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「普通」って何?普通の概念を操作する者の正体を追う

まえがき

酔っ払いです。誤字脱字はそのうち修正します。
ありきたりなテーマですが、本日も自分視点でだらだらと書き綴ってゆきます。お暇な方はお付き合い下さい。酔っ払いの自動記述です。誤字脱字放置です。

「普通」はこうだとかああだとか言ってくる人は、この世界の人々が自由にものを考えることが出来ていて、それで、大多数の人がこういう考えだと、その人が勝手に思い込んでいることを「普通」だと言ってるんでしょうが、そこに、外部から何重にも巧妙なトラップが仕掛けられているということを知りません。

近現代の既成観念が、意図的に植えつけられたものだということを、わたくしたちの多くが知らないのです。「自由に生きる人々の多数の意見が社会に繁栄される民主主義」は素晴らしい制度だと植え付けて、わたくしたち家畜を飼うための人間牧場を管理する為政者の意図を探るため、わたくしは、イタリアに現地調査に入ったことがあります。単なる旅行ですが、、、

この記事は、
・「自由」の操作  ルネサンスからホッブスの社会契約説まで
・「実存」の操作  実存主義から構造主義まで
・「死」の操作   巨大資本による死の主観の操作
に分けて、「普通」という概念を植え付けてくる人間牧場の牧場主のやり口を解き明かしてゆきます。



「自由」の操作

①ルネサンス(人文主義)から生まれた「自由」

そもそも、「普通」の前提となる「自由」ってなんでしょうか。
近現代の「自由」の概念の誕生を促したのはルネサンス(人文主義)です。

人間って自分のルーツを知りたくなりますよね。自分のルーツもそうだし、自分が属する社会のルーツもそうです。知りたくなります。なりますよね?自分のルーツを探ると、実は日本の本土人は渡来人・朝鮮人で、明治期に発見されたのち隠蔽された巨大文明である「遼河文明」に行き着きました。とても興味深い事実です。昨年、アルタイ語系の民族のルーツが、この文明を調査していた国際調査団によって明らかにされ、モンゴル人、朝鮮人、日本人は同じ民族だと判明しました。文明の伝播の起点が、実は現在の中国東北部にあったのです。このことは、実はこの分野の学界には激震どころじゃないアイデンティティの崩壊をもたらしています。いつもながら、メディアが報道しないことは世間では起こってないことになっています。この話は別の記事でしていますので割愛。

それで、わたくしが属する社会である「自由主義」のルーツも当然探りたくなるわけでして、わたくしは、このルネサンスという芸術運動の意味を肌で感じるためにイタリアを個人的に旅行したことがあります。ミラノから下ってローマまで、さまざまな土地を回りながらイタリアを自分なりに感じました。かなり昔の話です。
それで、今思い出せることはほとんどありません(笑)。ヴェネチアが素晴らしい街だったこと。辻仁成は大して好きではなかったけど、映画「冷静と情熱のあいだ」のありきたりでシンプルな構図が良かったので、フィレンツェのドゥオモのてっぺんまでわざわざ登ってフィレンツェの街を360度見渡した時、辻仁也は嘘つきではなかったと感じたこと(それほどに素晴らしい街だったこと)。ローマの下町のカフェで極東のサル・日本人も丁寧に接客してもらってホッとしたこと。スペイン広場の前のプラダの門番が偉そうだったこと。などなど、そんなくだらない事しか覚えていません。

フィレンツェのドゥオモ  / ウィキぺディアより

そんななかで、フィレンツェのウフィツィ美術館でボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を見れたことは良かったと思います。わたくしは、個人的に、「自由」というものをイメージするときにこの絵画を思い浮かべます。

つまり、自由は決して悪くはない。

絵画ってやっぱり意味のある芸術です。視覚的なイメージは大事ですね。(逆にだまされてしまうこともあるので注意です。わたくしが騙されている可能性もあります。)

わたくしは、過去記事でも取り上げた映画「マトリックス」が好きですが「ローマの休日」も大好きです。とてもシンプルな構図の中で人間のエロスが描き出されています(この文脈では「愛」)。資本主義が操作する社会構造を教えてくれるのは「マトリックス」ですが、その社会構造を克服する手掛かり(エロス)を教えてくれるのは「ローマの休日」です。この二つの作品は、もう随分前から、わたくしにとって、毎年かならず見るべき映画となっています。

