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愛着障害で自殺した父が残した”迷台詞”5選

私は愛着障害で生きづらさを抱えています。頑張っても人並みに人生が進まず、40代後半でようやく自分がおかしなことに気づきました。愛着障害について学び、自分の人生を振り返ってみると、両親からの影響が大きいことに気づきました。子供の頃はそこまで気に留めていませんでしたが、大人になって振り返ると、父親が精神的に病んでいることが非常によくわかります。

そんな父が残した台詞を振り返って、問題点を整理してみようと思います。


はじめに

「愛着障害」とは?

幼少期に養育者(主に父母)の愛情を十分に受け取ることができず、おかしな固定観念を引き継ぎ、生きづらさを抱えている状態のこと。身体的な虐待だけでなく、過干渉、過保護、両親が不仲などの精神的な虐待も含む。幼少期に作られる心の安全基地(土台)が皆無のため、自己受容感が低く、何をするにも恐怖心が強かったり、対人関係全般に困難をきたす。そのような傷を負った大人をアダルトチルドレン(AC)と呼ぶ。

父と私

父:母親(私の祖母)の強烈な過干渉を受けた愛着障害。三兄弟の長男。責任感が強く、根は優しい(はず)。母親に徹底的に管理され洗脳され、日本で一番優秀な大学の法学部に入れられ、やりたくもない難しい職業に就く。端から見たらエリート。9歳年下の私の母(1度も働いたことがない専業主婦)とお見合い結婚、子供は長女(私)と長男(弟)。
ユーモアのある面もあったが、豹変すると平手打ちや言葉の暴力で服従させようとすることが当たり前。仕事が原因でうつ病になり1年病院で療養、退院後に近所の竹やぶで首つり自殺。

私:「人生は苦しいものであるべし」というおかしな固定観念を父親から無意識に引継ぎ、生きづらさを抱える愛着障害。若い頃は体力で乗り切っていたが、人生の折り返しに来て、ようやく自分を限界まで追い詰める働き方・考え方をしていることに気づく。ACは我慢強いのよ。
愛着に問題があるため、パートナーシップも全くうまくいかない。30代で結婚相談所、街コン、パーティー、お見合い、マッチングアプリを介して相当な人数と会ったが、お付き合いに至ったのは1人のみ。好きになる人は、家庭を持っている、結婚の意思がない、手の届かない人、などダメな傾向。

そんな父が、私に放った忘れられない台詞ベスト5です。張り切ってどうぞ!

5位:「お前は友達が悪い」

小さい頃は一緒に遊んでくれたり、勉強を見てくれたり、良い思い出もあるので、父のことは好きでした。だからこそ、優しい時と鬼になった時の落差が激しく、混乱しました。

中学生以降は、父のことが完全に嫌いになりました。とにかく過保護・過干渉で、言うことを聞かないと平手打ちされるので(鼻血ブー)、中高生の多感な時期はものすごく窮屈でした。おこづかいも決して多くないのに高校生になってもバイト禁止で、遊びに行くのも制限が多く門限が厳しく、友達に断りを入れるのが苦痛でした。

私は音楽が好きなのですが、コンサートに行くことができるようになったのは大学生になってからです。だから中高生の頃からライブハウスに出入りしていた、という人の話を聞くと羨ましくて仕方がありません。
「欲しいものがある時は都度言え」と言うルールでしたが、どういうタイミングでどう言ったら聞き入れてもらえるのか?と、親の顔色を常に窺っていたことを思い出すと、本当にげんなりします。母は意地悪な面があり(父や姑のストレスを私にぶつける)、タイミングを誤ると聞き入れてもらえませんでした。窮屈で仕方なかったので、学生の頃はとにかく一刻も早く家を出たいと思っていました。

中学生の時です。夜、近所のお祭りに友達と遊びに行きたいとお願いしたら、父は「お前は友達が悪い」と言いました。都心の小さな公立中学に通っており、学生の人数も少なく、近所の友達の素性を両親は知っています。不良みたいな子はいません。それなのに、夜遊びに誘うという理由だけで、このようなことを言ってくるのです。全く意味がわかりませんでした。

思えば、両親ともに友達らしき人の存在を知りません。父の葬式は家族葬だったので、後日1人だけ学生時代の友達が自宅を訪ねて来ましたが。
また、私が友達と出かけたいと訴えても「子供だけで危険だから」と禁止する母に対し、「お母さんは学生時代に一緒に出かけたいと思う仲の良い子はいなかったのか」と聞いたことがありましたが、苦虫を潰したような顔で「いない」と答えが返って来て、驚いたことがありました。私も友達は少ない方ですが、両親ともに人間関係を構築するのが下手くそだろうから、仲の良い友達がいなかったのではないかと思います。

