦に着任してから8日後に信長から発給されたもの」ということになります。


「七松」の地を、信長が「其の嶋」と呼んだ妥当性について

さて、今回の信長黒印状の年次を「天正七年九月二十日」の七松駐屯時の発給と解釈した場合、信長が

「其の嶋、万事由断なく候間、しかるべく候。いよいよ馳走専一に候 」

と記しているわけですから、信長は「七松」の地を、「嶋」と認識していることになります。

「嶋」もしくは「島」の付く地名といえば、私の名字「中島(嶋)」なども含めて、かつて「八十島」などと呼ばれた現 尼崎市から大阪市にかけての「デルタ低地部」に多いことはよく知られています。ざっと地図を眺めても、大島、向島、松島、初島、加島、御幣島、梶ケ島、西島、姫島、歌島、酉島、四貫島、福島、堂島、都島、といった地名が確認出来ます。

しかしながら、尼崎市の「七松」周辺は、それら海岸線近くの地域に比べて「やや北の内陸部」のイメージがあり、多少の違和感も感じないではありません。 以下、その妥当性について検討してみましょう。


取り敢えずは昭和23年の空中写真(国土地理院空中写真閲覧サービス)を参照してみました。

七松アップ

(画像はクリックで拡大。国土地理院)

旧「七松」集落は、画像最上部に見える国鉄「立花駅」の東南に、やや東西に長く密に固まっている部分(赤字の北)であり、往時は「環壕」で囲まれていたようです。加えて二ヶ所存在した「七松砦跡」はその付近にあったとは思われますが、残念ながらこの時点でも既に、周辺は「立花駅」を挟んで南北共に「近代の区画整理」が意外と進んでおり、「砦」の輪郭らしき痕跡を見出だせません。(とは言え、近代の区画と斜交する暗色のライン(堀跡??)が何本か見え、気になります)

七松南s

(画像はクリックで拡大。国土地理院)
しかしながら、こちら広域写真の方を見ると、七松周辺は西に「蓬川」、東に「庄下川」がそれぞれ蛇行しながら南下しているのに「挟まれたエリア」であることが判ります。

特に西の「蓬川の蛇行痕跡」は著しく、その形状からかつては川沿いが「低湿地」であった事がうかがえます。

一方、両河川に挟まれた「七松」付近は周辺に比べて全体的に「白っぽく」見えます。これは、近代の盛り土だけではなく、当エリアが「水田」ではなく「畑」が多い事によるもので、元々このエリアは周辺に比べて洪水に強い「微高地」であったのでしょう。

このことは、旧七松集落の「方位」もまた、広域写真の北東部、及び南西部に残る「条里の構造」に整合していることから、平安時代頃?に施工された「条里」痕跡をよく踏襲している結果である事が推測され、要するに古代以来、「七松」集落は「洪水に見舞われて区画が乱れる」事が殆ど無かった事を表しているものと思われます。

よって、天正期に七松周辺を、 "川に挟まれた微高地の一単位" として織田信長が「嶋」と呼んだことは、さほど無理ではないように思われました。

なお参考までに、以下古代への考察ですが、尼崎市の公式サイトには以下のような海岸線の変遷が紹介されています。

https://www.city.amagasaki.hyogo.jp/shisei/sogo_annai/history/022gensi.html

現在の七松一丁目辺りは、標高がおよそ2mくらいですが、JR立花駅付近(地図の「逢川」の北)は、弥生時代は島であったようです。

また同じく古代の考察ながら、 坂江渉(さかえわたる)さんという方の記事 に、立花のさらに北東に位置する「生島神社」の記事があります。

http://www.amaken.jp/45/4513/


一度七松を訪れて、周辺地面の高低差を観察してみたいものです。

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*22.7.4 追記 : なおこの見解は、本黒印状の年代が「文書の日付と(菅屋)長頼の所在地から、1579(天正7)年もしくは翌1580(天正8)年の9月20日の書状と推定されます 」ということから「であれば「天正七年」がより妥当であろう」という主旨です。もし文末の「なお菅屋九右衛門尉、申すべく候也」の解釈を「菅屋長頼自身が直接 "使者として出向く" 」ことに限定せず、「詳細は菅屋長頼の "添状" を参照のこと」という意味に拡大するのであれば、本状が「天正六年以前の可能性がない」のかどうか、私には判断する能力がありません。ともあれ「天正七年」ですと、塩川長満と菅屋長頼が「互いに身近に居た」とは思っておりますが。

