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おすすめ短編集

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#作家志望

【短編】もうひとつだけ

【短編】もうひとつだけ

 この景色も、もう当たり前の景色じゃなくなるのだ。次見るときは「懐かしい」という感情に襲われる事になるのだ。ミズキはこの日、これまでの人生においては、かなり長い時間を過ごした場所を去る事になっていた。それは、人生においてみれば大した出来事ではなかったかも知れないが、その瞬間に立たされた人は誰でもそう思うように、これは一大事だと思っていた。人生において大きな意味を持ち、これから先の自分の運命を変えて

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【短編】レゾンデートールよ永遠(とわ)に

【短編】レゾンデートールよ永遠(とわ)に

 「今日でもうおしまいなんだ。もうみんなの先生じゃなくなるが、お互いに頑張って生きていこうな。」という台詞が教壇での私の最後の言葉だった。それは、彼ら生徒たちにとっても私からの言葉としては最後となるものだったし、私の教師人生としても最後となるものだった。

 私は定年を目前にしていた。そして時代に取り残された。グラウンド拡大、および最寄駅からの通学を楽にするために、改修工事が行われることになった。

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【短編】丘の裏の火事

【短編】丘の裏の火事

 その日の夜、青年はワイナリーに立ち寄り、テーブル・ワインとして、テンプラリーニョを買った。1000円弱の物の割にはラベルも見応えがあり、キャップではなくコルクで栓がしてあったのが決め手だった。
 青年はその日、大学の課題をした後で、彼女に電話をした。二日後の旅行の話をしていた。その話の途中でワインを開けて、電話先の彼女と乾杯をした。栓を開けてすぐの赤ワインはまだ尖った味がした。20分ほど待ってか

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【短編】レベッカ・フリーフォール

【短編】レベッカ・フリーフォール

 「なぁ、レベッカを覚えてるだろ?」とバーの店主は俺に話し始めた。
 「レベッカだって?」と俺は返した。レベッカと最後にあったのはもう5年も前だった。とにかく人目を引く美人で、赤みがかった長髪と、対照的に青々とした瞳を持っていた。レベッカ・フリーフォールという名前で、自由奔放な性格だった。

 5年前、彼女は俺の家の隣に住んでいた。そこはボロアパートだったし、彼女の家も築50年は経っていた。家主を

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【短編】愛は藍より出でて

【短編】愛は藍より出でて

 割烹着の店主からお釣りをもらって先生は暖簾をくぐった。私もその後ろに続くと、雲の切間から碧い空が広がっていた。夏空は、もっと風をよこせと急かしているようだ。太陽の下の雲は忙しなく動き、アスファルトは沸騰寸前の薬缶のようで、絶えず陽炎を揺らしていた。

 「珈琲が好きなら、一つ、この近くにとても美味しいcafeがあるんですよ。」と先生は言った。「よろしかったら、どうですか?」
 「私でよろしければ

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【短編】プロポーズの後で

【短編】プロポーズの後で

私の夫は頑固で割烹着が似合う男だ。もう結婚して二十年になる。三ヶ月後に二十一年目を迎えるという時に、その一報が入った。息子が結婚する。

かねてよりお付き合いしていた人のことは私たち夫婦も知っていた。
「俺らも、歳をとるよな。この日が来るんだから、当たり前だぁ。」
「そうね、あなた」と、私は涙がこぼれた。
「俺たちは出来なかったが…結婚式できるみたいだな。よかったよかった。」
「そうね、あなた」と

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【短編】将来について語るときに

【短編】将来について語るときに

熱海にあるヴィラには、テラスがあって、海が一望できる。そこには外付けの小さなバスタブとシャワーがあったが、部屋の中から丸見えだった。女子が好きそうな場所に思えたけど、四人とも使わなかった。使ったのは五人の男子のうちのふたりで、カーテンを完全に閉めて使った。同期九人、もう一ヶ月後には社会人となる歳だったが、ひとりだけ院進ということで他のみんなとの話題についていけなかった。私だけは、文学をやりたいと親

