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【短編】怒りとペットボトル

急に手に震えが走った、そう思った時には遅かった。柔らかいペットボトルが、音も立てずにへしゃげて、ネクタイ下のシャツはコーヒーに濡れた。

「いやいや、やってしまったナァ」と彼は言う。同僚が、何をしてんだい、と笑いながらティッシュを持ってきてくれた。

ここ数日の疲れだろうか。最近はあまり眠れていない。
手洗い場の鏡の前、ネクタイの下で濡れたシャツはまるで心臓にくっ付いているようだった。
それは恐ろしくも、恥ずかしくもあった。
つまり、人に伝わるほど分かりやすく、そして人が横目で見るくらい大袈裟に、動いていたのだ。

オフィスに戻ると、受け持ちのインターン生が数人こちらを、チラチラとみながら笑っていた。

こういう時、大人なら、絶対に腹を立てたりはしない。
なぜなら、こういう若者たちは、自分の痛みには敏感で、わがままだと、大人は知っているからだ。自分が辛い時や、頑張った後なんかは、自分を受け入れて、慰めてもらって当たり前だと思っている。こいつら、まるでそれは、初めてリクルートスーツに袖を通した日の晩に、靴擦れを自らの勲章として見せびらかし、親に褒められるのを待っている、ないしは求める子供であるのだ。大人はそれを知っている。

でも何だろう。
もうこいつらには散々頭を悩ませたのに、なぜこれ以上、こいつらに燻られないといけないのだろう。
そう、散々悩まされた。
学ぼうという意欲や、見せつけてやるという根性なんかは腐っているような、そんな奴ら。
今はまだ新品の輝きを放つスーツは既に、くたびれているようにさえ見える。

「あいつ、本当に社会人かよ」

ふとそういう声が聞こえる。

彼はついに手足が震えるのを感じていた。それは、間違いなく何かを怖がっているときに発するような類のものだった。
震えはもう止まらなかった。
でも彼は何に怯える事があるのだろうかといえば、それは彼の内側以外には見つけられなかった。
怒りは響く。
普段怒らない人ほど、本気で怒る時、胸の内側に何かが湧き上がるのを感じるものである。そして、慣れないその感情の正体を垣間見て、彼はぞっとする。
そこには、得体の知れない自分自身らしい何かがいるのだ。

怒りの怖さは、それが外に向ける暴力や暴言だと勘違いされるがそうではない。
気がつくと、音も出さずにほとばしり、その拍動をおおっぴらに見せつけて、相手を支配しようとする内の衝動こそ、本当に恐ろしいものなのだ。
彼はまさにそういうものに囚われていた。
彼には、そのインターン生の顔は見えていなかったし、場の雰囲気が変わったことにも気が付いていなかった。

対照的に濡れたシャツが見せる鼓動は小さくなっていた。
それは、もう次の行動に心が向かっている証拠だった。つまり、そこには迷いはなく、もう自分でも何をしているのか、という自覚ができるに足る覚悟があったのである。

彼はそのインターン生達に近づく。彼らの視線は、彼の心をへしゃげさせるように、睨みつけていた。でも、それはあまり問題ではなかった。彼は既に、中にあるものを吐き出していた。へしゃげても、それ以上は何も出ない。ただ、みっともないペットボトルだけが、捨てられる時のように、外側だけが不恰好に音を立てるのだ。

ちょうどそのようにして、彼の骨は軋み、音を立てた。
もう次の瞬間には、彼も彼以外も、顔から血の気は失せ、今度は何も吐き出すまいと口や目に手を当てて、起こったことを嘆いていた。

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