一応「高代寺日記」によれば、塩川長満は「天正四年正月」に「菅屋玖右衛門ト好ヲ通ス」とあり、同年の五月条に「中旬 難波合戦 (塩川家臣の)安村仲興討死ス 其長子辰ニ家督ヲ立ラル 仲興五十七才ナリ」とあります(「谷城趾文書」によれば信長が「五月二十三日」に「谷衛好」の「木津 難波」での戦功を褒賞しています。「織田信長家臣人名辞典」より孫引き)。

よって長満もこの「四年九月」には大坂本願寺を包囲するどこかの「嶋」に駐屯中であったかも知れず、管見ながら、その時の黒印状の可能性も残されているのでは?とも思っております。

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これまで「高代寺日記」のみが伝えてきた塩川氏の贈答品「紺青」の存在が今回、一次史料から裏付けられた‼

さて、今回の黒印状において、もう1つの特筆すべき内容は、その冒頭近くに信長が

「よって紺青 箱一つ 到来候」

と記していることです。

塩川長満は、安土の織田信長に「紺青」をひと箱、贈呈していました。これって初耳じゃないぞ ‼ 「高代寺日記」で似たようなデジャブ感があったぞ ‼ ということで以下にご紹介しましょう。

この「紺青」(こんじょう)とは、近世以降においては18世紀にプロイセン(現 ドイツ)で発明されたいわゆる「プルシアンブルー」を指す事が多いようですが、多田においては、多田鉱山に産する、藍銅鉱、青鉛鉱、あるいは孔雀石などの鉱物を粉砕して精製された「青い顔料」を指します。(孔雀石は緑色)

これは非常に「彩度」の強烈な「青色」を放ち、華麗さが売り物の狩野派の絵師には欠かせないものであり、信長も安土城において障壁画等に用いたであろう事が想像されます。

藍銅鉱に関するwikipediaはこちら。

青鉛鉱(Linarite)に関するwikipediaはこちらです。

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Linarite

また、ネット上においては、鶴田榮一氏による詳細な「多田銀銅山の紺青および緑青について」という論考のPDFファイルをダウンロード出来るので

https://www.jstage.jst.go.jp/article/shikizai1937/72/2/72_95/_article/-char/ja/

是非そちらもご参照下さい。以下鶴田氏同論から引用させていただくと、多田銀銅山に関する、伝承以外の、その“初見”記事として、

「「扶桑略記(1037)」「百錬抄(1037)」を初見とする11世紀初期である。すなわち、「百錬抄」に「長暦元年(1037)四月摂津国能勢郡初献銅」とあり、「扶桑略記」に「長元十年(長暦元年 1037)八月奉幣七社奉献摂津国貢銅上分 長久二年(1041)摂津国紺青献上」とあり、これを多田銀銅山の顔料に関する初見とし、史料からは鉱山の稼業とほぼ同時期に、多田銀銅山における顔料の歴史も始まっている」と、あります。

なお、この直後、朝廷は銅、紺青、緑青の三種を貢進させる供御所「能勢採銅所」を設立します。能勢採銅所は、小槻家の管理の下、中世には半私領化しながらも朝廷の供御所として鉱産物を供給しますが、南北朝期には産銅が枯渇し、米、銭を納める荘園と化し、永正年間には細川高国、能勢十郎に横領されてその後消滅したようです(近畿地方の荘園、講座・日本荘園史)。

