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【短編】レゾンデートールよ永遠(とわ)に

 「今日でもうおしまいなんだ。もうみんなの先生じゃなくなるが、お互いに頑張って生きていこうな。」という台詞が教壇での私の最後の言葉だった。それは、彼ら生徒たちにとっても私からの言葉としては最後となるものだったし、私の教師人生としても最後となるものだった。

 私は定年を目前にしていた。そして時代に取り残された。グラウンド拡大、および最寄駅からの通学を楽にするために、改修工事が行われることになった。最寄駅は高校のほぼ真下にあった。けれども、通称「花咲松はなさきまつ」と呼ばれる木と、それが植えられている高台があって、駅から徒歩15分ほど迂回して登校しなければならなかった。ついに、高台を壊すという話が本格的に持ち上がった。昔なら大反対を喰らっただろうが、私以外に反対する人がいなかった。私は定年を目前にしていた。が、自ら辞める決断をした。

 「花咲松って、松の木じゃないんですよね?」と、織田美咲という女子生徒が話しかけてきた事がある。「うん、そうだね。花を咲かせるからね。なんとも独特な花だ。松の木に似ているけど、あれは松の木じゃない。」と私は答えた。
 「正直、あれが何の木なのかわからないんだ。」
 「知らないんですか?そんな知らない木のために、先生は教師をやめるんですか?」と生徒は答えた。
 「織田さん。」私は言った。「私は、あの木にどんな名前がついているのか。あの花が何の花なのかは知りませんが、あの木がどういうものかは知っています。あの木は、私が学生の頃からありました。私の祖父たちの代にあたる、私たちの先輩方が、戦時中に植えたものだそうです。この木が芽を出し枝を生やす頃までは、せめて、みんなで頑張って生きよう、という願いを込めてね。」
 「そんな話、初めて聞きました。他のみんなは知っているんですか?」
 「みんなとは?」
 「生徒や先生たちです。」と織田美咲は言った。
 「先生の皆さんには、全員説明しました。しかし、ダメでしたね。」と私は答えた。「多くの生徒や先生が、安全に通学したいと考えているから、という彼らの考えを覆せなかったんだ。」

 私はデスク周りを整理し始めた。一応まだ今月いっぱいまでは学校には来られる。何かの用で呼び出されたりすることもあるだろうが、もう学校には来ないようにしようと考えていた。今日でこのデスクの全てにかたをつけ、この職員室、この不毛な空間に来るのは、もうよそうと考えていた。
 「流石に大荷物だったか」と職員室を出た。最後に見た職員室の風景は昨日までと何も変わらなかった。時折、チラチラと私を見る先生もいたが、忙しそうにしていた。

 車に全ての荷物を積み終わってから、最後に教室に寄って、学校を去ろうと私は思った。教室に行くと、あの生徒、織田美咲がいた。
 「何をしとるんだ。今日は休みだろう?」
 「部活ですよ先生。」と彼女は答えた。
 「ああ、そうかそうか。吹奏楽部は、今そういう時期か。」と私は返した。「版張りなさい。」
 「頑張っています。」と織田は答えた。「今頑張ったら、あとはもう少し楽になると思いますから。勉強も部活も。高校を卒業したら、幾分時間ができて、もっと遊んだり、旅行したりできますから。」

 「それは違う、と思いますよ。」と私は答えた。織田美咲は、その言葉を待ってましたと言わんばかりにこちらを見て、「なぜですか?」と聞いてきた。私は答えた。
 「今頑張れば、やがて余裕ができる。だから今は頑張ろう。そしたらやりたいことができる時代がやってくる…確かに、そう考えている人がたくさんいます。本当にたくさん。そして、そのほとんどが大人です。特に今の20、30代の若者たちです。彼らはまるで、来年に定年を迎える事ができるかのような面持ちで働いています。わかりますか。」と私は彼女に言った。
 私の頭の中には、若い先生の棚にならんだ『〇〇マネジメント』や『時間の使い方』といった本が浮かんでいた。そして、その本を読んだ後でペンやらメモ帳やら、時には電子デバイスを買い込み、それを使っている姿も思い浮かんだ。けれども1ヶ月後には、大量のプリントに紛れたメモ帳やらが散見され、そして充電切れのデバイスが、机の片隅で飾り物と成り下がっているのだ。
 「大人になっても、同じようにやってずっとうまくいかないんです。それに、自明のことですがね、大学の方が大変ですよ。織田さんのように、興味の幅も広い、明るい未来を持った学生さんというのは、すべからくそうなります。」
 「じゃあ、いつになったら色々な場所に行けますか。私にはヨーロッパまで海を渡る夢も、そこでオーケストラを聴く夢も、さらには、そういうところでカフェをしたいという夢もあります。ずっとそれを思い続けて、結局できないままなんて嫌です。」と織田は言った。この時にはもう、先生である私が、何かいいことを言ってくれそうだという期待は、彼女の中から薄れていた。ようやく本音をこぼした彼女が、泣きそうになっているように見えた。

