見出し画像

【短編】将来について語るときに

熱海にあるヴィラには、テラスがあって、海が一望できる。そこには外付けの小さなバスタブとシャワーがあったが、部屋の中から丸見えだった。女子が好きそうな場所に思えたけど、四人とも使わなかった。使ったのは五人の男子のうちのふたりで、カーテンを完全に閉めて使った。同期九人、もう一ヶ月後には社会人となる歳だったが、ひとりだけ院進ということで他のみんなとの話題についていけなかった。私だけは、文学をやりたいと親にわがままを言ったのだ。そして思いのほかすんなりと両親に受け入れられてしまい、引くに引けず勉強をして、なんとか合格した。あれは去年の9月の話、進路が決まった時、私以外全員の進路は既に決まっていた。だから、そこからメンバーを取っ替え引っ替えしながら各々遊んでいた。今日は、そういう仲間たちが一同に集まって旅行できる機会。おそらく最初で最後の機会だ。

熱海はちょうどいい風が吹く、ちょうどいい季節だった。コートは必要ない。ジャケットも時折脱いだりしながら、みんなで観光をして、海鮮を食べ、海の前を歩いて、色々なことをした。一番面白かったのは、海を眺めた後、繁華街に行こうとして街の方へと登っていく途中、男ふたりが階段で競争したことだ。まるで小学生だった。

「そう、俺たち、昔は小学生だった。」と、ひとりが言った。「今では酒をこうやって飲んでいる。ひとりで旅することも、こうやってみんなで遊ぶこともできる。だというのに、俺たちときたら、ここにきて階段でかけっこだぜ。」
「いや、グリコをしなかっただけマシよ。本当にしようか、なんて話をしはじめたときには、さすがに私、なんで?って思ったわよ。」もうひとりが言った。
ここには、私と、もうひとり男子と、女子がふたりしかいなかった。他の奴らは下で静かに飲んでいるらしい。

「なんでみんなで飲んでいないんだ?俺たち」と彼が言った。
「さあね、わからないわよ。まぁ、すこしわたしたちとは雰囲気違うのはいつもだけど。こんだけみんなで一緒にいたら、自分たちの世界で話したくもなるんじゃない?ドライブする時の車のメンバーも、どう分かれるのかって毎回じゃんけんで適当だったし。」
何飲む?と私は聞いた。「お、いいねぇ。そういう気遣いできれば彼女もすぐできるんじゃない?」
うるさい。
あの時、何を作ったかあまり覚えていないけど、梅酒ソーダかハイボールかだった。氷を入れる音、炭酸の音、それらがリキュールとタンブラーの中で混ざる時特有のからん、という音は、なんだか今でも覚えている。その音だけがあの時、ヴィラの中に響いていた。時々、下の階から彼らの話し声も聞こえたかもしれないが、記憶にはない。
からん、からん。

みんなでもう一度乾杯をした。恋バナでもしようか。ずっと黙っていたほうの女子が話し始めた。
でも、それは卑怯な方法だった。私以外、みんなそれぞれにパートナーがいて、それぞれが、それぞれの相手のことをよく知っていた。浮いた話がないのは私だけだった。
「どうなんだよ?最近は?」「なんか無いのー?まあ、先月も聞いたかもだけど。ね。」
うるさい。

とにかく私たちは、ちょっとこの場にいることが苦痛になっていた。この場にわたしたちを繋ぎ止めていたのは、これが最後のみんなで過ごす休日という事実だった。休日、というよりも学生時代、青春時代、わたしたちの自由時代。その事実だけが、見えない鎖となってわたしたちを縛り付けていた。

「ねぇ、次があると思う?」
からん、からん。
ひとりが急に口を割った。そしてひと口、飲んでからみんなを見回した。
相変わらず無口な女子は何も言わず、もうひとりの方が何か言いたげにしながら、言葉を思いつけなかった。

