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異形者たちの天下第4話-5

第4話-5 大坂という名の天国(ぱらいそ)

 大坂の合戦は大別して、二度の対陣とされる。
 この冬場の合戦を世に冬の陣といい、翌年の合戦を夏の陣という。
 十一月二十五日夜半、徳川家康は大坂城東北半里の地点を流れる大和川に構築された今福・鴫野の砦への攻撃命令を発した。大坂冬の陣の、これが正式な陣触れといってもよい。鴫野砦攻めは上杉中納言景勝・堀尾山城守忠晴・丹羽五郎左衛門長重といった歴戦の強者が対処した。今福砦へは佐竹右京大夫義宣が対処した。
 この戦いで、ふたつの砦は陥落する。
 しかし佐竹勢の被害も甚大だった。いや、そう見せかけたといってもよい。石田三成が大坂城へ入れば
(即座に寝返ろう)
と企んでいた義宣は、家康の手前なんとしても今福は落とす必要があった。そのために死傷する者も必要だった。死傷者六〇〇という報せも実態は偽装であった。佐竹義宣自身は悲壮感を装いながらも、一向に痛みを覚えていなかったのである。
 一二月四日、世にいう大坂冬の陣で
「真田強し」
と諸将に印象づけた真田丸の攻防戦が展開された。大坂城の出丸として築かれたこの砦は、当初大坂城首脳陣に不評であった。
「亡き太閤殿下が築きし城の気品にそぐわず」
と、大野治長などは即座に撤去を命じるほどだった。しかし真田幸村はこれを無視し、堅固な要害を築いた。
 実は、この箇所こそ、大坂城を防衛するうえで要になるだろうことを、一目で幸村は見抜いていた。だから、最も激戦の予想されるこの地に砦を構えるのは、武人として当然の心構えである。しかも自身が防衛に携わることに固執した辺り、真田幸村の武将としての気風が感じられる。
「気位だけで戦さが出来るものか。女に牛耳られた若造に采配されるのは真っ平御免ずら」
 そんな毒付いた一言が、幸村の本音であり真田勢の総意であった。
 真田幸村は信玄子飼いの知将・昌幸の次男であり、その薫陶により軍才に長けた人物である。兄の信幸は家康の四天王・本多平八郎忠勝の娘を妻とした縁故もあり、このとき徳川方に属していた。つまり、兄弟は骨肉の状態である。そして真田兄弟同様、このとき敵味方に分かれていた親子兄弟親類縁者は双方の陣営に多数いた。大坂方についた幸村家臣たちは、戦場にあって同士討ちの恐怖を抱きながら、それでも全幅の信頼を真田幸村に寄せた。だからこそ、このときの真田丸は、鉄の結束に固められた完璧なる要塞であった。
 武将として一流の漢は、戦場の気運を読む。
 だからこそ、真田丸侮り難しとみた徳川方の者は、ここを攻めようとは考えない。しかし軍才もない家名ばかりの凡将は、小さな真田丸をこう見る。
「城の外へ捨てられた造作なき小砦程度」
と。
 真っ先に侮りの笑みを浮かべたのは、将軍・徳川秀忠である。そうでなくても秀忠には
「関ヶ原遅参の原因」
として、真田一族への個人的な怨みがある。そんな曇りきった色眼鏡で判断された凡将の采配下にある兵たちの末路も、哀れ極まりない。
 伊達政宗はこのとき、真田丸を攻めることの無益を秀忠に説いた。
「そちは娘婿の上総介が可愛いのだ。この三郎を将軍職から引きずり下ろしたいのだろう。だから戦果を上げられては困るのだ」
 このとき政宗の隻眼には、秀忠の無能がありありと映っていた。
(こんな阿呆には付き合いきれない)
 そう判断した政宗は、失言したことを理由に真田丸攻撃から手を引いて、後方支援に移る旨を伝えると、さっさと秀忠の陣所を後にした。秀忠にしてみれば弟・松平忠輝の舅である政宗の存在は息が詰まる。だから手柄を与えずに済んだと、呑気に笑う始末であった。
 そしてこの日、秀忠は真田丸攻撃の命令を下した。
 正しくは真田勢の挑発に我慢出来ずに策もなく猪突させたといえよう。そして開戦のことは一切家康に報せていない。抜駆けの功を焦ったといえばそれまでだが、それほど唐突に、鮮やかなまでに挑発に乗せられたのである。
 兵法の理によると、城攻めは最低でも城兵の三倍の兵力を以て挑むべしとある。しかし、このとき真田丸の兵力など、秀忠の念頭にはなかった。
「たかが小砦。如何ほどのものか」
 その嘲りが、城攻めの鉄則を忘却させたといってもよい。そして秀忠は、もうひとつ過失を犯している。このとき徳川全軍には、矢弾から身を守るために鉄の楯もしくは竹を束ねた簡易式の弾除けを装備することが
「軍令」
として定められていた。にも関わらず、それの普及を怠ったばかりか、力づくで短期陥落をするよう指示したのである。
 すべては真田丸を過小評価したためだ。
 が、その結果はすぐに出た。
 小砦の筈の真田丸は、大坂城を眼下にする小高い設計であり眺望は三六〇度可能である。それに加えて蟻地獄のような深い堀を巡らせている。つまり真田丸には死角がなく、何処へでも狙撃が出来るのである。侮りに満ちあふれた軍勢は先ず堀を乗り越えようとしたが、よじ登れない事実に騒然となった。
 その頭上から鉄砲が一斉に火を噴いた。
 退きたくても堀を上ることが出来ず、しかも味方の大軍は数を頼みに次々と押し寄せてくる。このような猪突な攻め掛けに真田幸村は沈着な采配をし、鉄砲の餌食とした。累々と骸で堀が埋め尽くされていく。その挙げ句、泣き叫びながら撤退する将兵を敢えて狙撃しなかったのは、あくまでも幸村の温情である。正しくは
(殺し厭きた)
といってもよい。
 前田利常率いる加賀勢は、名のある武将を三〇〇騎以上討ち取られた。また松平忠直の越前勢は四二〇騎討ち死にし、井伊直孝の彦根勢も甚大なる被害を被った。甲冑武士の死者がそのような数字なのだから、雑兵に至ってはそれを上回る無数の被害が想像出来よう。
 この一戦は豊臣方を戦意高揚に導き、徳川方へ厭戦ムードを植え付けた。
 更に一二月一七日、塙団右衛門直之率いる部隊が夜討ちを敢行。蜂須賀至鎮麾下の中村右近陣所に奇襲を仕掛け、右近や名のある武将の御級二〇余を討ち取った。この塙直之という人物も戦国を生き抜いてきた強者であり、それだけに戦場での愛嬌も忘れない。このときわざわざ
「塙団右衛門直之」
と記した木札を中村陣所にばらまいてきたのだ。一種の自己顕示欲であるが、多分これは他愛ない遊びだろう。
 大坂城に参集した浪人武将たちは頭の固い首脳陣に辟易していたから、戦場で生き生きとするには少しばかりの愛嬌も必要だった。

