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【短編】流れる川を感じながら

ずっと昔のことになるけど、友達を事故で亡くしたことがある。
その友達が死ぬことになった日の、その前日、たまたま放課後の屋上で、少しだけ私は彼と話した。
「アンナ、元気にやれよー」
それが私が聞いた最後の言葉だった。あの時の彼の心境は、今となっては、いや、翌日でさえもわかるはずはなかった。
彼は自分が死ぬという事を、どこかでわかっていたのだろうか。

私が死ぬ日、その前日は何をしているだろうか。
一日なんてのは、人間が勝手に作ってる区切りなわけで、一日と一日の間に沈むことだっていくらでもあり得る。つまり寝ている間に死ぬという事、できればそうであってほしいと思う。

だけれど、彼が死んだ日、私はなんだか悲しかったし、涙が出なかった理由が分からなかった。
すごく仲の良い友達ではなかったけど、前日にあんな会話をしたせいで、私にとってこの死はこの上なく近いものだった。
だけれど、そんなこと私にしか分からない。誰とも共有できない事は虚しい。

この間、ニュースで少女の遺体が発見されたことが流れた。ちょうど彼が死んだ年齢と、同じだった。
だから驚いた、私の夫がこの事件に関与していた事を、朝帰りの彼自身から聞いた時は。

「おいおい、何度言ったらわかるんだよ。俺は別に悪いことはしてないんだぜ?
何度も言うけど、俺は見つけただけなんだ。あいつは川辺に倒れていたんだよ。」

夫はどうやら、それを見つけてからすぐには通報しなかったらしい。理由は二つ。一つ目は単純に動揺していた事。二つ目は、これが驚きなのだが、彼は釣りの真っ最中だった。発見現場から二キロ離れた下流で竿をセットしていた。すると、ハイヒールが一組流れてきたという。ほぼ同時に流れてきたのを不審に思って上流まで車を走らせた。

「できるだけすぐ、通報するつもりだったさ?でもよ、考えてもみろよ。ここで俺が通報して、真っ先に疑われるのは間違いなく俺じゃ無いか。そんなのはごめんだ。ちょうど大きめの鮎を釣れたところなのに。そんな事って誰だって嫌だろ?」

私の夫は、昔からこういう人だった。
とにかくこういう人だったのだ。
私が石橋を叩いて渡ろうとすると、その手を踏んで踵を返すような。
とんでもない意気地なしなのだ、この人は。
というより、勇気というものをかけらも持っていなかったし、それを必要とするような関心を全く持ち合わせていなかった。
だから、朝帰りをしてきた日の晩に、風呂上がりの私を抱きしめてきた時には、慄然とした。
「ハニー、今夜は仲直りしようよ。お互い悪気はなかったじゃないか?」
私は言った。
「今日はやめて。無理よそんな…。あなたは自分が何をしたかわかっているの?」
夫は顔をしかめた。「何をって?あのさアンナ、僕は巻き込まれただけなんだぜ。少しは優しさっていうか、同情してくれてもいいじゃないか?」

私は呆れるしかなかった。
「同情ですって?同情なら彼女にするわよ。」

どういう神経なのだろうか。大体、自ら同情を求める男がどこにいるのか。
この男は私と同じプロテスタントの家庭で、ヨブ記もちゃんと学校で教えてもらった。同情される事が彼にとっては、侮辱だったというのに、この人にとっては安堵の種なわけだ。

「わかったよアンナ。君はそういう人なんだね。君は実に大したもんだ。君は僕に嫉妬しているんだ。
家の中に閉じこもって、外で全く冒険をしない君は、外側で悲劇に巻き込まれる夫に八つ当たりして気を紛らわしてるだけだ。
君は大したもんだよ。僕を慰めるんじゃなくて、より君に夢中になるように、本当にやらねばならないことの逆をやっているんだから。」

もう聞いていなかったけれど、私は涙も出なかった。あの時とは違う。今日という日に涙が出なかった理由は明らかだった。
つまり、二つのことが明らかだった。
一つ、この人の中で、人が死ぬということ、そこに直面するという事件は、もはや彼の関心の内側には、入り込まないという事。
二つ、私はこの人に同情すらできないという事。

同じ子供を持つ親であり、かつては愛し合っていた。
愛し合っていた頃は同情もできたし、そこに憤ることもできた。
子供の頃の、あの喪失が伝わらなかった時には悲しむこともできた。その時には涙も流せた。
彼はあの時はまだ、それを分かろうと努めてくれていたと思う。けれども、もしかしたら、そうじゃなかったのかもしれない。その感覚は当時から今の今まで、ずっと勘違いだったのかもしれない。