友達と楽しく過ごす習慣がなかったせいなのか、子供が友達と遊びに出掛ける(特に夜や遠出)となると、理解が低いのだと思います。とは言え、私を悪者にするならまだしも、友達を悪者にするのが子供心に許せませんでした。

また、両親ともに凡人のくせに、妙に選民意識が強いところが昔からすごく嫌で不思議でした。「あの家(私の友達)は程度が低い」などと平気で言うのです。何をもって判断しているのか謎です。本当に立派な人はマウントなど取りません。父は、祖母からの支配で自分の中に確固たる軸ができず、自信や安心感がなかったのだと思います。だから、他人を否定することで自分を上げていたのかもしれません。

父の生きづらさ:自己受容感が低く、他人を攻撃することで自己肯定をしていた

4位:「俺のことをバカにしやがって!」

「お前は友達が悪い」など、私には理解不能な常識で支配して来ようとするので、次第に何を言われても父のことを冷めた目で見るようになりました。昔は反論して殴られたりしていたのですが、もはや何を言っても無駄だと思ったので。さすがに年頃の娘を流血させることは気が引けたのか、中学生以降は暴力は減っていきました。「お前を脅すために竹刀を買ってきた!」と竹刀を振り回されたこともありましたが。令和なら完全に虐待です。

そんな私の冷めた態度に、父はある日「俺のことをバカにしやがって!」と怒鳴りました。大学生の頃だったと思います。それはそれは憎々し気な表情で私を見ていました。
確かに父のことをバカにしていたのだと思います。なぜ理解不能な常識を押し付けてくるのか、心底意味がわからなかったので。話し合いで理解してもらえなかったので、自然とそういう態度になったのだと思います。「こいつ、マジで何言っても無理ゲー」みたいな。私にとっての非常識(偏見に満ちた窮屈な考え方)が、父にとっては常識なのです。
父は祖母の言いなりに生きてきたので、「自分は親の言うことを聞いて来たのに、お前が聞かないなんて許せない。俺をバカにしている」と言う思いだったのでしょう。

「親は友達じゃない」という迷台詞もよく言っていました。是が非でも、親は偉い立場にあると主張したかったのだと思います。自信がないから。今なら「子は奴隷ではない」と教えてあげたいです。

「子育てで自分が成長した」「子供に育て直してもらった」とおっしゃる親御さんがいらっしゃいます。とても謙虚で、子供の尊厳を守っています。私の両親は「子供と一緒に自分も成長しよう」という姿勢は皆無でした。親が絶対的な神なのです。子供は支配対象なのです。自分が親にそう扱われたから。

父の生きづらさ:祖母の言いなりで生きて来たため、子供の自由が許せない

3位:「好きなことは定年後にしなさい」

父には趣味らしいものがなかったと思います。前述した通り、一緒に出掛ける友達もいません。家族で旅行に行くことはたまにありましたが、父が単身で何かをすると言えば、運動不足解消のための太極拳、散歩、読書など。

私は大学生の頃、サッカーのJリーグにハマりました。それまで自由に遊びに行かせてもらえなかった反動もあったと思います。毎週のようにサッカースタジアムに出かける私を見て、父は真顔で「そろそろサッカーは卒業した方がいいんじゃないか?」と提言してきました。
「はて?趣味に卒業はあるもなのだろうか?」サッカースタジアムには、老若男女問わずたくさんのお客さんが来ていますよね。父のその考え方に驚愕したことをよく覚えています。

私の趣味が、父と同じく読書であれば卒業云々とは言わなかったとは思います。父はサッカーの面白さを1mmもわかっていないタイプだからかもしれません。(テレビでサッカー中継している時、ずっと新聞を読んでおり、ゴールシーンだけ顔を上げてテレビを見て「つまらない」という人間)
当時「推し」という言葉があったとしても、父には一生「推し」の概念も理解できなさそうな気がします。祖母に楽しいことを禁じられていたのでょう、世界が狭いのです。

そんな父が真顔で発言してびっくりしたもう1つの台詞が「好きなことは定年後にしなさい」です。ものすごく驚いて、真面目に聞き返したように覚えていますが、父も至極真剣に、定年まではきっちり働いてさえいればいいんだぞ、と返して来ました。当時から父は変な人だなと思っていましたが、今この台詞を思い出しても、かなりおかしな固定観念を持った人間だなと思います。

