水葬、深い海の底で
2023年4月20日(木)
シンガポール チャンギ国際空港
-TRANSIT-
30代後半にそれまで長く勤めていた会社を辞め、英語留学にでた経緯がある
それはベトナムを離れることと同義で、その決断には、小さな葛藤と大きな不安がアンバランスに混在していた
英語は後に向かうことになる就業先のスペインで使うことになり、留学先はずいぶん迷ったが、最終的にフィリピンのセブ島へ行くことにした
それは結局、日系で、しかもいわゆるスパルタ校を求めたときに、その土地でしか探しきれなかったという当時の事情が大きかった
しかし、誤算だったのは<同級生>たちだ
そこは高校生もいるような若い世代ばかりで、30代後半といえば、望まずとも年齢だけで<長老>の部類に属すことになるのだ・・・
だが、そうした中に同世代もひとたちも僅かにいて、そのうち数人とはまるで流木が海岸に打ち捨てられるように自然に集って会話をするようになり、急速に親しくなっていった
その中でもとりわけ親しかったのは、入校日も、当時の英語のレベルもほとんど同じだった、青森出身で当時東京在住だった同年齢の女性の同級生だった
彼女は艶のある長い黒髪をいつも簡単なアップでまとめ、切れ長で涼しげな大きな瞳を持ち、化粧はいつも控えめで、シンプルで上質な生地を、自然にカットされた淡い色合いの洋服を、いつも心地よく着こなしていた
唯一、外出許可が下りる週末には、よくビーチ沿いに並ぶ屋台まで歩き、サンミゲルやレッドホースを飲みながらTOEIC対策に講じたり、遠くまでローカルバスで出かけ、セブ島名物のLechon(豚の丸焼き)の味を批判したり、市内に無数にある韓国料理屋で、新鮮な牛肉や現地で採れる色とりどりの生野菜を網で焼いて、マッコリと共に味わって食べたりした
帰国後も緩やかに自然と往来は続き、お互いの当時の拠点でもあった東京で月に一回程度会い、浅草でもつ煮を食べ、上野で焼肉を堪能し、神田で寿司をつまんだ
お互いにいくつかの予期せぬ紆余曲折はあったにせよ、最終的に彼女は青森を経てシンガポールで海運会社の秘書として収まり、わたしは東京からスペインを経て、今はインドネシアで働いている
彼女の唐突な訃報が入ってきたのは昨年11月だった
シンガポールで不慮の事故に遭い、足早にこの世界から退場していったのだ
鬱病が高じてのことだったらしい
その訃報をインドネシアで聞いて、強い衝撃を受け、長い間空漠とした想いに囚われ、半年を経た今になって思い返せば、あるいは、彼女からの何かしらの小さなサインのようなものはあったのかも知れないと、最近はよく考えるようになった
東京で会うときの彼女には、常にどこか昏い影のようなものが付き纏っていたような気がする
それは、彼女はとても美しい容姿をしていたので、対照的になおさらそう感じただけなのかも知れないが、彼女の顔を思い出すたびに、やはりそこにはどうしても拭い切れない、どこか濃い不安な気配のようなものが印象として漂っていたのだ
あれは国立だったか
傘の必要まではない音のない霧雨が、しかし執拗に降り続ける晩秋の夜で
仕事帰りにふたりで駅前で待ち合わせ、小走りに路地の奥まった場所にあるカウンター席しかない小さな小料理屋の暖簾をくぐったことがある
アルコールにきわめて強い体質の彼女が、小鉢と僅かな魚料理、数杯のグラスワインと国産ウィスキーのトワイスアップで珍しく深く酔い、細い紙巻きのメンソール煙草を取り出した
おそらくはそのとき、アルコールがもたらす麻酔的な作用も手伝って、彼女の心のもっとも深く、そして最も昏い場所から、いくつか言葉を紡ぎだしはじめた
わたしは当時、帰国後に転職したばかりの東京の会社で、北欧赴任を目指していたが、慣れない環境と、国際政治的になかなか下りない就労ヴィザに苛立ち、疲れきっていた夜でもあった
彼女同様に、初めて飲んだウィスキーのトワイスアップという飲み方の魔的な美味しさに深く酔ってしまい、話に相槌を打つだけで精一杯だった
彼女には英語留学の少し前に大きな失恋と中絶の経験があり、それは彼女の心の奥深い場所で、当時としての今でも、その傷跡から少量の生々しい血を流し続けているようだった・・・
その夜に小料理屋のカウンター席の隣で間近に見た、濡れた瞳の彼女の横顔は今でも忘れられない
雨に濡れた髪をほどいたあとで、メンソール煙草の煙が濃く漂う中で、中空の一点を睨み、深く酔った彼女は聞き取れないような小さな声で、いくらか呟いた
それは思わず眉をひそめてしまうような強烈な言葉で、普段抱いていた彼女の印象から最も遠い地点から聞こえてきたように思え、思わず彼女の横顔をじっと見つめ返した記憶がある
それは嫉妬とプライドの言葉だったか
いや
正しくは、彼女の嫉妬とプライドが生み落としてしまった、強烈な何かが発した声だったのだろう
その何かについては、彼女の訃報を聞いてから半年ほど間断なく推測し続けた
