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ルネサンスから宗教改革へ。ホッブスの「リヴァイアサン」を切る

過去記事のハイライトです。
この記事では、宗教改革からホッブスの「リヴァイアサン」までを説明し、「社会契約」という思想から生まれた自由や平等、それから、資本主義や民主主義について独自視点で解釈して記事にしたものです。
記事をパクってYouTubeに投稿している人がいますが止めてください。本当に迷惑です。

もともと、酔っぱらった時にこのような長文を書いて一人で楽しんでいました。なのでタグもほとんどつけてなかったのですが、記事をパクられるくらいなら最初から多くの方に読んでもらえるようした方がいいかなと思って切り分けて再掲します。

元記事はこちら。
どちらで読んでも内容は同じです。

この記事は④~始まりますが、宗教改革のところだけ引っ張ってきてるからです。
ここから問題なく読めます。~③まではルネサンスの意味をルサンチマン思想を使って独自解釈しています。その記事が下のリンク。
上のリンクの元記事を読んでも同じです。
元記事は、実存哲学からポスト構造主義まで現代思想も絡めて語っている章もあります。興味がある方は是非読んでみてください。

では、以下本文です。


④宗教改革における「自由」

その後、人文主義は、エラスムスを触媒として、ルターやカルヴァンなど、教会権威にプロテストする流れを生み、権威から解放された「自由」の思想(自然権)が形成されてゆきます。有名な宗教改革ですね。そして、宗教改革や宗教戦争を通じて、自由があっという間に自由ではなくなってしまうわけでねす。自由は、単に教会権威から自由になったという話で、プロテスタンティズムは民衆に厳格な生き方を要求し、みな、奴隷にされてゆくわけです。教会権威の支配から、国家や巨大資本の支配に組み変わっただけで、余計に酷い世の中になっただけなのです。明治維新と同じですね。被差別階級が解放されて四民平等になったのはいいのですが、四民平等も詭弁で、国民皆兵でみんな兵士にされていくわけです(ちなみに明治政府は荘園制を残して農奴を兵士の供給源としました)。

結局、国家・巨大資本が教会権威から解き放たれただけで、民衆を、教会から「自由」になったのだと洗脳し、だまされた多くの人々を家畜の檻(資本主義)へと誘導するのが宗教改革であったと思います。ポコチン大爆発かと思われた人文主義は、教会という緩やかな統制、相互扶助的な社会システムから、国家・巨大資本による貨幣経済を基盤とした科学的な家畜管理制度(金融システムや法を基盤とした労働者管理社会)へと変わってゆくのでした。ポコチン大爆発出来たのは巨大資本だけだったのです。

特に、カルヴァニズムは資本主義の成立を促しました。予定説という詭弁を持ち出して「労働」を強要したのでしたね。「労働」によって神の救済予定リストの中に入れるとそそのかし、「職業」や「利潤」を強く肯定しました。神(による救済)と労働(職業)を結びつけてしまったわけです。それで、そのような詭弁を、ヘンリ8世の離婚問題(ローマ教会から分裂)を契機に、ユグノー(フランスのカルヴァン派)らがイギリス(イギリスのカルヴァン派がピューリタン)にもたらしたのです。イギリスにはもともとウィクリフやトマス・モアによって人文主義の下地が作られていたのですね。特に、トマス・モアとエラスムスは友達でした。(このあたり、世界史教科書にも書いてあるので、さらりと流してゆきます。)

ヘンリー8世は離婚問題でローマ教皇から破門されましたが、自ら首長令を出しイギリス教会の事実上のトップに君臨し、教会の財産を没収しました。次の、エドワード6世からエリザベス1世にかけて、祈祷書の英訳行われます。(英訳聖書はジェームズ1世の時。ちなみに聖書のドイツ語訳をしたのはルター。)だれでも祈祷書や聖書が読めるようになったことで、教会の権威は失墜してゆくわけです(聖書を民衆が読めないからこその教会権威でもあった)。エリザベス1世の時に、イギリス国教会は正式にローマカトリック教会から分裂しました。