さて、以下にご紹介する塩川氏と紺青の記事は、これらの「中世~戦国後期」と、後述する「秀吉時代」との「橋渡し」となるものです。

「高代寺日記」における「紺青」(金青)の用例

「摂津 塩川氏が、紺青を贈答品としてきた」ことは、これまで「高代寺日記」に2回登場する記事が、やはり唯一のものでした。

(このことは、既に東谷ズム版の連載第16回 https://higashitanism.net/shiokawa-s-misunderstanding16/ の末尾の章段「 (C)多田鉱山周辺 」近くでもご紹介しています。)

ともあれ今回、またしても「高代寺日記」の記述に「裏付けが得られた事例」が増えたわけです。

そしてこれはまた、これまで殆ど知られていなかった「塩川氏による多田鉱山の支配を示す一次史料の出現」という意義においても非常に画期的である、と言えるでしょう。

以下、東谷ズム連載第16回 記事より、 再褐、加筆させて頂くと、

☆「高代寺日記」中の「紺青(金青)」を織田家関係者に進上する記事として、ひとつは(今回の黒印状と同年である)天正七年条に

「四月二十日戌申日 信長ヨリ森ノ蘭丸 中西権兵衛尉使トシ 守家作ノワキ指 銀千枚賜ル 家臣吉大夫 同右兵衛尉 民部 勘十郎 出向テ受取両人ヲ馳走ス 各帷子 単物二重 紺青ヲ与ラルゝ モテナシ両人退去」

というものがあります。

これは荒木村重の有岡城包囲中の記事であり、「信長公記」においては「四月十八日」に「森乱」が塩河伯耆に「銀百枚」を進上する記事に相当します。

また、この「銀百枚」の解釈としては近年、織田信忠の元に嫁いだ塩川長満の娘の「結婚支度金」かと推測されています。

なお、この時点で塩川長満自身は、信長と共に「古池田」の本陣に居たわけですから、「森乱」「中西権兵衛」ら使者は「古池田」から「獅子山城」(いわゆる"山下城")に出向いて来たのでしょう。
よって、記事に長満が登場せず、塩川家の四家老が出迎えているという記述には「整合性」があります。加えて「信長公記」の天正六年十二月十一日条が記すように、一旦荒木方として謀反した高山氏の「高槻城」や中川氏の「茨木城」などは、織田方に警戒されて織田軍の城将によって接収されている状況なので、これらとは違って塩川家の家老達が取り仕切っているのも、高山、中川との「扱いの差」を示している点においても注目されます。(勿論、塩川の城にも織田家から目附、連絡要員が派遣されていたこととは思われますが)

但しこの記述は、「高代寺日記」の編者がおそらく太田牛一の「信長公記」の存在を知らず、明らかに小瀬甫庵の「信長記」をも参考とし、一部(別の部分で)引用もしているので、やや注意が必要です。
例えば塩川に下されたのは「信長公記」においては「銀百枚」ですが、「甫庵」における「千両(=百枚)」という記述に惑わされたのか「銀千枚」などと記している点や、森「蘭丸」表記などは、後世の影響(写本作成時等の?)も類推され、やや問題です。
(2024.3.13追記 : 木下博之氏(織田信長家臣団研究会誌39号 2024)によると、目下「森蘭丸」表記の初見は寛永十八~二十年成立の「寛永諸家系図伝」であり、同書作成の為に森家が幕府に提出した系譜にそのように表記されていた可能性があるとのことです。)

一方、塩川側が結局「銀をもらって、紺青で返礼」している点は、

「塩川氏時代には、まだ多田鉱山から 銀が抽出されていなかった」

時制を示す史料として、とても興味深いものです。 多田鉱山における"銀の製錬技術導入"は、ここから9年後、塩川家滅亡後の羽柴秀吉時代の天正十六年九月(言経卿記)が初見なのです。まだ「多田銀山」ではなかったのです。