それはおそらく獄のようなものに違いない
嫉妬とプライドを用いて自分で作り上げた、自らを幽閉する獄だ
そこは誰も知らない地下深くにある暗い獄で、叫び声をあげても誰の耳にも届かない
それは彼女の心の中の、最も深く、昏い場所にあるからだ
そこで未明まで無声の慟哭を上げ、のたうちまわり苦しむが、きっと終わりはない
出て行こうと思えば、いつでも自分の意思さえあれば可能なのだが、それがわからないほどの深い混沌の果てにあったはずだ
当夜わたしも酔っていたが今でもはっきりとその言葉は覚えている
覚えているがここに書くことはできない
その鋭く残忍な響きをもつ言葉たちを示すことは、死者の名誉を傷つけ、死者の眠りを妨げてしまうに違いないからだ
彼女は深く酔い、首を何度かガクンと落としながらこう続けた
ーわたしはねぇ・・・だからね、海外でね・・・新・・・しいね・・・
だが、海外へ行くことがその獄からの、確かな脱獄経路であるとしたら、何故だという疑問が残る
何故、海外で死んだ
その後も彼女とは都内各所で何度も会い、週末のビールを楽しみながら様々な話をしたが、その話はあの小料理屋の夜に少し漏れ聞いただけで、以降は彼女は決して話さなかったし、また、わたしも訊かなかった
彼女の唐突な死と、あの夜の挿話を結論として結びつけてしまうには、あまりにも幼稚な想像力で、あまりにも短絡的にすぎるのだろうか
全く異なった理由が原因だった可能性も十分あるだろうし、いや
やはりその過去の深い傷痕から、すべての温かい血が時間をかけてゆっくりと流れ出ていき、彼女の生命の灯を消してしまったのかもしれない
あるいは、その両方
原因を一点に求めることはできないはずだ
誰でもそうであるように、とくに年を重ねた分だけ、それだけ心は重層的で複雑な迷宮のように在り、どれだけ親しい友人であっても、心の深い部分まではわかりあえないのだ・・・
あるいはもしかしたら、男女の関係なく、ひととひとの心が一瞬だけ交錯し、わかりあえたと思えるのは、流れ星のように瞬きさえ許されない瞬間にだけ存在しうるのかもしれない
わたしは彼女と、そうした透き通るような刻をもつことができなかった・・・
死者とはもう話すことができない
遺書はなかったと聞いている
だから彼女の死の真相は、今では深い海の底で冷たい水流によって重く葬られ、残された者は、絶命するまで死者との反問を続け、そのなかを生ききるしか他はないはずだ
彼女と最後に連絡をとったのは2021年12月
それはわたしがインドネシアに着任して間もない頃だ
慣れない環境にもようやくリズムが生まれ始め、金曜日の夜に家でゆっくりと、グラスに注いだビンタンビールを飲み、一人掛けのソファで足を伸ばし、リラックスしながら久しぶりに彼女にコンタクトをとったはずだ
彼女はSNSには一切興味を持てないタイプで、唯一例外的に、そして、仕事上の必要に迫られるかたちで”What's App”のアカウントは持っていたのでそれで連絡を取り合うことが常だった
そのときの最後のやり取りは、今もわたしのデバイスの中に残されている
3年目に入った彼女のシンガポールでの生活と、仕事での苦悩、英語の上達、恋人は作らないということと、マリーナ・ベイサンズ
そしてコロナの終息後にシンガポールで再会を祝そうとお互いに結び、その後は意図せず連絡をとることはなかったが
まさかー
ここシンガポールのチャンギ国際空港のボーディングゲートで、ぼんやりと彼女のことを思い出しながらガラス越しに飛行機を眺めていると、ふと近くに小さなバーがあることに気がついた
そこまで歩きながら、そうだ、と思うことがあった
そうだ
彼女もこうしてこの場所で、今のわたしと同じように帰国便を待ち、時にはあのバーでよく冷えたビールを飲んでいたに違いない
年に数度の帰国休暇の際は、必ずここを通ったはずだ
彼女はよく冷えたグラスビールをとても愛していたから
そう思うと一瞬、胸に鋭い痛みが走り、激しい感情が喉元までせり上がってきて立ち止まったが、大きく呼吸し息を整え、店のカウンターでシンハービールを注文する
彼女の死は、わたしの心の中に死ぬまで満ちることのない深い喪失の穴をひとつ開けていった
柔らかな約束どおりにこの国で再会できていたらと思う
それが叶っていたらどうなっていただろうか
何も変わらなかったはずだ
宿命が生命の情熱と苦悩が辿る軌跡だとしたら、時と場所を変えてもおそらく同じ結末に落ち着いていたに違いない
よく冷えたシンハーを一口飲むと、ふと、彼女にそう問うてみたい誘惑に駆られる
しかし、彼女はすでにこの世界にはいない
だからもう、それは、答えを必要としない
じゃあ、これ飲んで福岡に帰るからね
掲載画像は全て、10年前に静岡の山の中の水族館で撮影および加工したもの
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