それから、復路で利用したアリタリアのCAがオードリーヘップバーンを超える恐ろしいほどの美しさで、わたくしは偶然にも、アリタリアの航空機の中で人文主義の真の意味を悟ることになりました。

ニーチェのルサンチマン思想は正しかった。


②「自由」は結局のところポコチンの僻みが生んだ

資本主義の発生は、「貨幣経済」(富の蓄積)と、それから、実は、絶対的真理を予感させるほどの「女性の美しさ」を前提にしていたのではないのか。わたくしも、実のところそう思っているわけでして、資本主義の発生は必然だと思いますが、単なる貨幣経済だけが要因ではなく、根本的な要因としての「女性の美」があったのだろうと思います。それが人文主義の意味なのでしょうね。

つまり、美しい女性を手に入れたいと願うブサイクの猛烈な欲望(抑圧されたエロス)。それが貨幣経済と結びついた。これが資本主義を生んだ原動力なのではないでしょうか。金の力で美しい女性の股を開かせたいと欲求するが、しかし永遠に満たされることのない心(満たされぬエロス)。それがブサイクのルサンチマンです。わたくしは、イタリアまで行ってそのことを悟ったのでした。ブサイクであるために、決して美女との純粋な愛を手に入れることのできない人々の妬み、僻み(抑圧されたエロス)が貨幣経済を生み、そして、資本主義を形成したのです。わたくしも危うくルサンチマンを感じてしまいそうになるほどの美がイタリアにはありました。そっ閉じしたくなるほどの美。それができない人にとってはつらいでしょうね。


貨幣経済と「女性の美」を支配したい欲望(ルサンチマン)が結びついたことをトリガーとして、既得権である教会権威を克服する流れを生み出した人文主義を、資本主義を嫌悪する人たちは、そもそもの悪の根源とみなすのですが、わたくしは、同じく資本主義を嫌悪するものとしては、ちょっと違う見解をもっています。つまり、動機としての人文主義は必然だってことです。女性の美を否定するのですか?資本主義の発生源としてのルネサンスを否定する人たちは、それこそブサイクの僻み・ルサンチマンに支配されていると思います。

結局、この世の中のほとんどの事柄が弱者の猛烈な欲望(ルサンチマン)で動いているのです。愛を手に入れられない歪んだ性欲(ルサンチマン)が全ての原因であり、全ての原動力なのです。つまり、「抑圧されたエロス」(ルサンチマン)が今の世界を動かす原動力なのではないでしょうか。

注意してください。わたくしはこの文脈ではルサンチマンを肯定も否定もしていません。必然だったと考えています。美しい女性を前に、ブサイク男性も思いっきりポコチンを起立させてしまうことは避けようがない性なのです。

③ポコチン解放によって科学というフィクションに陥ったルネサンス

それから、ルネサンスは、ポコチンの解放と同時に、「科学」という錯覚に人間が完全に陥ってしまうトリガーにもなりました(科学を解放してしまいました)。
数学的、科学的、貨幣的に振り返ると、教会権威が支配してきた時代は「暗黒の時代」ということになっているようですが、これは間違いです。コペルニクスやガリレオはともかく、ジョルダノ・ブルーノは火あぶりにされてしまったので可哀そうではありますが、彼らは科学というものが、脳が見せる錯覚だと気が付いていなかった。今考えると教会の言っていたことの方がある意味正しいのです。科学を邪教とまでは言いませんが、因果論的現象把握は、所詮人間にとっての任意の方法でしかないという意味でフィクションだったわけです。科学者たちは、科学が人間にとっての任意の方法であるという事実に、その後、500年経って、二重スリットの問題にぶち当たるまで気が付かなかった。恐ろしい話です。本質的な現象把握が、お釈迦様から2500年も遅れたわけです。しかも、お釈迦様のように論理で把握したのではなく、二重スリットの問題という現象を見せつけられてようやく悟ったわけです。でも、現代でもほとんどの人はこのような話を知らなくて、いまだにコペルニクスやガリレオが正しいって思っているわけです。コペンハーゲン解釈?なにそれ?って感じなわけです。そんな人たちが「普通」という言葉を振り回していることに、正直私はうんざりしてしまいます。
今みている世界が嘘だと言っているのではありません。実存という認識機構が、いかに脆く、外部からの操作によって洗脳されやすいか、ということを知るべきです。(次の大項目で詳しく説明します。)
彼らに「実存」から説明するのは無理です。お釈迦様が「実存」に目覚めてから、なんと2500年も経ってようやく、西洋で実存主義が日の目を見るのは20世紀になってからなのです。特に日本人は、「実存」なんてまるで知りません。アインシュタインですら、「実存」という意味が分からず、ゲーデルに数学的に教えてもらうことで納得したのですから。
この当たりは意味不明だと思いますので、次の大項目で説明します。さらっと流して次を読んでください。