私は少し考えてから言った。
からん、からん。
「多分無いよな。」

からん、からん、からん。
鎖が重なり合うような音が響く。
うるさい。

「前向きに話そうぜ。だって、いわゆる門出なんだから。社会に出て、俺たちはもう一度あつまる。同じヴィラじゃなくていいし、日本じゃなくたっていい。そういうことって考えられないかな?」
途中から、自分が何を言いたいのか分からなかったが、その間、他に何も音は聞こえなかった。
ちょっと寂しくなった。からん、からん、とタンブラーを回してから飲むとむせてしまった。梅酒じゃない、これ、ハイボールだ。

「私は、集まれると思うよ?まだ学生やる人もいるわけだしね。これから先、私たちがどこに行っても、これまでとは違う生活が待っていて、そして手にするお金も全然違うし、時間の使い方も全く変わる。私たちは、そこでこう考える。あの頃に戻りたい。」ようやく彼女が喋り出した。
「なんとなく、私、わかるよ」久しぶりにこの子の声を聞いた気がした。
「おれ、昨日今日の写真、何度も見返すわ。すでに何だか懐かしいよな。あの階段の事も、なんだか懐かしい。」彼が言った。

みんあで、もう一度集まることを祝して!乾杯!
かららん、からんらん!

「将来について、話そう。いや、今これからのことじゃない。かつて、こうなりたいって思っていたことだ。」彼はいきなり言った。
「なんで、急にそんなこと話し始めるのよ。」
「じゃあ、いいよ…。」
「え、何よ。」

また鎖の音が聞こえる。でも今度は引きずるような音だ。これは絶対タンブラーの音じゃない。下から聞こえてきているのだろうか。
「いいじゃん、話すくらい。」私は言った。
「いや、いいよ。俺も何言ってんだか。」
「もう、なんだか気になってきたわ。話しなよ。しちゃダメって言ったわけじゃ無いんだから。」
もうひとりも、黙って頷いた。

「わかった。いいだろう。いいかい、海の上で俺は船に乗っている。向こう側で白い鯨が見えて…。」
「『白鯨』、メルヴィルだ。こら、大学院に行く俺が何を勉強するか忘れた?そんな冗談みたいな嘘聞かないよ」
「いいから聞けよ。」私の声を遮って話を続けた。
「本当に俺はそういうことを考えてたんだ。白い鯨ってのは本当に見たことがある。テレビじゃなかったと思う。実際に見たことがあるんだ。そして思った、俺はこうやって生きていくんだと。大海原には標識も、目印になる建物も、信号もない。行くべき場所すらない。わかるか、俺たちはこうやって生きていくんだ。」
「ちょっと、勝手に巻き込まないでよ。」彼女が言った。
「いや、俺たちの話だぜ。いいから聞けよ。おい、もう一杯作ってくれ。誰かが俺のハイボール飲んじまった。」
うるさい。

からん、からん。
「いや、ちょっと違うんだ。勘違いさせちまったが俺たちってのはな…。親父がこういう話を、俺にしたんだ。今した話はずっと昔、俺が聞いた話なんだ。おとぎ話かもしれない。でも、その時親父は珍しく酔っていた。酒にも酔っていて、俺自身にも酔っていた。理由はわからないけどな。親父は…嬉しそうだったんだ。俺が今度卒業する大学を、受験すると決意した日の夜だった。親父は今の話をした後、こう言った。『今の会社、俺が継ぐかもしれないんだ。昨日本社に呼ばれた、お前しかいないってな。なあ、がんばろうな。』って。嬉しかったんだ、一緒に戦っている気がして。さっきまで取り止めもなく話してた親父の話が、全部繋がったんだ。そう、俺は親父と一緒に、そこにいる白い鯨に向かっているんだって。親父は絶対に立ち止まることないような性格だった。で、この船には錨が無いんだ。帆に風をうけて、無風の時にはオールで漕いで、でもとにかくどこかに停泊することは絶対にないんだ。そんな想像を、親父の話を聞きながら考えていた。そして、お前たちと一緒に酒を飲んでいる時、今日に限った話じゃなくて、時々この風景を思い出すんだ。熱海の海なんて、それに比べたらどれほど狭いと感じるだろうか。このヴィラに来なくたって、お前たちといる方がよっぽど黄色い海が見れる。」
「広い。」私は口を開いた。「黄色い、じゃなくて広い、でしょ?黄色い海なんて聞いたことがない。」
「それで言ったら、私は白い鯨も知らないわ。ねえ、本当にそんなもの見たの?」もうひとりの女子は何も言わなかった。三人とも、その子が話し始めないかなと待っているようだった。
「はいはい、俺にはどうせ教養がねえよ。文学院生には敵いませんってば。でもな、俺にはドラマってやつが、何かってことを知っているぜ。ストーリーってやつをな。俺たちの将来必ず起こる何か、そういうドラマ、俺たちを待ち受けていて、必ずいつかそれぞれに立ちはだかるやつだ。そういう時、今までに経験したことない事に出くわすんだ。それこそ、黄色い海とか、白い鯨だ。その船に誰が乗っているのか、もしくは自分ひとりなのか。わからねえ。けど、最近、自分しかいない船を考えると、どうしても錨のある船を考えちまうんだ。鎖の重なるような音が、親父の声の代わりに聞こえてくるんだよ。そういうのってわかるか。」

