見出し画像

【短編】もうひとつだけ

 この景色も、もう当たり前の景色じゃなくなるのだ。次見るときは「懐かしい」という感情に襲われる事になるのだ。ミズキはこの日、これまでの人生においては、かなり長い時間を過ごした場所を去る事になっていた。それは、人生においてみれば大した出来事ではなかったかも知れないが、その瞬間に立たされた人は誰でもそう思うように、これは一大事だと思っていた。人生において大きな意味を持ち、これから先の自分の運命を変えてしまうような決断が、この今日という日になされるのだと思っていた。実際には、すでにこの地を離れてしまうことは決まっていたし、その決断はとうの昔から成されていた。しかし、留まろうと思えば、この地を去るその瞬間まで、留まることだってできるはずだと、そう思っていた。実際にはそんなこともなかったと思うが。

 馴染み深い部屋は、どこか他人行儀に見えた。初めてこの部屋に入った日のことを、僕はなんとなく覚えていた。この棚はどうやって使おうか、と真剣に悩んでいたし、この机には何を置こうかと、どうせ散らかるのに考えていた。窓は小さくて、庭が見えた。そこには小さな庭があって、とても気持ちよさそうな風が吹いてた。あの日、天候は晴れていて、気温も程よく、とても良い一日だ、と思ったことをよく覚えていた。そういう日が、もはや過去のものとなり、その日から始まった一連の出来事が、人生における一つのタームが、完全に今切り替わり別の何かに向かおうとしている。そういう時に不安を感じずに前に進む事ができる人が一体どれほどいるのだろうか。

 この地でミズキは愛する人をたくさん見つけた。後に、別の地にて再会した時に、「お前、俺たちのことを過去のことだと思ってんじゃねーよ」と彼のことを叱ってくれるような、そういう存在にたくさん出会ったのだ。あるいは、「これから先に僕が出会う、愛すべき人達と、やがて相思相愛になるような人たちが、この地で出会った僕の親友達だ」と彼は感じていた。これから先だって、きっと素敵な日々が続いていくはずだ。「僕は一人、違う道に行くけれども、きっときっとこれからも、この繋がりは途切れることなく続いていくのだろう」とミズキは思っていた。

 実際、その通りに彼の未来は続いているのだろう。
 ただ実際、この男は少し心配性なところがあって、常に何か小さいことに絶望し続けている人生を謳歌していた。彼は、いつもどこかに頭をぶつけていた。それは、例えば見えない天井だったり、目の前に立ちはだかる壁だったり、そういうものだった。彼は常にそれに頭をぶつけながら、前に前にと歩いていた。彼はその壁を壊そうとも、天井を突き破ろうとも思っていなかった。来るべき時が来たら、こういうことも終わってしまうのだからと、彼は言い訳しながらずっとそうやって生きてきた。
 ミズキはとにかく、ネガティブな人間だと、そういうふうに見られていた。考える時間が長く、行動が遅い。そして何より、ポジティブな話ができないやつだ、と。多くの人々が彼の言葉を聞いたときに感じるものはそういうものであった。
 けれども、彼自身が親友だと認める人々は、皆一様にして、彼がそういう時に見せる笑みを見逃したりはしなかった。そういう時に何かを感じている彼の邪魔をしようとは思わなかったし、それに足を引っ張られているときは、むしろ強引にこっち側に引っ張ってやればいいと思っていた。実際に彼が何かを諦めようとすると、ある二人の親友は「まあ、良いじゃん。最後までやろうぜ。ミズじゃなくて、他の人が嫌なんだよ。もう良いじゃん。やろう、最後まで。ここでやめさせなんかしねーよ」と言って、それまでの2時間の彼の苦労話なんかを、聞いたくせに、それとは関係なく言葉を彼にぶつけていたりした。

 彼はそうやって生きてきた。だから、彼はとにかく変わり者だった。
 本気で明日死ぬかも知れないと思いながら生きている。
 その癖、自然体に生きていて、平気で昼過ぎまでダラダラ寝ている。
 彼を奮い立たせる言葉は常に彼の中にあった。
 けれども、彼の内側にないものは、全てその外側に、どんな時でもあったのだ。求めた時に、彼が恵まれないことはなかった。

 彼は、部屋をもう一度見回してから、最後に扉をしっかり閉めた。扉を閉めるっていうのは、なんだか変だな、と彼は思った。そして細い道をゆくと、向こうから犬が二匹走ってきた。ミズキはそれらをなだめながら、彼を見送ろうと集まってくれた人の顔に浮かぶ雫を見ていた。それが、ポツリポツリと落ちていき、床に水溜りを作りそうなほどだと思った。あの大好きな、レイの小説にでてくるような、まるであのリノリウムの液体がポタポタと流れて、目の前にいる愛しているはずの人の足元のすぐ傍に、水溜りを作っているのを見て、「もう二度とこんな景色を見ることはないだろう」と確信している時の様な、その類の確かさが、彼の確信を固めていた。けれどもそれは、リノリウムなんかのように冷たくはないのだ。

