インスタでお世話になっている方と、話していて気づいたこと。 私は褒められるのが苦手なのでなく、ポジティブの押し付けや意見の押し付けが苦手だということ。 私は詩を書くさい気を付けていることはあくまで「自分はこう思うけれで、これで元気になって」とか「こう思え」って押し付けないこと。
善行は「善意」とは違う。たとえ偽悪的に振る舞い、その真意を誰も理解できず、人々が称賛しなくても、誠の心=「黄金の精神」から出た言動を貫き通すなら、その生き様は時空を越えて他の誰かに必ず伝わる。 https://note.com/k_maru027/n/n04bf8d4cac4c
文化(社会的価値観)や社会システムの多くは「性善説」――人々の善性や良心で成り立つ。一方で「良かれと思って」した行いが、結果的に別の誰かを困らせる場合もあるのだ。 誰も悪くない。仕組みに課題があるだけ|青木善則|フラワーディレクター https://note.com/jouroaoki/n/n77e722065e81?
ハッピーに暮らすために:善意でしたことに見返りを求めない。何かをしてあげたのだから感謝してほしい気持ちはわかりますが、満足できる感謝を示してくれない誰かに苛立つのはやめましょう。善意でしたのならそれはあなたの自己満足、見返りがないことが我慢できないなら次からしなければよいのです。
【善意の方がタチ悪い】 善意は 「ありがたく受け取って当然」とか 「善意を拒絶する方が悪」 みたいなのはウザくてめんどくさい 誰もが善意を欲しがってる なんて思いあがりは ほんま迷惑極まりない
我々は知らぬ間に、地上の虫や他人の足を踏んでいるかもしれない。 「誰もが誰かを傷つけている」――重要なのは皆が目を背けた世界の真実と向き合う勇気だ。 誰も傷つけずに中立と正義を託つ「普通の人」などいない。 暴力についての話|lily https://note.com/lily1927/n/n741e23872f7e
いまやネットもリアルも国内外問わず「絶対的な正義や善」を振りかざして暴走する輩で溢れている。 だから私はいつも『正義≠善』だと説いているのだ。 正義とは武器であり、自分の不快なものを殺したいがための方便|荒川和久@「結婚滅亡」著者 https://comemo.nikkei.com/n/nd2eaa18d872c
酷くないですかね。 出張用にパソコンの入るバックをわざわざ中身を出して貸したのに 使わないと放っつけている。 最悪だ!人としてどうかと思う
強風で駐輪場の自転車がたくさん倒れていた。1台〜5台くらいならおこそうかと思ったが、さすがに多すぎてやめておいた。なんなら引き続き強風なのでおこしたところでまた倒れるかもしれないからだ。でもやっぱりおこしておいた方が良かったのか、その場を後にした今も何だかスッキリしない…。