からん、からん、からん、からん。
みんな黙り込んでしまった。なにが私たちをここに留めているのか、みんなわかっていた。そして、それが私たち自身の問題で、誰ひとりとして、その問題に囚われていないひとはこのヴィラにいないという事だ。下から誰か上がってこないかな、と思ったが、もし来たとしてどうするというのだろう。もう本当に下から話し声も聞こえない。私たちのいる部屋にも、からん、からんという音がこだまするだけだ。

ベランダの外付けのシャワーから水が滴り、バスタブに落ちて小さな水溜まりを打ち付けている音が聞こえてくる気がした。ゆっくりだけど、確かに、同じリズムで打ち続けている。

「いいんじゃないの。錨のない船の方が不自然なんだから。」また久しぶりに、その子の声を聞いた気がした。「風の強い日には、錨を下ろしていないと、港に停泊する事もできない。それをあげてしまったがために、十五人の少年少女たちが無人島で何百日も過ごす羽目になったお話、よく知っているでしょ?確かに、彼らは力を合わせて、成長して、そして帰ってきた。悪者をやっつけて、大人を助けて、誰ひとり欠けることなく。でもその過程で犠牲者も出した。敵の仲間だったけど、裏切って仲間になってくれた人も失った。今の時代、そういうことってできないじゃ無い。錨がない船になんか乗ったら、誰も助けてくれないじゃない。だって、誰も船に乗りたがらない、のよ?そもそもね。船に乗るなら、ひとりでいる時こそ、そういうことを考えるべきよ。自分はひとりじゃない、この錨が俺にはついているんだって。」その子は久しぶりに話したからか、話おえると、大きく息を吸って、そして静かに息を吐いた。

いつの間にか、ウイスキーの瓶は殻になっていた。私は、その瓶をすかして、さらにベランダの窓を抜けて、水溜りを小刻みに水滴が打つその裏側で、海が凪いでいるのを何故だか感じ取れていた。このヴィラにいる全員が、外はきっと優しい風が吹いているんだろうな、と感じ取れていた。

「いや、そうだな。お前たちがいる。」
からん、からん。
酒を飲み干して、彼は続ける。
「ひとりじゃない。船の上にはひとりかもしれないが、俺にはみんながいる。みんなにも、俺がついてる。多分そういうことだ。くそ、酒切れちまったぜ。」
「わたしも。」
「僕もだね。」
「うん。」と、みんなが頷いた。

からん、からん。
うるさい。
心の中でそう思ったが、でも同時に安心した。ここにいる全員の間で、この音が響いていた。鎖同士が絡み合うような音ー。

そうだな、ずっと進み続けるのもしんどいしな、と彼が言ってから会話が途端に終わってしまった。もう誰も話しはじめようとは思わなかった。
寝たほうがいい。明日も早い。運転もある、熱海からみんなで帰らなきゃいけない。

海が凪ぐ三月。石階段をかけあがる子どもの姿は当然無い夜明け前午前3時過ぎ。
もう、話すべきことがなかった。ただ、ひとことだけ、酒を買い足しに行こうぜと社交辞令みたいに私は言った。
そうね、とみんなが口々に言った。

からん、からん。

でも、誰もその場を動こうとはしなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?