 彼は、最後に彼らに何かを言わなくちゃ、と思っていた。それが、彼の、さらにはみんなにとって、ささやかだけれど、役にたつことだと思ったからだ。

 彼はこの地で、とにかく多くのことに絶望して生きてきた。誰もが普段の生活の中で感じる不便さはもちろんのこと、むしろ気が付かずにいるようなことにも。中には、現代人ならば喜んで享受するべきものごとにも、とにかく小さく小さく絶望していた。それはあまりにも小さすぎて、誰かと分け合うことはできない絶望だった。
 だから彼は、常にパートナーがいなかったし、常に誰かの助けになろうと必死だった。そしてこの時も、そんな彼の俯く顔は、いつもの顔と変わり映えせず、今にも何かがこぼれ落ちてきそうだった。二段ベットの上に積まれた荷物が、隣の部屋や、上階の住人の足音で、今にも崩れてしまいそうになっている時の、底知れない不安感、どう崩れてくるのかわからないし、いつ崩れてしまうのかわからない時の不安感が彼の顔には蔓延っていた。けれども、口元には、「そんなことは諦めている。後でなおせばいいだけだから」という諦めた人にだけ許される余裕が刻まれていた。

 彼は一通り、彼の人生についての感謝を述べた。そして最後に言った。
 「僕たちは、決して決してすごくなんかないんだ。僕たちがやっていることなんていうのは、今の僕がそうであるように、時が来て仕舞えば、終わってしまうだけなんだ。ただそれだけのことなんだ。どれほどこの土地を愛していても、いずれこの土地も終わってしまうのかも知れないし、それを止めることなんて誰にもできない。いつかは一人一人海に出て、孤独の船に身を委ね、何を目指しているのかも知らぬまま航海に出なくちゃならないんだ。風の吹くままに任せて、それを受けた帆が、自分の行先を決めてしまうような航海に出なくちゃならないんだ。船には旗がついているものだが、その旗に何が書いてあるかも、誰にも分からない。でも、それでも、この土地を出て、前に進まなくちゃ。これまでとは違う物語に出会った時、自分がこれまで出会った物語に潜むもう一人の自分に出会えるのだから。この海原そのものが、僕たちの居場所なんだと死ぬ時には思っていたいんだから。今はまだ見えなくていい、後悔ばかりでいい。風の吹かない日に、一歩も前に進めなくても、そんな当たり前のことを気にしなくていい。ただ急がないことだ。焦らないことだ。人生の旅路なんてのは、本来は一本道で、つまらない道なんだ。僕らはせっかくだから、紆余曲折して、いろんなところを遠回りして、最後には目的地にたどりつく。人生はそんなものだ。生まれた時、本当はゴールなんて目と鼻の先にある。けれどもわざわざ、行ったり来たりして、立ち止まったり振り返ったりして、そのゴールに辿り着く前の時間稼ぎをしているんだ。そのほうがずっとずっと豊かで楽しいと、そういうことをなんとなく僕たちは知っているから。急いじゃだめだ。明日できるようになることばかり見つけて、練習をするような今日は生きるな。いつか、いつの日か、自分が“死”というゴールテープをくぐったその後で、誰かの何かに、ささやかだけれど役にたつことを期待して生きるような、そういうことこそ大事なんだ。一見意味のないことでも、信じられる事があるのだから。それ以外のことに絶望しても、それさえあれば生きていけるんだ。言いたいことはそれだけ。それだけなんだ、僕が言いたいことは…。それじゃあ、またねBon Voyag。」

 ミズキはもう、扉に手をかけていた。そして、反対の手で、ドアのぶを回そうとして肘を曲げていた。彼の片方の足は、さっき踏みつけた地面から踵を浮かして曲がっていて、もう片方の足は、先ほど地面につき、それでもまだつま先を少し浮かせていた。時の流れがゆっくりになるのを、ミズキは感じていた。声も荒げぬ歓声が、彼の耳には届いていた。多くの、本当に多くの、これまで出会った親友や仲間たちが、耳を傾けてくれているということを感じて胸がいっぱいになっていた。
 けれども彼は、何かやっぱり伝え忘れているような気がした。それは、絶対に今言葉にできないけれども、絶対に今言いたい言葉だった。けれどもそんな言葉はどこにもなくて、きっとこれから先も見つけられないかも知れない、と思えた。けれども今を逃して仕舞えば、次は無い。「懐かしい」という感情に襲われている時には決して言えない言葉だという確信があった。彼はそのまま立ち止まった。瞬きにも満たないその刹那に、彼は「もうひとつだけOne more thing」とささやいた。世界はとたんに、静まりかえっていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?