定年後まで好きなことを禁じる人生は豊かでしょうか。幸せでしょうか。そんな父は、生きづらさに屈して、定年直前に自殺しました。父がやりたかった好きなことって何だろう。全く知りません。好きなことをやらないまま人生が終わるのって、どんな気持ちなんだろう。

「好きなことは定年後に」というおかしな考えは、紛れもなく祖母の洗脳です。祖母は、日本で一番有名な大学に入って立派な仕事をしている息子を多くの人に自慢し、金を無心したかったのです。祖母の壮大な計画です。父が自分のせいで自殺することは誤算だったでしょうけど。

そう言えば「お前は親の言う通りに勉強してさえいればいいんだ」と言われたこともありました。恐ろしいことに、中高生時代はそれを信じていたのです。「お前は1人じゃ何もできない」ともよく言われていました。私を支配下に置きたかったのか、父が祖母からそのような扱いを受けていたからなのか。そのせいか、何かを1人でする時に、もしかして他人よりも恐怖心が強いのではないか、と思うようになりました。親の庇護下にある時はともかく、社会に出た時におかしな常識は通じないのです。子供にとって生きづらさの原因となる呪いの言葉です。

もし、父が祖母レベルの支配欲の強い人間であれば、私も父と同じ末路を辿っていたかもしれません。幸い私は子供の頃から父はおかしいと思っており、大人になって知識を得て我が家が普通ではないことを証明できました。しかし父は祖母の洗脳が強烈過ぎて、自分が異常な状況にいることを最後まで気が付けなかったと思います。もし今のようにネットが発達しており、知識を得る手段があれば、父は死なずに済んだのだろうか。

父の生きづらさ:親の支配が強烈で、自分を苦しめるおかしな固定観念に気づくことができなかった

2位:「毎日おもしろおかしく生きやがって!」

中高時代に比べて遥かに自由になった大学生時代、ここぞとばかりに遊びまくっていたら、ある日父が「お前は毎日おもしろおかしく生きやがって!」と激怒しました。最初にこのセリフを聞いた時、すぐに理解ができませんでした。翻訳すると、「俺が毎日汗水垂らして嫌なことを我慢してお前らのために働いているのに、お前だけ楽しく能天気に生きているのが許せない。お前も苦しみながら生きろ!」ということになるのだろう。

自分に厳しい人は他人にも厳しいのです。私も父のおかしな固定観念を自然と引き継いでいたところがあるので、はっきり言って真面目な性格です。職場では「真面目できっちりしている」という評価があります。そして、適当に仕事をしている人に対して寛容的ではありませんでした。父のように、「私がきちんとスケジュールを守って作業しているのに、あの人は平気でスケジュールを守らないなんて許せない」と思っていたのです。

アダルトチルドレンは、自分で自分を律するのが得意なのです。何故なら「自分を追い詰めて身を粉にして働かなければ、自分は生きる価値はない」と親に刷り込まれているからです。そしてやっかいなことに、他人にもそれを求めがちです。

今では「私は無理に頑張らなくても生きているだけで価値のある存在だ」と思えるようになったので、職場でも適当な人に対して何も思わなくなりました。自分に適当さを許可することで、他人の緩さも許可できるようになったのです。

類似の台詞として「俺が働いているのに、お前が遊びに行くのは許せない」があります。私は直接聞いていないのですが、母が親戚と旅行に行きたいと父に申し出た際に、こう拒否されたそうです。反論できなかった母も弱いなと思いますが。
何故なら母も愛着障害で、「専業主婦の私なんかが夫が働いているのに遊んではならない」と思っていたような気がします。

そう言えば、父が風呂場で「どこで育て方を間違えたのだろう」と独り言を言っていたのを聞いたことがあります。そもそもあなたの育てられ方が間違っていたんだよ、と教えてあげたい。愛着障害は世代間に連鎖します。

父の生きづらさ:人生はひたすら苦しいものであらねばならぬ、という不幸な思い込みがあった

1位:「お前なんか死んでしまえ!」

小学校4年生ぐらいの時だったと思いますが、家族でスキー場に行きました。私と弟はソリ遊びをしすることに。「崖の方は危ないから滑っちゃダメだよ」と父に言われました。しかし雪面が思ったよりアイスバーンがひどく、コントロールできずにソリが崖の方角へ向かってしまい、間一髪で止まって冷やりとするシーンがありました。