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【短編】父と弔辞と新聞紙

【短編】父と弔辞と新聞紙

うちの親父は変な人だった。信号が赤になった時に僕は親父のことを考えていた。車の後部座席には新聞を束にして積んでいた。

「いいか、付き合った女をどれだけ好きだったのかなんてのは、別れなくちゃだ。一番は離婚。」
なんでお母さんと結婚したの?と質問した幼き頃の僕にたいして、こんなことを言うような人だった。
「しょうもない理由で別れる奴らなんてのはな、そもそもしょうもないんだぞ。でも、愛が深いとな、きっ

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【短編】ありがとうって、あのこに言ってくるよ

【短編】ありがとうって、あのこに言ってくるよ

あるいは運が良ければ、こんなふうにふたりで歩くことはなかったのかもしれない。
ふたりにとって、この二週間というものは悲惨というと大袈裟だが、少なくとも穏やかではなかった。ふたりには大仕事が待っていたのだ。それは人生の中で大きな意味を持つものだった。これまでの人生は、このゴールに向かって一直線に伸びているようにさえ思えた。

店を構えて、一緒に働き始めるということ。新しいそれぞれの生活を始めるという

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【短編】飲むようになる頃には

【短編】飲むようになる頃には

ドーナツ屋に入ると、すぐにその子供は僕を見つけた。母親の膝の上に立って僕の方を見て、笑いかけてくる。思わず何度かウインクして、レジに向かった。

コーヒーとドーナツを受け取ってから席に着くと、ちょうど隣にその子がいた。母親は、友人とおしゃべり中で反対の方を向いていたので、僕とその子は、お互い睨めっこするみたいに見合っていた。
母親が気がついて、嬉しそうにしながらもその子を向こう側に向けて座らせた。

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【短編】アンティークになったら

【短編】アンティークになったら

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そのカフェがとにかく好きになったのは、飲んだ事もないほどの深煎りのコーヒーと、オーナーさんや店員の気さくさが、僕の居心地を良くさせたからだ。
本当に毎日のように通っては、そこでコーヒーを飲み読書をしていた。このお店を知った当時は、とにかく観光客で溢れ、何度も来店を諦めたものだが、今はその観光客は消え、比較的入りやすくなっている。しかし、そのためか、本当に美味しいコーヒーを求めて、あるいは素敵

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【短編】漂流

【短編】漂流

割れるような拍手と歓声の中、俺は目を瞑っていた。
 舞台の上で受ける拍手。うずくまり涙を流す俺に、仲間は一発叩いてくれたおかげで、なんとか列に戻り、挨拶を済ませることができた。

 小さな地方の劇場でありながら、俺を含めて、仲間達の熱意は決して弱くはなかった。俺たちは普段小さなアマチュア演劇をしている。それが今回、大きな作品に挑戦しようという提案が上がり、都市のプロ劇団が取り組むような演目に挑戦す

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【短編】流れる川を感じながら

【短編】流れる川を感じながら

ずっと昔のことになるけど、友達を事故で亡くしたことがある。
その友達が死ぬことになった日の、その前日、たまたま放課後の屋上で、少しだけ私は彼と話した。
「アンナ、元気にやれよー」
それが私が聞いた最後の言葉だった。あの時の彼の心境は、今となっては、いや、翌日でさえもわかるはずはなかった。
彼は自分が死ぬという事を、どこかでわかっていたのだろうか。

私が死ぬ日、その前日は何をしているだろうか。

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【短編】怒りとペットボトル

【短編】怒りとペットボトル

急に手に震えが走った、そう思った時には遅かった。柔らかいペットボトルが、音も立てずにへしゃげて、ネクタイ下のシャツはコーヒーに濡れた。

「いやいや、やってしまったナァ」と彼は言う。同僚が、何をしてんだい、と笑いながらティッシュを持ってきてくれた。

ここ数日の疲れだろうか。最近はあまり眠れていない。
手洗い場の鏡の前、ネクタイの下で濡れたシャツはまるで心臓にくっ付いているようだった。
それは恐ろ

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