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「我が国」とかいうクソ気持ち悪い表現

折に触れ、街とその不確かな壁の感想文を書いています。ヘッダ画像をお借りしています。

なにもリベラリズムだのナショナリズムだの、それ系のことが話したいわけではない。そういうのに属したくない。愛すべき日本人もおり、唾棄すべきそれらもいる。

国家に忠誠など誓い、信用したらあとは衆愚政治となるだけだから+つけあがるだけだからせず、日本の放つシステムの一部の恩恵を限りなく受ける。これこそが多様性である。そういうのを求められている方はそういうコンテンツが以後一切ないのでご覧にならないほうが可処分時間的に無難だ。

街とその不確かな壁の途中である程度の立場からものを見るシーンがあります。それはどんな本を図書館に置くべきか?という命題に基づく。

そこには当該責任者の"思想"が介在することになる。たった一人の思想がその町の全てに影響を与えることになる。その町に生きるものの思想についての生殺与奪を握ることになる。ところでこの生殺与奪とは冨岡義勇がせりふにしてしまってからというものまるで冨岡義勇の影響を受けているみたいで言いづらい。ぼくはおにめつ好きで読んでたし、普通に全巻持っています。嘘だと思われるのであれば、ぼくのページを「おにめつ」とかで検索なさるといいでしょう。

たったひとりがその地域つまり包括的に多くの生命に対して思想の芽生える是非に影響を与える状態とはいささか危険であるように、ぼくはこのあたりの数文を読むに連れ思った。で、なんかにちけえなと思ったのがこの題名にもした我が国である。我が国でもわが国でもなんでもよろしい。「私たちの国」じゃだめなのかよ?日本じゃだめなのか?どんな不都合がある?

ぼくはこれで教科書問題も思い出したがこれもマジでどうでもいい。国家が教科書を検定しなければどうでもいい。第三者機関に任せろよ。国家の意思を反映した教科書なんてナチス育成読本とどう違うのだ?

まずはこの教科書に載っている日本を表現するときに使われる気色悪い単語である我が国を消し去る時であるという自覚を持たなければならない。

この「我が国」という表現には、まるで自分たちが一つの大きな家族であるかのような幻想を抱かせる意図が見え隠れする。だけど実際にはそんなことはない。日本という国は多様な人々が集まる場所であり、全員が同じ価値観や思想を共有しているわけではない。我が国という言葉は、無理に一体感を強調し、異なる意見や価値観を排除する方向に働く。これは非常に危険だ。

例えば街の図書館の例のるように、我が国という表現を使うと国家としての一体感を強調し、異なる意見や価値観を持つ個人を抑えつける結果になりかねない。これは、思想の多様性を尊重しない姿勢の現れだ。国家など属すものではない。帰属意識を持つものではない。同調圧を寄越されるものではない。単に対価を払ったりして利用するためだけにそこにあるしか価値のない存在だ。別に日本に限らない。アメ公だってイギリスだって×××カスだって同じだ。そこへ行くともはや××や☓☓☓や☓☓☓☓☓は思いっきり勘違いしてて"オワ"

また国家が一つの巨大なシステムとして機能していると感じることができるのは、そのシステムから利益を得ているからに過ぎない。だがそんな恩恵を受ける一方で、そのシステムがどれだけ多くの人々を苦しめているか見落としてはならない。例えば、労働環境の過酷さや社会保障の不備、貧困層の増加など多くの問題が存在する。我が国という表現でそれらの問題が隠蔽される。

さらに言葉の力は絶大であり、我が国という言葉を使うことで、無意識にでもその背後にある国家主義的な価値観を内面化してしまう危険がある。つまり、個々人の多様な価値観や自由を犠牲にしてでも国家の一体感を優先するような考え方が広まってしまうのだ。これは民主主義の基本である多様性の尊重に反する。

現代の日本社会で求められているのは、多様な価値観や意見を認め合い尊重し合う姿勢だ。我が国という表現はその対極に位置するものであり、異なる意見や価値観を排除し、国家の一体感を無理に強調することで社会の健全な発展を阻害する。そんな言葉に縛られる必要はない。

我が国という表現は、自己中心的な考え方を助長する。自分たちの国が一番大事であり、他国のことなどどうでもいいという排他的な態度を生み出す。このような考え方は国際社会において協調を図るべき時代に逆行するものであり、孤立主義を助長するだけだ。

そもそも我が国という言葉が、どれだけの人々にとって意味があるのだろうか。日本という国に生まれ、そこで暮らすことを選んだ人々にとって我が国とは一体何を意味するのか?単なる地理的な場所であり、法律や制度の枠組みに過ぎない。そんな抽象的な概念に過剰な感情を投じることが本当に必要なのか?

多くの人々が自分の生活や仕事に追われ、日々の生活に精一杯である中で我が国という言葉が何の意味を持つのか。個々の生活が豊かであり、安心して暮らせることが最も重要であり、そのためには国家という枠組みに頼らず、自分たちの力で生活を守り支えていくことが求められる。

我が国という表現は多様性を否定し、排他的な態度を助長するものであり、現代の日本社会においては適切ではない。国家という枠組に依存せず、多様な価値観や意見を尊重し、個々人が自立して生きることが真の豊かさを実現する。抽象的な概念に囚われることないことこそがこれからの日本社会に求められる姿勢だ。

現実を見れば我が国という気持ち悪い表現に囚われる人間はもはや変えようのない固定観念の具体化が生命を宿しているということがわかる。個々の人間が自立し多様性を尊重し合うことでしか、未来の日本は明るくならないのだ。こんなことをいくら言ってもどうせ変わることはないのかもしれない。

自由という概念もまた我が国と同じく、現実においては幻想に過ぎない。結局、個人の力ではどうにもならない巨大なシステムの中で、わずかな自由を求めてあがくしかない。だがそれは徒労に終わる。自由を求める戦いなど、最初から無意味だと悟るべきだ。

SNSを見れば短絡的な発言があふれ、多くの人々が浅薄な自己表現に終始している。そんな中で本当に意味のある議論や深い思考が生まれることはほとんどない。SNSの世界は、思考停止の集まりであり、彼らに期待すること自体が間違っている。

現実を見れば衆愚が支配するこの世界で、個々人が真の自由を手にすることなど不可能だ。我々はこの現実を受け入れ、小さな幸福を見つけるのに命をかけている。悲しい現実であり、我々が直面する真実だ。

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