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【短編】プロポーズの後で

私の夫は頑固で割烹着が似合う男だ。もう結婚して二十年になる。三ヶ月後に二十一年目を迎えるという時に、その一報が入った。息子が結婚する。

かねてよりお付き合いしていた人のことは私たち夫婦も知っていた。
「俺らも、歳をとるよな。この日が来るんだから、当たり前だぁ。」
「そうね、あなた」と、私は涙がこぼれた。
「俺たちは出来なかったが…結婚式できるみたいだな。よかったよかった。」
「そうね、あなた」と、私は懐かしくなった。

私たちが結婚するときはどうだっただろう。忘れもしない。当時じゃよく聞いていた話かもしれないが、私たちは親の反対を押して結婚した、いわゆる駆け落ちであった。
まだ、汽車が通っていた時代だ。駅で待ち合わせすれば絶対に見つかる状況で、相手も乗り込んでいるはずと信じて、片道切符の車両に乗り込んだのだ。当時は携帯もない。計画は綿密に慎重に行われた。

それを考えると今はいい時代になったもんだ。
いつかまた、お見合いが当たり前になる時代が来るのだろうか。来るはずもないし、来なくていい。

息子から電話があったのはその日の午後一時だった。今日は休日で、夫が電話に出た。夫は血相を変えた。なんというか、微妙な面持ちだった。
「なにがあったの?」と聞くと、「店を開けなきゃならん!」

どうやら、息子は結婚式の日取りだけ決め、入籍届も出したのにプロポーズをしていないという。夫は常々、女への告白はちゃんとしろ!と息子に言っていたから、息子はそれが頭にずっとあったはずだ。
で、結局今日この休日の日に、夫のお店で決行したいと相談を受けたわけだ。
駆け落ちした私たちが言うのも変だが、なんとも思い切った息子である。血は争えない。やると決めたら、息子は絶対やるし、夫がそれを後押ししなかったことも無いのだ。

茶道の我流を極めた藩主を歴史にもつこの町は、御茶所として栄えた下町だ。都会のような喧騒とは違う賑やかさがある。時代が違えば一等地であるこの場所に、初代は店を構えた。夫はそこの四代目になる。

夫は準備を始めた。まずは買い出しからだ。トラックを動かし、しばらくして、うんと言うほどの食材を手に戻ってきた。
「これ全部買ってきたんだけど、途中よっちゃんに会ってよ!魚譲ってもらったよ!」
当然夫はこの町じゃ知り合いも多い。そんな夫を愛する人ももちろん多い。

足りない調味料は電話をして持ってきてもらうことになった。
「いやー、すまんねお休みのところ。実はよぉ、息子がうちの店で…!」と、元気な電話の声が聞こえる。いつも低い夫の声と違うのは明らかだ。相手も驚いていることだろう。
私は、そばでじっと見ていた。このお店の手伝いは帳簿や接客に留まっていたから、できることは何もなかった。
夫は、慎重な人だ。包丁が刻む音はいつも決まって一定だった。ネギを均等に、断面すらも揃えるように切る手際は素晴らしいものがある。今日が一番輝いて見えるのは、夫の高揚が伝わるからなのか。それとも、ただ視界が滲むからなのか。

「親父は、結局俺に継がせてくれた。」途端に、夫が口を開いた。
「あれは、死期を悟ったときだったが、それでも俺を頼ってくれたのは嬉しかった。駆け落ちした俺なんかを、まだ思ってくれていた。幸せになれよと。その気持ちが今ならわかる気がするんだ。」

夫が、包丁を使っているときに口を開くことなんて、無い。私は今とんでもない場面に遭遇している、と思った。人生に一回あるかないかというほどの。

約束の時間に三十分ほど遅れて、二人はやって来た。私たちはその三十分間、交互に立ったり座ったりしていたが、二人が来たとき、夫は座ったまま出迎えていた。

「和食は、お好きですか?」
これが、夫が息子の結婚相手に、この日最初に聞いた一言目だった。ひどい質問である。

夫が食事を出すたびに、私がそれを全て運んだ。夫は頑なに、食事が終わるまでは厨房から出ようとはしなかった。死にかけの松尾芭蕉がそうだったように、私が入ってくるたびに様子を聞いてくる。時たま、「すごい雪が降ってますよ。とっても寒そう。」と冗談を言うと、嬉しそうに拗ねる夫は可愛かった。

「お母さん、今日はありがとう。」と、最後のデザートを運んだ後、息子がそう言った。そして、私の前でプロポーズをした。お相手は何も知らなかったようだ。ものすごい勢いで時が流れた気がした。それは、これまでの、つまり夫と出会い、この子を産み、家を旅立ち、今日に至るまでのすべての時間が、流れた気がした。そして、頑固な夫も、この時ばかりは、隠れながら様子を伺っていた。多分、私だけが気がついていた。
「こちらこそ、ありがとう」そう言ってから、「デザート、溶けちゃいますよ」とよくわからないことを言ってから、足早にその場を去った。夫は既に厨房に入っていた。
「お前、やけに顔が赤いぞ」と夫。
「だって、今日に限ってデザートがシャーベットじゃなくて、抹茶のケーキなんて、聞いてなかったんですもん!」

お前が運んだじゃないかー。夫はそう言ったと思うが、よく覚えていない。
というのも、本当のサプライズはここからだったのだ。

そう、指輪は二つあった。
一つは当然、息子の指輪。婚約指輪。それは、私が去った後に、息子がお相手に渡していたらしい。指輪まであるとは思ってもみなかったようで、喜びの声は、古い木造のこの店全体を軋ませた。
もう一つは、それも息子から渡されたものだ。しかし、どうやら買ったのは彼ではなかった。

夫がついに白状した。
「なあ。俺たち、今度で二十一年になるだろ。いやな…。さっきのプロポーズ見て、俺もいいなと思ってな。今更なんだけど、ちゃんとやっとかないか、結婚式。」
私は、今日という日を忘れないだろう。

初めて出会った日、彼の手にはシワの一つもなかった。私たちは一日中、この下町を歩き回り、そのせいで後で親に叱られたのだ。当時は自由恋愛ではなかった。でも、それでも今の私の隣にはこの人がいる。色々なことがあったのだ。今後だって何があっても不思議じゃない。でも、そういう表現って、この歳になると悪い意味ばかりになる。この頑固者は、どうやら歳の取り方まで頑固らしい。というのも、後になって息子がこう言ったのだ。「ずっとずっと、母さんがいないところではそういうことばかり話していたんだよ。だから、この日が来たら、一緒に伝えなよって。中学生くらいの時かな、俺が無理やり約束させたんだ。」
親父が親父なら、息子も息子であった。

今日という日を忘れないだろう。もう、手にも顔にもシワがはびこっている歳になって、こんなことがあるのだ。この先何があっても、おかしくない。全くもっておかしくない。もしも、そんな気分で毎日過ごせたら、和食を食べながら、指輪を受け取るような毎日があるのなら、何度でもこの人生を歩んでいたい。

私が黙って頷くと、夫は言った。「もう一回分だけ、一緒に人生歩まねえか。」
私は同じように繰り返した。

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