世界を世界として、科学を科学として現象させるのもポコチンですので、結局のところ、ルネサンスというポコチン大爆発によって、科学という人間にとっての方法が、より具体的に現象してしまったと考えることもできます。私たちが認識している世界や、科学、数学を現象させているのは結局のところポコチン(エロス)なのです。

欧州人は、どうやら、直感的な現象把握が苦手なようですので、当時、教会側が、理屈として科学の意味(人間にとっての方法でしかないということ)を説明できなかったという意味で、教会権威が克服されてしまったのは必然だったのだろうと思います。
だから、いまから振り返って、資本主義の発生源としてのルネサンスがやり玉に挙げられる筋合いはないと思います。そもそも教会も権威化していた。お釈迦様のような洞察力で現象の把握を論理的に行うことを怠っていた。ポコチンの解放を正しいと思う人々には、地球が回転してるように見えてしまうんだから仕方ないでしょう。ポコチンの起立を抑えられないのと同じのように、論理のない人間にとっては避けようのない事実として現象するのです。教会権威は勉強を怠って、論理として、ポコチンの解放(科学の解放)を抑えることができなかったのです。そのような意味で、ルネサンス以降の流れは、やはり、必然という大きな流れの中で生じてしまったのではないでしょうか。

ボッディチェリ「ヴィーナスの誕生」ウィキペディアより

④宗教改革における「自由」

その後、人文主義は、エラスムスを触媒として、ルターやカルヴァンなど、教会権威にプロテストする流れを生み、権威から解放された「自由」の思想(自然権)が形成されてゆきます。有名な宗教改革ですね。そして、宗教改革や宗教戦争を通じて、自由があっという間に自由ではなくなってしまうわけです。自由は、単に教会権威から自由になったという話で、プロテスタンティズムは民衆に厳格な生き方を要求し、みな、奴隷にされてゆくわけです。教会権威の支配から、国家や巨大資本の支配に組み変わっただけで、余計に酷い世の中になっただけなのです。明治維新と同じですね。被差別階級が解放されて四民平等になったのはいいのですが、四民平等も詭弁で、国民皆兵でみんな兵士にされていくわけです(ちなみに明治政府は荘園制を残して農奴を兵士の供給源としました)。

結局、国家・巨大資本が教会権威から解き放たれただけで、民衆を、教会から「自由」になったのだと洗脳し、だまされた多くの人々を家畜の檻(資本主義)へと誘導するのが宗教改革であったと思います。ポコチン大爆発かと思われた人文主義は、教会という緩やかな統制、相互扶助的な社会システムから、国家・巨大資本による貨幣経済を基盤とした科学的な家畜管理制度(金融システムや法を基盤とした労働者管理社会)へと変わってゆくのでした。ポコチン大爆発出来たのは巨大資本だけだったのです。

特に、カルヴァニズムは資本主義の成立を促しました。予定説という詭弁を持ち出して「労働」を強要したのでしたね。「労働」によって神の救済予定リストの中に入れるとそそのかし、「職業」や「利潤」を強く肯定しました。神(による救済)と労働(職業)を結びつけてしまったわけです。それで、そのような詭弁を、ヘンリ8世の離婚問題(ローマ教会から分裂)を契機に、ユグノー(フランスのカルヴァン派)らがイギリス(イギリスのカルヴァン派がピューリタン)にもたらしたのです。イギリスにはもともとウィクリフやトマス・モアによって人文主義の下地が作られていたのですね。特に、トマス・モアとエラスムスは友達でした。(このあたり、世界史教科書にも書いてあるので、さらりと流してゆきます。)

ヘンリー8世は離婚問題でローマ教皇から破門されましたが、自ら首長令を出しイギリス教会の事実上のトップに君臨し、教会の財産を没収しました。次の、エドワード6世からエリザベス1世にかけて、祈祷書の英訳行われます。(英訳聖書はジェームズ1世の時。ちなみに聖書のドイツ語訳をしたのはルター。)だれでも祈祷書や聖書が読めるようになったことで、教会の権威は失墜してゆくわけです(聖書を民衆が読めないからこその教会権威でもあった)。エリザベス1世の時に、イギリス国教会は正式にローマカトリック教会から分裂しました。