翌朝目が覚めると、夫はまた私を後ろから抱きしめた。
「おはよう、ハニー。ねぇ、朝ごはん作っておいたから食べてくれよ。そしてたまには一緒に出かけよう。君に冒険することや、若さってもんを教えてあげるから。」
「ねぇ、あなた。あなたは彼女の声にもっと耳を傾けないといけなかったのよ?」
「まだその話かい!いつまでも君は嫉妬深いんだね!!」
「まるで子供ね!!!!!」

事件に巻き込まれること、悲劇のヒロインになる事。そんな事が、彼にとっては今やステータスなのだ。そこに私が嫉妬している、と思っている。彼の中では、彼はドラマの中の悲劇の人物なのだ。そんな事ってない。真の悲劇のヒロイン、それが誰かなんて明らかだ。

彼の後ろ側で、シンクが、ポタポタと、音を立てていた。正確には、蛇口から水が少しずつ垂れて、音を鳴らしていた。蛇口の根元は緩くなっている。さっき夫が水を飲んだ時から、そこから水が溢れ続けている。シンクの側面に沿って、床に水が流れていた。少しだけ溜まっている。それはちょうど夫の足元に溜まっていた。

何だかそれは深い深い海溝のようだった。
しかし、渦巻く水流は、濁流となって音を立てている。私の耳には、ポタポタという音はもはや聞こえないほどだった。

夫がそこに足を滑らせる。そして、その中へと引き摺り込まれていく。私はそれをただ見ている。
「アンナ、君は大した女だ!!君は本当にやらないといけないことと、逆のことをやっているんだからね!」

なんだか、煩いなぁと思った。足元でまだ濁流の音が響いていた。海溝のように深いけれども、その音は明らかに山脈を流れる川の音だった。夫はそこで身をもって知るのだ、この流れには決して逆らえないことを。同情というものは、そういうものに対する何かなのだと。
彼は流されていく。
私は何をしているの?流される夫を私は黙って見殺しにしている。
「アンナ!君は本当に、大した女だ…!!!」
夫が私につんざいた。

「大丈夫かい、アンナ?車酔いしたかな?無理矢理にでも外に出てきて良かったと思うけどね?
君は外に出ることを本当は望んでいるんだから。でも君は自由だぜ。嫌な事は忘れて、興味や関心を持ったら良いよ」
いつの間にか、夫の運転で私は近くの湖に来ていた。湖は、向こうの山脈から流れる川に繋がっている。水面に映る私は、そこに浮いているようで、けれども同じように映る夫は、むしろ沈んでいるように見えた。
「あのね、あなた。もう少しだけ、彼女の声を聞いてあげる必要があったのよ。彼女は助けを求めていたの。同情をまとめていたのよ。」
夫は私の話を聞かずに、その大きい体で私を抱きしめた。
「さぁ、服を脱いで。ここなら誰もいない。一緒に沐浴しよう。どんなこともここならできるさ。」

あぁ、そうか。私はこうやって流されていくのか。
服を脱がされながら、この後何をされるのか考えないようにしていた。私は自分が今、この湖の上に浮かんでいるんだと思った。そしていずれ、あの川の所へとたどり着く。山から降りてくる川の流れに押し返される。やがて押し流される。私は胸が潰れる。沈んで、うつ向けに浮かび上がり、ひたすらに流されていくのだ。そんな事ってあるのだろうか?

「アンナこっち向いてくれるかい?」そう言って夫は私に後ろを向かせた。夫が視界から外れる。そして背中に彼の指を、あるいは何かが触れるのを感じる。私は何かに襲われている、私の背後には何かがいる。
咄嗟に振り向き、仰け反った。
「っはぁ!やめて、やめてやめて!」
夫はそれを見て、少しにやけながら言った。「君がそういうことするなんてね。」そしてそのまま覆いかぶさった。辺りに水が、大きく飛び散る。窒息しそうになる。
この状況が、私だけを溺死させようとしていた。「やめて!」

もういいよ!
彼はそう言った。そして車へと、そのままの姿で戻って、素早く服を着た。私はしばらく呆然としていた。そして、気が付いたら、家に着いていた。

「アンナ、ごめんよ」そう言って、ベットに眠る私の背後に、夫がやってくる。そして私のブラウスのボタンを外し始める。
「僕らの子供も寝ついからさ、やるべきことをやらうぜ。ずっとお預けなんてごめんだ。」

私はもう抵抗しなかった。ただ一言、彼の方を向き直って言った。「彼女は助けを求めていたのよ。ねぇ、それだけはわかってよ。」

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