コミニュケーション能力について“大坂冬の陣”から考えてみた。(#13)
コミュニケーション能力って何?
多くの場面のおいて“コミュニケーション能力”を問われる傾向があります。しかしそれが何なのか分かっているようで分かっていない気がしないでもありません。
たとえば初対面の人と「話すことがない」という言葉を時々耳にします。
この状況を打破する力でしょうか。あるいは円滑に会話をすることでしょうか。その全てかもしれませんが、だとしたら「話すことが好きな人」だけを指すのでしょうか。それもどこか違う気がします。
概要/大坂冬の陣
ところで1614年大坂冬の陣を御存じでしょうか。
1600年徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利し、江戸幕府を制定しました。
それから10年経ってもまだ従わない者がいました。豊臣家です。
家康がかつて秀吉の家臣でした。規模も縮小されたり豊臣家としてはプライドが許さなかったのかもしれません。
家康としては統制を図るためにも豊臣家を野放しには出来ません。
彼は豊臣家を揺さぶるきっかけを探していました。
そこで豊臣家が再建した方広寺の鐘銘(国家安康 君臣豊楽)に目をつけました。端的な表現ならば、”いちゃもん”です(下の写真の白い部分)。
いちゃもんの内容など何でも良かったのです。
その挑発により豊臣家は従うのか敵対するのか、2択を選択せざるを得ない状況が出来ました。
そして、豊臣家は敵対する方を選びました。
豊臣家は大阪城を居城としています。大阪城は難攻不落の城です。
兵力・統制とも圧倒的に優勢な幕府軍でもが攻められませんでした。
理由は“お堀”の存在です。
そこで家康は和議を申し出ました。
また和議を申し出ずに待機であっても豊臣方は兵糧攻めに耐えられなくなります。
再び、豊臣方に選択権を委ねる状況を作り出しました。
豊臣方は和議を受け入れることを選び、堀を埋めることに同意します。
ここまでが1614年、大坂冬の陣の概要です。
そして翌1615年大坂夏の陣で、豊臣方は敗れ、豊臣家は滅びます。
纏め/大坂冬の陣
大坂の冬の陣を整理すると以下になります。
<狙い> 豊臣家を掌中に収めたい (勢力平定)
↓
<契機> 方広寺鐘銘事件(活路)
↓
<課題> 難攻不落の大阪城 (堀の存在)
↓
<解決策> 外堀を埋めて脆弱化 (狙いへ戻る)
このように狙いからブレることなく、PDCAサイクルの如く遂行されているのが分かります。
そして以降、脆弱化した豊臣家に残された選択肢は滅亡か恭順の二択になります。
どちらを選んだのかは先述の通りです。
総括/探しなさい。そうすれば、見つかる。
コミュニケーション能力とはこうした何かを動かす際の舵取りをする力ではないでしょうか。
冒頭の例であれば「話すことがない」人とどのように話を膨らませていくか。
「話すことがない」ならば探して相手の出方を待てばよく、それは方広寺の鐘銘に対するいちゃもんみたいなものです。
また、新約聖書マタイによる福音書にはこうあります。
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。(7節)
聞き上手というより、訊き上手=コミュニケーション能力が高いのでしょうね。
もし話すことがない、続かない、ならば丹念に探し続けして話してもらえるよう仕向けるしかなさそうですね。
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