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「チュニジアより愛をこめて」 第13話

 ――青と白に彩られた美しい街、シディ・ブ・サイドでの日々は、緩慢に、けれど夢のような心地よさのなかで過ぎていった。
 この街の滞在も、もう一週間を越えた。不思議なことだけれど、この街は、居れば居るほど私を捕らえて離さなくなっていった。もしかしたら昔、生まれ変わる前のいつかの人生で、ここに暮らしたことがあるのかもしれない。そう思うくらい、その全てがしっくりきて、懐かしいのだった。
 
 滞在しているB&B形式の安宿の主人とも、すっかり顔見知りになっていた。毎朝受付のある小さなロビーで簡単な朝食を出してくれる彼は、給仕のかたわらいつも声をかけてくれる、親切な人だった。
「今朝も綺麗だね、マダム」
 少し軽口を叩く癖のある五十がらみのオジサンで、ハムザという名前だった。
「ありがとう。マスターも、今日もお元気そうですね」
 私も気軽に言葉を返す。マスターと呼んであげると、少し大げさなくらい彼は喜んだ。
 独り旅の私とこのご主人との間には、度重なる会話を経て、段々と親しい雰囲気ができ上がってきていた。
「マダムは、失恋か何かしたのかね?」
 ある朝、心配げな顔をして、改まったようにハムザさんが言った。
「え?」
 私は唐突なその言葉に呆気あっけに取られて声も出なかったが、彼は続けざまに言った、
「うちに来た時から、浮かない顔ばかりしてる。ちっとも笑わないし、幸せそうに見えない」
「そうですか?」
 私は努めて笑顔を見せようとしたが、アー、アー、アー、と言いながら、ハムザさんは手の甲を斜め上に何度も振り上げて否定する仕草をした。
「一生懸命作り笑いしようとしても、すぐにわかるよ。あなたは幸せじゃない。これは、恋が上手くいってない女の顔だ」
 私は苦笑するばかりだった。ハムザさんはお節介で、いい目を持っている。
「さあ、白状なさい。誰を想ってそんな風にふさぎ込んでいるの?」
 有無を言わさない厳しい声色になって、ハムザさんは向かいの椅子にどっかと座り込んだ。
「誰って……。誰だろうね?」
 私は日本人らしい曖昧な笑みを浮かべて、とぼけようとした。
「チュニジア人の男か?」
 単刀直入にハムザさんは聞いた。私は何も答えず、テーブルの上で頬杖をついた。
「そうか。そうなんだな」
 彼の中ではもう答えが出たようだった。顎に力を入れて、口をへの字に結ぶと、その瞳に優しそうな情を込めて、彼は話した。
「そうなら、さっさと切り捨てることだ。そいつはもうとっくに新しい女に走ってるよ。私を信じなさい、このことだけは間違いがない」
 あなたも未来を向いて、前に進みなさい。どうだ、私の妻になるというのは? と、ハムザさんは言った。冗談なのか本気なのか、とにかく私は笑った。すると彼は、真剣な顔で体を前に乗り出し、イスラム教徒が四人まで妻を持てること、今自分にはひとり妻がいるが、この宿の経済状況からすると、もう一人くらい大丈夫だ、などと言い始めるのだった。
「チュニジアの法律では、妻は一人と決められているでしょ」
 それくらいのこと、知ってますよと私が言うと、バレたかと言ってハムザさんは笑った。それに釣られて私も笑った。久しぶりに朗らかな笑い声が喉から漏れた。それを聞いて、ハムザさんは嬉しそうに言った、
「とっても可愛らしい声で笑うじゃないか。僕の小鳥ちゃん」
 私の喉から、更に朗らかな声が出て、二人でひとしきり笑った。
「ありがとう、マスター」
「やれやれ。良かった」
 善人そうな四角い顔をしわくしゃにして、ハムザさんは厨房の方に引き上げて行った。
 
 
 後に残された私は、静かになったロビーの真ん中で、平静に戻った。すると、またすぐに物思いのとばりが下りてきて、止められない考え事が始まった。
 
 ハムザさんの言う通りだった。
 ――実は、今年に入ってすぐ、彼のフェイスブックを偶然見てしまったことがあった。そのプロフィール写真は、男女が仲睦まじく抱き合って目を閉じているものだった。無論、男の方は、彼である。若い二人は無邪気に未来を展望しているように見えて、そして美しかった。
 彼の方はもうとっくに新しい人生を始めていた。私は、それが許せなかった。前に進めず堂々巡りを繰り返している私を置き去りにして幸せそうにしている彼を恨み、彼の未来を滅茶苦茶にしてやろうと思っていた。けれどそのいかにも日本的な湿った感情は、太陽が幅を利かせるここチュニジアでは、全く受け付けられなかったのだ。
 そういうことだった。
 でも私は今、私の〝新しい人生〟は?という疑問にぶつかっていた。それは、一度目の前に開けていたようにも思われた。けれどそれは、秋風に消し飛ばされるフワフワした真夏の夜の夢のように、あまりにも呆気なく散ってしまった。
 その人のことを私は想った。幾つかの忘れがたい思い出を残して、夢のような日々の向こうに退いてしまった人……。実際、今は彼にとても会いたかった。けれど彼と私を結ぶ接点は、すでにもうどこにもなかった。彼は彼の生活の内に向かい、この先は義務という鎖でそこに繋がれることになっていた。日本に戻る途中のトランジットで、彼に再び連絡を取るなどということはできそうになかった。彼のことを考えるたび、諦めという冷めた感情と、哀しみという濡れた感情が交互に湧き上がるのだった。
 
 
 ――だから私は、旅に出ることにした。
 今回のヨーロッパとチュニジア滞在の旅費は、まだいくらか予算に余裕があった。今がそのタイミングだと私は思った。私は台湾の占い師リウの話を思い出して、まずは南部に向かうことにした。宿をチェックアウトする時、ハムザさんは寂しさを滲ませながらも喜んでくれた。
「やっと出発する決心がついたんだね」
 彼は言った。
 

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