- 運営しているクリエイター
#奇跡のコース
バイロンケイティと癌患者パムとの対話
一元論のスピリチュアリティとは、純粋な非二元のスピリチュアリティのことコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)とはどのようなスピリチュアリティなのか?
というなら、
純粋な非二元のスピリチュアリティであると言うことができます。
もしくは、一元論のスピリチュアリティと言い換えることもできます。
では、そのスピリチュアリティを学んでいくことによって私たちはどうなっていくのか?
というなら
「悟り」の体験と「悟りを生きる」ことには大きなレベルの違いがある
極楽トンボこの世界は幻想なんだから、どうせ夢なんだから、だいじょうぶ、すべては愛なのだから、大丈夫、、、深刻になる必要なんてない、、、自分たちはこの夢の世界を味わうために来たんだから、この夢を楽しめばいい、、、
というようなことを言っているノンデュアリスト(非二元論者)あるいはノンデュアリティスピーカーさんたちを多く目にします。
ちなみに、彼らのような人たちのことを、ワプニック博士は、「極楽
コースの学びのプロセスにおけるさまざまな霊的体験について
霊的体験は、コースでは重要視していませんコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の学びの実践のプロセスにおいて、私たちは内的な体験、それを霊的体験とも呼べるわけですが、そういったさまざまな体験を通して学んでいくことになります。
ときには素晴らしい愛と至福に触れていくような体験であったり、ヴィジョン(知覚のシフト)の体験であったり、悟りを一瞥するような体験であったりとさまざまな体験をしたりするわ
心の力(パワー)をみくびることなかれ!
心の力(パワー)を尊重するコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)では、「この世界は、夜寝ているときに見る夢と同じようなものである」と述べています。
とは言いましても、実際のところ、コースで述べられていることがそう簡単に受け入れられるものではありません。
「自分の見ているこの世界が本当はただの夢(影/幻想)だ」なんてとうてい思えないのが正直なところです。
それほどまでに私たちは、「この世界
神聖になろうとするのではなく、神聖さはそこにただ在るものです
コースをスピリチュアライズすることについてコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいこうとしたとしても、なにせ、コースが教えている内容がとても難解なわけです。
それゆえに、コースの学びのプロセスにおいて、何のためにコースを学んでいるのか?その目的を見失って迷走しまうことはよくあることだといえましょう。
特に、自分は真面目なコース学習者であり、神聖なコース学習者だと思っているコース学習
今までの自分の見方、考え方というものをまるごと明け渡していく道
There must be another way. (別の方法があるにちがいない)少しばかり皮肉っぽい言い方になりますが、
「自分は幸せです、自分は平安です」
と思っているとしたならば、コース(奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいくことは難しいといえるでしょう。
もし本当に幸せであるならば、そもそもがコース(奇跡のコース/奇跡講座)など必要ないというものです。
そうではないからこそ「真の幸
形而上学は、所詮、形而上学でしかなく、形而上学があなたを目覚めさせるわけではない
コースが教えている内容のシンプルさが見えてくるときコース(奇跡のコース/奇跡講座)の形而上学を理解することはコースを実践していく上で必要不可欠であるということは言うまでもありません。
ただし、私たちがわきまえておかなければならないのは、形而上学は、所詮、形而上学でしかないということです。
形而上学をいくら理解していったとしても、それが自分の人生のすべてに適用されていないならば、もしくは体現され
「与えることは受け取ること」「教えることは学ぶこと」を体現していく
偉大なる神の教師は偉大なる生徒になっていくワプニック博士は私たちにこう注意を促しています。
「実相世界にいるフリをしないように」と。
ようするに、目覚めたフリ、悟ったフリをしないように、ということです。
というのも、私たちは、つい、そういうことをしてしまうからです。
霊性(スピリチュアリティ)すらも私たちは自我の隠れ蓑にするということです。
もしそうしてしまうならば、もはや、それ以上学ぶ
「聖霊に明け渡す」「聖霊にゆだねる」ということについて
聖霊とは?コース(奇跡のコース/奇跡講座)でいう「聖霊」とはいったいどういうものなのでしょう?
コースでは、聖霊(ホーリースピリット)について教師、守護者、導き手というふうに述べています。
私たちが気をつけておかなければならないのは、私たちは聖霊について、つい、その言葉通りに解釈してしまうということです。
いわゆる、ハイアーセルフとか守護霊といった類いの存在として、つまり、自分とは何か別の