☆また「高代寺日記」におけるもうひとつの「紺青」記事は、天正十年の武田氏滅亡後である

「五月三日 塩川吉大夫 同 勘十郎 信長へ帷子三ツ金青一合ヲ進ス 返状アリ」

の記事があります。

これは彼らが甲斐遠征から帰還した直後にあたります。なお「信長公記」の太田牛一の自筆本である「池田文庫本」には二月九日付の出陣を指示する「条々」中、「多田可出陣事」の脇に「塩川勘十郎・同橘大夫」と傍註があり、この両家老がそろって甲斐遠征を率いていたことがわかります。

(あと、これは余談ながら、度々進物にあらわれる「帷子(かたびら)」とは、やはり、昭和前半期まで残っていた山下町内の旧「呉服町」在住の商人を通じて購入したのだろうか?などと色々妄想してしまいます。)

「摂州多田銀銅山濫觴来歴申伝略記」が記す紺青記事

また、羽柴秀吉による多田銀銅山支配の初期史料としてしばしば引用される「摂州多田銀銅山濫觴来歴申伝略記」(山内荘司文書、猪名川町史所収、以下「来歴記」と略す)にも「紺青」が頻出しています。

これは「文久四甲子(1864)年」の奥付のある幕末の編纂史料であり、その最後を飾る「南切畑村山内 紺青(こんじょう)山間歩」の項は、天正十年代前半における「羽柴秀吉による塩川領没収」の典拠として、当連載では以前もご紹介しています。

「~天正度紺青石多分出候ニ付 豊臣公其絵所狩野山楽へ此場所ヲ賜ヒ、紺青製法之鉱山民此所ニ多数出来候由申伝フ。但此事狩野家ヘ承リ合セ候処 相違無之趣豊公御朱印今ニ彼ノ伝来罷在候由ニテ縫殿助水兵(岳)右写シ差越シ候左之通 “摂津国多田紺青之事 堀之可致進上由聞召畢 無由(油)断可申付事簡要 之旨被仰出候也 天正十四 六月三日 木村平三 ”右太閤御朱印 我家伝来也、多田郡司某応需写 狩野山楽九世縫殿印水岳」

このくだりは、「天正十四(1586)年 六月三日」付で、豊臣秀吉から絵師狩野山楽(木村平三)に“紺青(こんじょう)”の採掘権が与えられていたという部分です

要するに、同記の幕末の執筆者が「秀吉が狩野山楽に紺青石を与えた、という伝承があったので、山楽の末裔である狩野水岳に問い合わせたところ、やはり本当で、このような朱印状の写しを送って頂いた」というくだりなのです。

もちろん、これは秀吉から狩野山楽に与えられた日付であり、既に秀吉は「これ以前に」塩川長満から多田鉱山を接収しているはずであり、私はその時期を「天正十一(1583)年五月」ではないかと推測しています。(東ズム版の連載第16回 https://higashitanism.net/shiokawa-s-misunderstanding16/ をご参照下さい)

また、「摂州多田銀銅山濫觴来歴申伝略記」 には
「長谷村(ながたに、現 宝塚市)山内 千本間歩」(エリア内に「青内間歩」(紺青産出か)、「三蔵寺間歩」ほか6つの間歩の記述があり、「足利家之御時大栄し銀銅多分出産」「礦民其外家数百軒・寺五ヶ寺ありしと~中略~右間歩中絶之処、元亀之度より再盛およひ、天正度ニ至り出鉑連綿し 深間歩ニ相成湧水強く罷成候折節、瓢箪間歩大栄ニ付 千本住居之礦民 皆瓢箪間歩江召集られ」という記述があり、近世以前の多田銀銅山の史料が極めて少ない中、少なくとも同間歩(まぶ)が塩川時代の紺青の産出地の1つであった可能性があります。


ともあれ、今回思いがけなく新たな塩川情報に接する事が出来ました。

「高代寺日記」については、近年の「偽文書ブーム」の影響もあってか、いまだ歴史研究者の方々がその引用に「二の足を踏」まれるようですが、当連載としまして今回のような「裏付けの事例」を粛々と積み上げてゆくほかありません。


あと、末筆ながら、便宜をはかって頂いた京都市のギャラリー 創様には、あらためて御礼申し上げます。


(つづく 2022.06.27 文責 中島康隆)


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