ありがた迷惑と自由の侵害【社会不適合録】リュックのチャック編

 リュックのチャックが半分しか閉まっていないのを、チャック開いてるよ、と指摘されるのはあまり好きではない。

 なぜならチャックを半分閉めていれば激しく動かなければ物は落ちないし(私のリュックの場合)、日本はそれで物を取られるほど治安が悪くないから、大して気を使う部分ではない。
 必要がないことに気を使うことはリソースの無駄遣いであり、貧乏性の私には唾棄すべきものである。

 また、半分開いてるのが見てて気持ち悪いから閉めて、とかであれば人に迷惑をかけるのならやめる必要があるから閉めるけれど、それが善意で言ってくれている場合、それは善意の押し付けであり、私は「ありがとう」と形式的に言わなければならない時違和感を覚える。

「チャックそれ、気になるからさ、閉めてよ」「分かったよ」「ありがとう」これが自然だろう。
 ありがたく思うのはどう考えても相手だから。


 チャックを少し開けるのは、私のそのような思考由来であり、アイデンティティと呼べるものであるから、それを一般に合わせる必要はないし、矯正することは自分を押し殺すことになる。
 そういった些細なところにも、私はアイデンティティ、自分が自分である所以を点在させているから、そこに土足で踏み込んでんじゃねえよ、とつい思ってしまう。

 しかしそのような感情を表出させていたずらに人と対立しても仕方がないので抑制しているし、私の忍耐力は人よりも高いと自負しているので、大抵の場合問題にはならない。
 ありがた迷惑に対してもしっかりと、「ありがとう」と形式的に言える。社会適合者を演じた方が社会での共生において得であることが多いから、そうする。


 だが、それが身近な人である場合、問題になったりする。
 例えば私の母は私のアイデンティティ、こだわりを大抵否定してきた。
 こうした方がいい、という正しさを押し付けてくる。
 あなたのことを思って言っている、という体を絶対に崩さないから、母には常にイライラさせられた。
 幼少期は特に抗うすべがないから、私は自分自身の欲求を押し留めて、言いなりになりながら生きることを余儀なくされた。

 私が過度な気遣いや、ありがた迷惑を嫌悪するのは母の影響に他ならない。私は母から自由になりたかった。
 しかし大人になった今自由を求めたところで、子供時代の自由は帰ってこない。

 宿題やったの、鐘鳴る前に帰ってきなさい、洋服伸ばしちゃだめでしょ、帽子被りなさい、茶碗持ちなさい、三角食べしなさい、運動部入りなさい……etc.

 宿題を無理やりやらせることは、学習のモチベーションを下げるし、自主的に取り組む力が育まれないことにつながる。
 また、宿題をやらないことによるデメリット(夢の実現の為、馬鹿にされない為など)を考えて自ら取り組もう、というような気づきの機会をも奪う。
 同時に、考えた上で取り組まない、自分が夢中になれることを優先するという意思さえ奪う。

 三角食べを意識しながら食べる飯は味がしない。
 三角食べはできる人には当たり前にできるけれど、できない人には本当にできないから。
 そういった個性を尊重されることがないと、食事の喜びや美味しさに気づくことが大幅に遅れる。私はそうだった。
 だから中学の頃『人間失格』を読んだ時、食事の苦痛さを訴える大庭葉蔵に大変共感を覚えた。
 それに、好き嫌いや三角食べは、大人になるにつれて自然と克服していった。
 子供の頃それで怒られた経験はなんの役にも立たなかった。強いて言えば捻くれた思考を育むのに役立ったか。
 これ以上の母親批判は主題とズレるため控えようと思う。

 兎にも角にも、私は人間に対して善意の干渉をしないように心がけている。
 こうした方がいいよ、と言って従わせて良い結果になったとして、そんなことに何の意味もない。
 たとえ失敗しても、自分で選択した自分の人生であると誇れることの方が何倍も大事だから。

 チャックを閉めてなくて物を落とした。(チャック開けてても中の教科書ノート充電器とか、逆さにしない限り落ちようもないけど、仮に落としたとする。)
 しかしそれに悔いはない。
 私の選んだ結果だから。
 それを受けて、私が今度からはチャックちゃんと閉めるようにしよう、と思おうが、思わまいがそれすらすべて自由。自由、自由、自由。
 誰もそれを侵すことはできない、と私は考える。
 法律に反さない限り人の行動は放っておこうよ、目指せレッセフェール社会。

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