【続編】歴史をたどるー小国の宿命(49)

豊臣家の家臣には、家康とのパイプ役として、片桐且元(かたぎり・かつもと)がいた。

片桐且元は、激怒した家康と、豊臣秀頼との和解のために、1614年8月に駿府城に派遣された。豊臣家としては、これ以上家康との関係を悪化させるのは得策ではないと判断したのである。

ところが、弁明のために片桐且元を派遣したのに、家康からは3つの条件を突き付けられ、この3つの中のいずれかを選べと言われた。

3つの条件とは、次のとおりであった。

①秀頼は、江戸へ参勤せよ。
②淀殿(=秀頼の母)を人質として江戸に住まわせよ。
③秀頼は大坂城から退去して、国替えをせよ。

この3つのどれも、秀頼にとっては受け入れがたい条件であり、とうとう秀頼は我慢ならず、家康との全面戦争を決意した。片桐且元を追放し、罷免した。

秀頼の思うところは、なぜ淀殿の乳母が事前説明に行ったときに許可していた家康が、片桐且元のときはありえない条件を突き付けたのかという点にあったのだが、もしかしたら且元は家康と内通しているのではないかという疑念が生じたのである。

秀頼の近臣の中には強硬派(=且元を暗殺しようとする動きを見せる)も何人かいて、且元は身の危険を感じて、家康のいる駿府城に駆け込んだ。

家康からすれば、講和条件を突っぱねられたようなものであり、秀頼の反応を「宣戦布告」として受け取った。(いや、むしろ計算どおりだったのかもしれない。)

徳川軍は、江戸にいる2代将軍の秀忠率いる軍も準備を進めており、東北地方では伊達政宗も待機していた。その規模は、20万人であった。

対する豊臣軍は、徳川家を敵に回したことで、味方が少なく、急きょ浪人を募ることになった。

関ヶ原の戦いで西軍(=石田三成側)について敗れた大名や武士たちが結集して、なんとか10万人近くはそろったが、それでも徳川軍の半分にも満たなかった。

これでは敗戦必至かと思われたが、冬の陣は、豊臣軍の勝利となる。

この勝利の立役者が、あの名将、真田幸村だったのである。




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