それで、イギリス国教会はプロテスタントなんですが、ピューリタン(カルヴァン派)ではないわけですよね。離婚を認めないローマ教皇が気に入らなくて分裂しただけですから。でも、それまでの経緯から、イギリスにはピューリタンが押し寄せてきていて、内紛が起きました。クロムウェルから始まった清教徒革命(ピューリタン革命)、それから、名誉革命ですね。これによって、国家がピューリタンに乗っ取られてしまいます。

重要なことは、イギリスは、封建制(貴族の権威)が維持されたまま、ピューリタンに乗っ取られてしまったという事です。清教徒革命で共和制を実現したクロムウェルでしたが、護国卿となって封建体制を温存してしまい、その流れがその後の王政復古にまで繋がってしまいます。立憲君主制を貴族が利用し、傀儡システムにしてしまうのです。「権利の章典」は巨大資本による王の傀儡化のシンボルです。

さて、ここまでが、ルネサンスで生まれた自由(その代弁者がピューリタン)が、イギリスという国家を乗っ取ってしまうまでの話です。ルネサンス以降、「自由」は、一見もっともらしいことを言いながら庶民を納得させてきました。ポコチンを解き放ち、科学を解き放ち、出版や言論の自由を説き、商工業の自由を説き、基本的人権という個人の自由を説いたのです。

でもこれは詭弁です。
このような自由の布教と同時に、イギリスでは、自由(社会契約)という言葉で民衆を騙し管理するための装置としての人工国家が建設されてゆきます。その概念を象徴的に説明したのが、

ホッブスの「リヴァイアサン」ですね。ホッブスは、「社会契約説」という概念を使って、王政を正当化しながら、民衆を国家の家畜・歯車として上手く組み入れてしまいました。上手く組み入れるために生まれた概念が「社会契約」つまり「民主主義」です。ここには大いなる詭弁があります。そもそも、国家(王政)を傀儡化してるのは封建領主・貴族であり巨大資本なのです。要するに、イギリスにおける社会システムは、この頃より、何もかもが、巨大資本が民衆を飼うために作った人工の制度・システムなのです。民主主義も資本主義も、そもそもが巨大資本(貴族)が作った人工的なシステムなのです。しかもイギリスはそのシステムに王政をこっそり紛れ込ませたわけです。それによって巨大資本と王政が連動してゆきます。そしてこのことが、その後いち早く資本集約により産業革命を成し遂げ、世界支配を成し遂げることができた機動力の理由でもあります。
一方、ホッブスの王政ありきの国家論を批判したルソーの政治哲学が繁栄されたフランスは共和制となってゆきます。


⑤社会契約という概念を軸にして組み替えられる「自由」、現代まで続く構造

そもそも「自由」というのは、ルネサンスにおいて、ルサンチマンを根源としたポコチンの自由(ポコチンの解放運動)という意味での人文主義が起源でした。すでに上で説明した通りです。

重要なポイントは、このルネサンスで醸成され、宗教改革から生まれた「自由」という概念が、教会権威による相互扶助的な社会を破壊して、「貨幣経済と労働を前提とした自由(「社会契約としての社会」)」に組み替えられてしまったという事です。
これにより、王政であろが共和制であろうが、労働者が貨幣的豊かさを求めるようになり、自発的に、統治者に対し国民の経済的な豊かさの実現を最優先するように求めることになったのです(当初、イギリスにおいて自由主義が王政と結びついたことは早い者勝ちの利として世界を席巻する力となった)。つまり、民衆が、貨幣錯覚という幻想社会に囚われてゆくわけです。ですので、資本主義(自由主義)においては、最終的には王政も共和制も関係なくなります。どちらも、貨幣経済を前提としたシステムですからね。(だから、その後に、そのトリックに気が付いたマルクスやエンゲルスが出てくるわけですね。)

資本主義においては、利益を求める民衆たちも、資本主義のマーケットの駒であるわけでして、結局は貨幣経済によって生まれた巨大資本の家畜として組み込まれてゆきます。そして、民衆を自由という概念で騙すために、自由という概念が、社会契約という概念を軸に、さまざまな概念へ転用され、その際に多くの詭弁が盛り込まれてゆくことになります。このあたりから、かなりおかしくなっていくわけです。(といいますか、カルヴァンがそもそもおかしい。人文主義が、労働による禁欲にすり替えられたのですから。)

