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長い夜を生き延びるために、映画「ドライブ・マイ・カー」

並べられた幾つかの偶然と必然によって、生き残った者と死者に人は選り分けられてしまう。人と人の間に、分けるための線が引かれる。一本の線が。

それが宿命と呼ばれるものなのかどうなのかはわからない。宿命という言葉以外に、その事柄に相応しい呼び名が存在しているのかもしれない。しかし、それをどのように呼ぶことにするのか思い悩むことも、あるいは、そうした呼び名を用いることを忌み嫌い避けようとすることも、殆ど意味の無い事柄にしかすぎない。

なぜなら、それが宿命であろうが、なかろうが、人は否応なしにその選別を受けなければならないからだ。それが如何に受け入れ難く、如何に耐え難いものであったとしても。人の生というものはそうした形をしたものなのだ。人にできることはそれを受け入れることしかない。

映画「ドライブ・マイ・カー」の中で、生き残った者たちと死者たちの声が重なり合い響き合う。宿命という呼び名を否定し拒否しながらも、受け入れることしかできなかった生き残った者たちと死者たち。その声たちが重なる。

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1:サーブ900(SAAB 900)の形とその色彩の赤

赤いサーブ900(SAAB 900)が昼の光と夜の闇の世界の中を疾走する。運転手は無口な女。後ろの座席に座る男はサーブの持ち主であり運転を依頼した役者であり演劇演出家。役者であり演劇演出家はその妻を失い、不愛想な運転手の女は父と母を失っている。思い残すことの多過ぎる唐突で理不尽で残酷な離別の仕方で。二人はその抱え切ることが困難な喪失を飲み込んだまま、疾駆する赤いサーブに身を任せながら揺れ、漂う死者の声の中で沈黙する。二人の生き残った者と死者の声を乗せて赤いサーブが、淡く陽炎のようにブルーに染まった世界の中を何処までも疾走する。生者が住む冥界のような青い光の中を。

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サーブ900(SAAB 900)の有する優美でありながらも確固たるその形状とその色彩の赤が、この映画の全てを支え、全てを語ることになる。仮に、この映画がその車をサーブ900(SAAB 900)以外のものとしていたならば、それはもはや別の異なった映画になってしまっただろう。サーブ900(SAAB 900)の赤と形が生者と死者の声を優しく静かに包み込む。その声を包む形と色彩が、映画が映画であることの理由として刻まれることになる。

わたしたちはサーブ900(SAAB 900)の赤い色彩とともに、生き残った者たちと死者たちのレクイエムの長い旅に赴くことになる。

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2:生き残った者たちと死者たち、そして、二つの声が響き合う

死者たちの声が何度もリフレインする。何度も。生き残った者たちの声に応えるかのように。幾度も。生き残った者たちの口から死者たちが語られ死者たちの声が現れる。死者たちが向こう側へ消え去り、再びその姿を現すことがないことがわかっていながらも、死者たちの声を探し出しその声を見つけ出そうとする。死者たちの秘密が生き残った者たちによって、開示され共有され、未だ未知なる存在の死者たちとして、未だ変容し続ける存在の死者たちとして、生き残った者たちの前に謎めいたその姿を揺らめくように現す。

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生き残った者と死者、その二つの声、それが響き合う。死者たちの声が向こう側からこちら側へとやって来る。死者たちの声が生き残った者たちの間で、今ここにいる生者の声であるかのように、出現する。

生き残った者たちはその声を通して、自身が「正しく傷つくこと」を怖れて、取り戻すことができない過ちを犯してしまったことに、行うべきことを行わなかったことに、その行った数え切れないほどの間違いとその罪の重さに、気付くことになる。

そして、沈黙の後の、生き残った者たちに訪れる耐え難い深い悔恨と絶望と悲しみと痛み。残された者たちができることは、慟哭しか、存在していない。

3:死者たちの全てが失われてしまったのではない

その痛みと悲しみによって生き残った者たちであるわたしたちが、生き残った者たちと死者たちと伴に、この世界に生きていることの意味が示される。

わたしたちは知ることになる。

生き残った者たちだけがこの世界に存在しているのではないことを。生き残った者たちだけがこの世界に存在しているのではない。生き残ることが出来なかった死者たちのその声は、今もなおこの世界の中に存在し、今もなお、この世界の中で鳴り響いている。わたしたちは死者と伴にこの世界の中に存在し、生きている。死者たちの声はわたしたち生き残った者たちと伴に消えることなく、今もなお、ここに存在している。死者たちの声は、この世界の中で生き残った者たちの声と伴に存在している。

死者たちは向こう側へ去ってしまったのかもしれない。しかし、その声がこの世界から消失してしまったのではない。その声は今もなお聴こえている。その声は今もなお生き残った者たちに聴こえている。その声は、今もなお、生き残った者たちと伴に生きている。

死者たちの全てが失われてしまったのではない。わたしたちはその全てを失ってしまったのではない。決して。

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4:長い夜を生き延びるために

チェーホフの戯曲「ワーニャ伯父さん」の言葉が映画全編に広がり埋め尽くし、その言葉がこの映画を観ているわたしたちのところへと辿り着くことになる。原作の村上春樹の小説の中の言葉とチェーホフの戯曲の中の言葉が交錯し交じり合う。映画「ドライブ・マイ・カー」の中で、その言葉はチェーホフの戯曲「ワーニャ伯父さん」の中のセリフでありながら、同時に、それはチェーホフの戯曲のセリフではなくなってしまう。その言葉は、村上春樹の中のチェーホフの言葉として、チェーホフの中の村上春樹の言葉として、そして、それは生き残った者たちと死者たちの言葉として、わたしたちのもとへ送り届けられる。

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ワーニャにソーニャが優しく語りかける。その言葉は、まるで、わたしたちに語りかけられているかのように、優しく届けられる。

その言葉がこの映画が辿り着いた終着地であるかのように。

ソーニャがワーニャに優しく語りかける。

「でも、仕方がないわ、生きていかなければ! ね。ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱つよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら、素直に死んで行きましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送ってきたか、それを残らず申し上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ、嬉しい! と、思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合わせな暮らしを、なつかしく、ほほえましく振返って、私たち、ほっと息をつけるんだわ。」(「かもめ・ワーニャ伯父さん」チェーホフ 神西清(訳)新潮文庫 P238〜P239より引用)

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映画「ドライブ・マイ・カー」は、長い夜を生き延びるための言葉に辿り着く。

それが、どれほどありきたりで、どれほど惨めで無様なもので、どれほど救いのないものであったとしても、わたしたちはそれを蔑ろにしてはならない。それは長い夜を生き延びるために必要なものであり、そして、その言葉たちは、受け入れることしかできなかった生き残った者たちと死者たちの声なのだから。


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