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連載日本史126 江戸幕府(1)

徳川家康は、1603年に征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いたが、二年後には早くも息子の秀忠に将軍職を譲った。将軍職は徳川家の世襲によって継承されることを、内外に示したのである。家康は駿府に隠居したが、もちろん政治から身を引いたわけではない。将軍を立てながらも、自らは大御所として、陰に陽に国政に関与し、幕府の基礎固めに力を尽くした。

徳川家康像(Wikipediaより)

彼がとりわけ腐心したのは、諸国の大名統制と、豊臣家の処遇である。いずれも、一歩間違えば乱世に逆戻りするリスクを抱えた重要案件であった。
関ヶ原の戦いが天下分け目の合戦と呼ばれるため、その後すぐに豊臣家が滅んだかのような印象があるが、実際には家康は、豊臣家を滅亡に追い込むまでに十五年の歳月をかけている。敗れたとはいえ、豊臣家の経済力と諸大名への影響力は大きく、性急に事を決しようとすれば、かえって大きなしっぺ返しを食らう恐れもあった。家康が選んだのは、得意の持久戦である。

関ケ原合戦後の領地一覧<黒線は東軍方、赤線は西軍方>(www.kintaikyo-sekaiisan.jpより)

まず、関ケ原の戦後処理にあたって、豊臣家の経済力を削いだ。全国の太閤直轄地の四分の三を、東軍への恩賞という形で、徳川家に味方した大名たちに分配したのである。西軍に味方した大名の所領は大幅に削減され、遠方の地に封じられるなど、露骨な論功行賞が行われた。一方で、秀忠の娘の千姫を豊臣秀頼のもとに嫁がせるなど、この時点では家康の頭の中には、豊臣家を地方大名のひとつとして存続させるという選択肢もあったと思われる。

豊臣秀頼像(Wikipediaより)

1611年、家康は二条城で秀頼と会見している。もしも秀頼が凡庸な君主であったなら、家康は徹底した無害化を行った上で豊臣家を残す腹づもりだったのかもしれない。しかし、成長した秀頼は、家康に脅威を感じさせるに十分だった。古参の武将が次々と世を去る中で、孤立を深めた豊臣家は大坂城に兵糧や浪人を集め始める。徳川方も大砲や鉄砲の大量購入を進めた。双方ともに、開戦は必至とみたのである。

方広寺の鐘銘(www.meganenosenri.comより)

1614年、豊臣家が再建していた方広寺大仏殿の鐘に刻まれた銘文の中に「国家安康」の文字があったことが徳川家からの攻撃材料となった。家康の名前がバラバラにされて組み込まれているのは、徳川への呪いであるというのである。間に入った片桐且元が和解の条件として秀頼の江戸参勤や大坂城退去を提案したことが、今度は大阪城の実力者である淀殿を激怒させ、両者の対立は決定的になった。

大坂冬の陣布陣図(コトバンクより)

同年冬、徳川軍は大坂城を包囲する。大坂冬の陣である。豊臣方は難攻不落といわれた大坂城に立てこもって徹底抗戦の構えを見せるが、徳川軍の大砲攻勢に淀殿が音を上げた。和睦交渉の結果、大坂城の外堀が埋められることになったが、徳川方はそのまま内堀まで埋めてしまった。最初からそのつもりだったのだろう。堀を埋められて丸裸となった大坂城に、翌年、再び徳川軍が攻め込んだ。真田幸村らが奮戦したが勝負は見えていた。城は炎上し、秀頼・淀殿親子は自害。秀吉の死から17年を経た1615年の大坂夏の陣で、豊臣家は遂に滅亡したのである。

大坂夏の陣布陣図(コトバンクより)

俗説だが、信長・秀吉・家康のキャラクターの違いを示す「ほととぎす」の句がある。
  鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす (信長)
  鳴かぬなら 鳴かせてみよう ほととぎす (秀吉)
  鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす (家康)
大坂夏の陣の勝利は、最後まで慎重に事を運び、勝算が得られるまで徹底して「待ち」の姿勢を崩さなかった家康の人生の総仕上げであった。もちろん家康は、ただ勝利が転がり込むのを待っていただけではない。服部半蔵をはじめ、忍者たちの手も借りて、情報を集め、分析し、好機をうかがい、用意周到に根回しを進めながら、計画的かつ戦略的に待っていたのだ。だからこそ、ほととぎすは彼の前で、最も良い声で鳴いたのかもしれない。







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