 この大坂冬の陣は、豊臣に馳せ参じた浪人大名たちの天晴れ武人ぶりが発揮された。徳川の世では生きていけない彼らにとって、これは大きな賭けでもあり、最期の死に華を咲かせる舞台でもあった。キリシタン武士たちは豊臣の御世で布教が許されることを望んでいたが、多くの浪人武将は天下を枕に戦場の露と消えることこそを、むしろ求めていた。
 その真意を受け止める漢が、大坂城首脳陣に不在であったことは皮肉なことである。むしろその想いを深刻に洞察していたのが家康だった。それゆえに彼らの心を汲む首脳の登場を大いに恐れた。
 石田三成が生きて大坂に来れば、そのような恐るべき事態となるは必定である。暴走する淀殿や女どもを自制させ無能な首脳陣を整理し、合理的展開を図るために浪人武士たちを中核に据えることの出来る。そんな人物は、まさしく石田三成を於いて他にない。
 昔の三成は融通の利かない鼻持ちならぬ文官であった。しかし三成とて野に下り時節を忍んだ辛抱強さがある以上、昔とは別人の、武人としての器量を身につけたといってもよい。それに石田三成と真田幸村は妻が縁戚同士の義兄弟、これもまた、厄介このうえない。
 何よりも三成は熱烈な豊臣信者なのだ。
 例え神仏が相手でも、豊臣家と秀頼を守るためならば、平然と立ち向かう男である。そんな厄介な人物は決して生かしておいてはならない。
 織田有楽斎からは、未だ三成参陣の報せがない。
(半蔵めがうまくやっておるのかな)
 死人同士で生命を削りあうも一興なり。
 意地の悪い瞳の色で、家康は大坂城を睨み続けていた。

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