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【短編】丘の裏の火事

 その日の夜、青年はワイナリーに立ち寄り、テーブル・ワインとして、テンプラリーニョを買った。1000円弱の物の割にはラベルも見応えがあり、キャップではなくコルクで栓がしてあったのが決め手だった。
 青年はその日、大学の課題をした後で、彼女に電話をした。二日後の旅行の話をしていた。その話の途中でワインを開けて、電話先の彼女と乾杯をした。栓を開けてすぐの赤ワインはまだ尖った味がした。20分ほど待ってから飲んでみて、青年はちょうど良くなったと感じた。そして、これなら明日もまだ飲めるかな、と思った。

 1日でボトルは空かなかったので、次の日も青年は飲んでいた。すると、家の裏側から大きなサイレンの音がした。こんな真夜中に何事かと思い、玄関横の勝手口をあけて外を見た。すると、家の裏手にある丘の向こうから、赤い光と煙が立ち上っているのが見えた。それはとても巨大だった。彼はすぐさま、何があったのか悟った。いつも大学を行く時に横を通るので、そこに何があるのか知っていたのだ。酒蔵が火事を起こしたと言うニュースはその夜の間に町中に知れ渡った。

 次の日の朝、青年は旅行の荷物を持って出かけた。道中、昨日の燃えた酒蔵の横を通ると、そこには、ぎりぎり家の骨組みを思わせる焦げた木材と、焼け残ったコンクリートの壁が残っていた。立ち入り禁止のテープが貼られ、その中を消防隊員と警察官がウロウロしていた。
 後になってわかった事だが、あの火事は放火の可能性が高いという噂が町中に広がっていた。彼は旅行で街を出たために、当時その噂を知らなかった。

 旅行中、彼女に火事があった夜のことを話した。その酒蔵は青年の家に行く時に、彼女もよく通る場所だった。そして、旅行が終わった数日後、彼は例の噂を聞きつけたので、彼女にその道を避けて家に来るように忠告した。彼女は言う通りに、その場所を避けて青年の家に赴いた。
 「これ、一人で飲んでたの?」と彼女は言った。
 「なんだって?」と青年は答えた。
 「このワインボトルよ。開けかけのやつ。」
 青年は、あっ、と思った。あの火事があった日に飲んでいたワインのことをすっかり忘れていた。いつから忘れていたのか、ということもわからなかった。おそらく、あの火事の光景を目にした時から、彼はすっかりワインのことを忘れていた。
 「これ電話の時に開けたやつだ。もうすっぱいね、きっと。」と青年は答えた。もし青年がこの事を十年ほど経過した後に思い出す事があったなら、酒蔵が燃えた事がどうして彼の意識をそこまで集中させたのか、ということがわかったかもしれない。それは、初めて目にした火事という惨劇に、思わず息を呑んだということよりも、赤い光と煙だけで、その情景を思い浮かべようとはたらかせた想像力によって、ワインへの意識を完全に削いでしまったということである。
 もしくは、もっと歳をとってからならば、こういうことも考えたかもしれない。
 後の世界では、コロナ・パンデミックと呼ばれる惨事によって人々の生活は制限されていた。しかし、それとは裏腹に、これまでの実社会で抑圧されていた人々が、この期に乗じるようにして、ネット社会というもう一つの表舞台で幅を利かせるようになっていたのだ。「炎上商法」、それは倫理観の欠如した、しかしながらとてつもなく実社会に影響を及ぼすやり方である。そして、それを享受するものにとってはまさにあの日の火事を見ている彼と同じ、いわゆる興味をそそる対岸の火事となったのである。まさに、あの火事が彼の経験にもたらした影響もその類のものだったのだ、と。

 彼はそれまで、生活の中にあったワインという存在を完全に忘れてしまった。彼女がそれを見つけた時、彼は「せっかくだから飲んでしまおう」と言った。彼女は「私も」と言って、コップを二つ棚から持ってきてくれた。古くなって、すっかり酸っぱくなったワインはお世辞にも美味しいとはいえなかった。しかし、その時のワインのなんともいえない独特な香りと味は、その後の彼の人生に残り続けた。それと同時に、なぜだか彼は旅行の前に火事があった事も、ワインをなぜずっと放置していたのかも忘れてしまった。そしてそれは、彼女と結婚した後、二人でワインを乾杯するようになっても、あるいはさらに三人、四人、五人の家族と乾杯するようになった時にも思い出されることはなかった。
 ただ、乾杯する度に、自分の子供たちに向かって、ワインを放置するとどんな味がするのかを話した。けれども、そういうものであっても、それを印象深くおぼえる瞬間というものが、幸せの形を教えてくれるとも言った。そういう話をするたびに、妻である彼女は、まるで親友に惚気話をいじられた時のように顔を赤らめるのであった。

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