父が鬼の形相で走って来たので、心配してくれたのかなと思ったら、ものすごいスピードで固い雪玉を作り、剛速球を何発も私に投げつけ「お前なんか死んでしまえ!」と罵られたので、あっけにとられました。父に反抗して、張り倒されて鼻血が出ることもあったので暴力は珍しくなかったのですが、堅い雪玉をぶつけられることは初めてで、「これはマジで顔に当たったらヤバイぞ…」とぞっとしました。幸い身体を少しかすったぐらいですが、その時の雪玉の固さ、冷たさ、背筋がゾッとする感じは今でも身体に残っています。
20-30代の頃はこんな出来事なんてすっかり忘れていましたが、今になって振り返ると、トラウマものなのでは?と気づき、愕然としています。長いこと気になっていなかったのに、最近はこの言葉や身体の感覚を思い出しては不快な気持ちになるので、治療が必要かもしれないと思うようになりました。
子供の頃は、親が暴力的で横暴なのはどこの家庭も当たり前なのだと思っていました。でも普通に考えて、親が子供に「お前なんか死んでしまえ」なんて言わないですよね。

激怒した父は、そのままスキー場のロッジへ消えていきました。びくびくしながら後を追ったのですが、父は「えへへぇ」と照れ笑いのような笑顔で私を迎え入れました。意味がわからなかったです。子育てにおいて、養育者の一貫しない態度は子供を混乱させるので良くないそうですが、身を持って納得します。

父は、仕事や祖母からのストレスが強すぎて、自分の気持ちをコントロールできなかったのだと思います。爆弾を抱えたようなもので、家では常に父が爆発しないように家族はビクビクしていました。私は小学生の頃から歯ぎしりがひどく、ここ近年で奥歯がついに割れました。子供の頃から身体が緊張状態のままなのかもしれません。

だからと言って、自分のストレスを悪意のない子供に「死ね」という形でぶつけるのは許されることではないと思っています。もちろん本心ではないとは思いますが、自我が確立する前の子供の潜在意識に「自分は死ねと言われてしかるべき存在なのだ」と刷り込まれてしまうかもしれません。自分に厳しくあった父の不幸な固定観念をたくさん引き継いでいるので、私も無意識下で自分を苦しめる選択をしてきたことが多いように思います。

私は今も父が嫌いです。自殺した時も全然悲しくなかったし(本当は悲しいけれど、その気持ちがまだ奥底に閉じ込められていて出てこない状態という可能性もありますが)、今でも許せる気持ちになりません。
でも、許せない気持ちをずっと抱えていくのもしんどいので、プロの手を借りたり、心の勉強をしながら傷を癒やして、生きづらさを改善していけたらと思っています。

父は怒った時に口が独特の形にへし曲げられていました。悔しくて唇を噛み締めるような。子供心に「どうやったらあんなに苦しそうな恨めしそうな表情になるのだろう?」と不思議に思っていました。体内にみっちり詰まった怒り・やるせなさを、なんとか押し込めていたのだろうな。

父の生きづらさ:ストレスのはけ口がなかったため、常に心に爆弾を抱えていた




AC(アダルトチルドレン)は自分の土台が不安定なので、何をするにも人よりも勇気がいるなど、ストレスが大きい傾向です。私は、嫌なことや辛いことは、楽しいこと(エンタメ、美味しいもの、推しなど)をたくさん探して発散してきました。父は発散できる場がなかったんだろうなと思います。

私は父とは違う人間なので、世代間連鎖に屈することなくこれからの人生をより良く生きていくために、自分を癒し、できることを探してやっていきたいと思っています。

なお、私も弟も大学は中の上レベル。母は平凡な短大卒。祖父母も学があったわけではなく、父の頭が特別良かったとは思えません。それなのに、難関を突破させる祖母の支配力を恐ろしく思います。自分のやりたくない仕事で、能力以上のことを発揮し続けなければならないなんて生き地獄です。「人生ハードモード」とはこのことを指すのだな。自分の土台さえしっかりしていれば、大抵の逆境はなんとかなるのだろうと思えますが、土台がボロボロの場合は、土台を直さない限り崩れていくしかないのです。
父は気の毒だなとは思います、だからと言って私にしたことは許せないですよ。

一般的にすごいと思われる職種に就いていても、人間的にやばい人はいるのだ、と父のことを見て学びました。



承認欲求モンスターの餌食になってきた私の話。


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