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第10回:「が」のお話
「が」について、ささやかなお話をしよう。まず、自己紹介のテキストを書くとする。
「ぼくは中学3年生ですが、来年4月から高校生になります」
このテキストはすぐ修正をかけることになる。手を加えたあとはこうだ。
「ぼくは中学3年生で、来年4月から高校生になります」
ダムのひび割れみたいに論理一貫性を傷つけるもの
たとえばインタビューでの発言を聴いたり、他のライターのテキストをチェックしたりする
第6回:ライアン・ラーキン パンキッシュなアニメ作家の物語。アカデミー賞にノミネートされながら、物乞いに堕ちる路上の人生
あらゆる表現で、残された作品以上に生み出した作家のパーソナリティが取り沙汰されることも少なくない。その作家が苛烈な人生を送ったならばなおさらだ。
たとえばポピュラー音楽の領域ではたくさんのケースがある。60年代はそうだ。ドアーズのジム・モリソンや、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンなどなど……どれも音楽とともに苛烈な人生も語り草になった。
ところが同じ60年代、アニメーションで苛烈な作
第3回:ユン・ドンシクのプロ初勝利 名誉と報酬をめぐる物語としての格闘技
社会的に得ることのできる名誉と活動対価である報酬について考えるとき、いつもある選手のことを思い出す。
名誉と報酬の関係を考えるうえで、少し前のMMA(※打撃、投げ技、関節技が許される総合格闘技の正式名称)ほど適したジャンルはない。ふたつの価値がドラマチックな展開を見せる、おそらく唯一のジャンルだからだ。
格闘技のプロとアマの極端な溝
スポーツで結果を出した選手の名誉は、誰が見てもわかる。首に掛
第2回: 現実世界の向こうの現実へのアクセス
「現実からディスプレイの向こう側の作品世界と関わる」これはプレイヤーがモニターを介してビデオゲームの作品世界に関わるという構造を利用した仕掛けだ。この構造を打ち出す手法は、とくにメタフィクションで顕著に見られた。
そんな構造について。自分にとってのファーストインプレッションはちょっと気恥ずかしいものだった。『Undertale』や『MOTHER2』みたいにメタを押し出しているものじゃない。ひとめ
『シン・エヴァンゲリオン』自分語りも庵野監督語りもすべて排除し、アニメートのみに特化したレビュー
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(以下「シンエヴァ」)は荒い点がすごく多いけれど、観終わってよかった作品でした。
本レビューは、シリーズを長年見てきた書き手自身の思いを書くことや、監督の心情や人間関係を特定のキャラクターに当てはめるような、すでにネットに溢れている評価を一切書いておりません(もちろんオタク論みたいなものは1文字もないです)。“アニメート”一点のみです。
アニメートとは、アニメで
<隣の言語・1>淡さと残酷が入り混じる、“家族の呪い”を描いたベトナムの小説『囚われた天使たちの丘』
「だって君はずっと悲惨な話ばかりするし、君がそれに慣れっこになっていくのがいやなんだ。君はそういう話をしていても、心の中ではなんの痛みも感じてないんじゃないかな」(p.260)
これからもっと諸外国の人たちが増えていくというが、とうの昔から外国の人たちは国内で働き、過ごしている。だけど、その人たちそれぞれの国の歴史も心についてもあまり知られてはいない。
<隣の言語>はそんな物語と現実のコントラ
写真と、莫大な情報の渦中にて trialog vol.2『ヴィジョナリー・ミレニアルズ』より
今回のエントリは価格が設定されていますが、最後まで閲覧することが出来ます。
インターネット以降のなかでも、とりわけスマートフォンに代表されるモバイルコンピューティングが浸透してからは莫大な情報量で溢れかえるようになった。それはテキスト、映像、イラストレーションなど個々の表現媒体の意味合いを大きく変化させた。その中でも写真表現に関しての変化は大きい。
各種SNSの発達により、日々に生産され発表さ