そうして、国民国家(社会契約としての共同体)、資本主義、民主主義、基本的人権など、もっともらしい概念が沢山生まれます。

イギリスでは、そもそも王政の裏に封建制があるわけですから、民主主義や基本的人権は、人間牧場を形成するための詭弁として利用されてゆきます。民主主義は奴隷制であり人間牧場です。お金が意味を持つためには、多くの人がお金を信用している必要がありますし、そもそも、人間牧場で女性を養殖してお金で釣りあげるのですから、民主主義や基本的人権は、釣り堀みたいなイメージです。
その人間牧場、釣り堀の管理者が国家であり、その裏にいるのは資本主義の勝者・巨大資本なのです。国家があるのは、人間牧場を人間牧場だと思わせないための装置であり、裏にいる資本主義の勝者が実質的な国家の支配者です。ピケティを読んでください。こんなことは言ってないですが、彼が言いたいことはこういう事です。

商工業者はアダム・スミスが国富論(自由主義で社会が豊かになる)という詭弁をつかって納得させてゆくのですが、結局は、資本の集約(分業の深化)により多くは労働者に堕とされてゆくわけですね。もちろん、それによって富を得る者もいるでしょう。しかし、そもそも、金融システムやメディア(巨大通信社)は巨大資本の手の内にあり揺るぎません。といいますか、巨大資本にとっては、中央銀行を軸とした金融システム(家畜を囲う檻)を確保することが至上命題となります。家畜の檻さえ手に入れることができれば、その檻の中で、ニワトリの卵、牛の牛乳は、捕り放題だし、絞り放題になるのですから。

自由(自然権)という概念が、社会契約という概念にすり替えられて、国家を補強する材料(民衆を巨大資本の家畜にする材料)とされたわけです。ホッブスやジョン・ロックの社会契約論的な国家論(民主主義)の正当性は、アダム・スミスやベンサム、ミルなどが、個人の功利主義的な利益と社会(国家)の利益を論理的に連結することで、背後から、さらに強化されてゆくことになります(個人の利益追求が社会・国家の利益になる)。このような論理的連結は、巨視的に見ると、(分業により)社会の構造を複雑に深化させ、結局のところ、家畜に家畜の檻を作らせるという意味で詭弁なのですが、現代においても理解できてない人が山ほどいます。いやむしろ、自発的な労働により、その本質が徐々に見えなくなっていくこと自体(自発的家畜化というデススパイラル)が、この論理連結トリックがもたらした社会構造の自動深化(自動分業化)の最大の問題なのです。
さらに、ハーバート・スペンサーは、ダーウィンの「自然選択説」を「適者生存」という概念にすり替え、競争によって(自由によって)さらに社会がすばらしいものになると説き(社会進化論)、これよにっても、社会契約論的な国家論(民主主義)がさらに強化されてゆくことになります。

⑥「自由」の意味まとめ

これまで見てきたように、今日において「自由」というものは、資本主義(貨幣経済)や民主主義(過半数優位性)など、様々な制度的社会インフラを前提とした「自由」なわけです。でも、この制度は、そもそも金融システムを巨大資本に乗っ取られていて、メディアも乗っ取られているわけでして、簡単に言えば、私たちは牧場の牛みたいなものです。牧場で生まれた牛にはその牧場が当たり前の世界であり、いつもエサは与えてもらえるものだと思っているわけです。それが当然だと思っている牛は、それが「普通」だと思っているわけです。このことを長々と説明してきました。牧場という檻の中で許された自由ってことです。そもそも、重要な社会インフラを巨大資本に抑えらている私たちは、「普通」を押し付けられているという事です。さて、では、具体的にどうやって押し付けられているのでしょう?私はそんな押し付けには屈しない!と思っているあなたは、是非次の大項目も読むべきです。

以上です。

続きはこの記事です。(元記事をいくつかに分割してるだけですので、最初にリンクを貼った元記事と同じです。)



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