 「今やるんです。その時やるんです。」と私は答えた。「もちろん、それは途方もない労力が必要です。ですが、いいですか。時間は限られている。それは、あなた自身の人生が限られているからなんです。あの花咲松でさえ、いずれはこうなってしまうんです。それに比べたら、私も織田さんもちっちゃいものですよ。安心安全という文言や、らくしようという考え、そういうものを持てば挑戦なんかできない。もし本当に自由な時間ができたとしても、夢を追いかけるとなれば、自由な時間なんてどこにもないんです。遊ぶことだって、勉強だって、夢を追いかけることだって、全てやらなくちゃいけないんです。なぜならすべて、あなたの、あなた自身の人生だからです。一度永遠の寝床についたら、もう2回目の人生なんてどこにもないんですよ。そんなものがあると思って、時間の使い方ばかり気にしていては本末転倒です。時間というものを、時間をどう使うかのためだけに消費するなんて。」
 私は熱くなっていた。なんで一人の生徒のためだけにこんなに熱くなっているんだろうか。職員室ではここまで熱くなんてなれなかったのに。今の自分に期待できず、後の自分に期待をし、失敗しても環境のせいにする教員たちに、私はもう何も言う気が起きなかった。そこにかけられない期待を、私は子供達にかけている。こんな無様で情けないことはない。こんな期待をかけられて、いい迷惑だと思われるに違いない。けれども、言っておきたかった。もう二度目はないのだ。この教室で織田美咲と会うことも、その他大勢の生徒たちと会うことも、もうないのだ。それに私は、いつ死んだっておかしくない年齢なのだ。

 「先生。」と織田美咲が言った。「どうして、あの木を切り倒すことに反対したんですか。」
 「…今を生きるためですよ。私たちは微妙なバランスの上に生きています。それはつまり、多くの歴史、多くの人々のお陰で生きているということです。今を精一杯生きる、それはさっき私が言ったような、とてつもない労力が伴う。そのための勇気を、今生きている私たちだけでは到底まかなえません。これまでの人々は、だからこそ古くからの知恵、教えに頼ってきた。救われたから尊敬し、伝え残してきた。」

 沈黙だけが、私の言葉に頷いているようだった。織田美咲は、もう私が何を言っているのかわからないようだった。けれども、頑張ってこの場に留まり、頑張って話を聞いていた。彼女は間違いなく、私から何かを教わろうとしていた。
 私は、何か言わなくては、と思った。
 「勇気が要るんです。そして、その勇気に見合うだけの知恵も。けれど、それが要らないから、あの木は倒されるのでしょう。だけど、ここはそんな決定を下した彼らの居場所じゃない。あなた達の、あなたの居場所なんです。そういう場所に、勇気が要らないなどと、サボり耽る誰かに決める権利なんてない。そもそも、教員である限り、そんな権利はないと私は思います。」
 「じゃあ。」と織田美咲は言った。「私たちが本当は戦わないといけないんじゃないですか」
 私はハッとした。でも、学校は戦場ではない。子供達に、自らの権利を守るために、争ってほしいなどと、教師の口からどうして言えるのだろう。けれども、こういうことに気がついた生徒に、どう声をかけたらいいのだろう。
 「あなた達次第かもしれませんね。」と私は言った。そして、「もう行きますね。最後にお話しできてよかった」と私は出ていった。

 数ヶ月後、私の元に一通の手紙が届いた。それは、私が辞職する寸前にやってきた新人教師からだった。内容をまとめると、「織田さんを筆頭に、彼女のクラス全員および数名の他クラスの同級生が「花咲松」の切り倒し反対の署名を提出。PTA及び、OB・OGの会にも波紋が及んだ。伐採の決議がなされた当初、何も動きを見せなかったPTAも、PTA会長の一任で承認していたことが露見し、問題になった。多くの関係者の知るところとなり、新たにこの話に参入した人々は漏れなく織田美咲の署名に参加した」という旨だった。
 「世界は、ちゃんと伝われば優しいかもしれません。私はあの時、赴任したてで、先生のお力にはなれませんでしたが、本当は先生と一緒に反対したかったのです。本当に申し訳ありませんでした。」と、手紙は結ばれていた。

 私は家のカレンダーをめくった。来月に予定していた「引っ越し」の文字に横線を引いた。そして、来年のカレンダーを持ち出して、封を切った。3月9日に「我が生徒の卒業式」と書き記した。この日まで、何をして生きようか、と私は考え始めた。それを考えるためにコーヒーを淹れようと思った。私は頬に伝うものを感じていた。台所からこちらを覗いている妻に、背中を向けたまま「コーヒーマシンのスイッチを入れてくれ」と言った。妻は黙っていたが、笑っているんだろうな、と私は薄々気がついていた。

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