それで、イギリス国教会はプロテスタントなんですが、ピューリタン(カルヴァン派)ではないわけですよね。離婚を認めないローマ教皇が気に入らなくて分裂しただけですから。でも、それまでの経緯から、イギリスにはピューリタンが押し寄せてきていて、内紛が起きました。クロムウェルから始まった清教徒革命(ピューリタン革命)、それから、名誉革命ですね。これによって、国家がピューリタンに乗っ取られてしまいます。

重要なことは、イギリスは、封建制(貴族の権威)が維持されたまま、ピューリタンに乗っ取られてしまったという事です。清教徒革命で共和制を実現したクロムウェルでしたが、護国卿となって封建体制を温存してしまい、その流れがその後の王政復古にまで繋がってしまいます。立憲君主制を貴族が利用し、傀儡システムにしてしまうのです。「権利の章典」は巨大資本による王の傀儡化のシンボルです。

さて、ここまでが、ルネサンスで生まれた自由(その代弁者がピューリタン)が、イギリスという国家を乗っ取ってしまうまでの話です。ルネサンス以降、「自由」は、一見もっともらしく装いながら庶民を納得させてきました。ポコチンを解き放ち、科学を解き放ち、出版や言論の自由を説き、商工業の自由を説き、基本的人権という個人の自由を説いたのです。

でもこれらは詭弁です。
このような自由の布教と同時に、イギリスでは、自由(社会契約)という言葉で民衆を騙し管理するための装置としての人工国家が建設されてゆきます。その概念を象徴的に説明したのが、ホッブスの「リヴァイアサン」ですね。ホッブスは、「社会契約説」という概念を使って、王政を正当化しながら、民衆を国家の家畜・歯車として上手く組み入れてしまいました。上手く組み入れるために生まれた概念が「社会契約」つまり「民主主義」です。

このような概念は詭弁です。そもそも、国家(王政)を傀儡化してるのは封建領主・貴族であり巨大資本なのです。つまり、イギリスにおける社会システムは、この頃より何もかもが巨大資本が民衆を飼うために作った人工の制度・システムなのです。民主主義も資本主義も、そもそもが巨大資本(貴族)が作った人工的なシステムなのです。しかもイギリスはそのシステムに王政をこっそり紛れ込ませたわけです。それによって巨大資本と王政が連動してゆきます。そしてこのことが、その後いち早く資本集約により産業革命を成し遂げ、世界支配を成し遂げることができた機動力の理由でもあります。
一方、ホッブスの王政ありきの国家論を批判したルソーの政治哲学が繁栄されたフランスは共和制となってゆきます。


⑤社会契約という概念を軸にして組み替えられる「自由」、現代まで続く構造

そもそも「自由」というのは、ルネサンスにおいてルサンチマンを根源としたポコチンの自由(ポコチンの解放運動)という意味での人文主義が起源でした。すでに上で説明した通りです。

重要なポイントは、このルネサンスで醸成され、宗教改革から生まれた「自由」という概念が、教会権威による相互扶助的な社会を破壊して、「貨幣経済と労働を前提とした自由(「社会契約としての社会」)」に組み替えられてしまったということです。
これにより、王政であろが共和制であろうが、労働者が貨幣的豊かさを求めるようになり、自発的に、統治者に対し国民の経済的な豊かさの実現を最優先するように求めることになったのです(当初、イギリスにおいて自由主義が王政と結びついたことは早い者勝ちの利として世界を席巻する力となった)。つまり、民衆が、貨幣錯覚という幻想社会に囚われてゆくわけです。ですので、資本主義(自由主義)においては、最終的には王政も共和制も関係なくなります。どちらも貨幣経済を前提としたシステムですからね。(だから、その後に、そのトリックに気が付いたマルクスやエンゲルスが出てくるわけですね。)

資本主義においては、利益を求める民衆たちも、資本主義のマーケットの駒であるわけでして、結局は貨幣経済によって生まれた巨大資本の家畜として組み込まれてゆきます。そして、民衆を自由という概念で騙すために、自由という概念が、社会契約という概念を軸に、さまざまな概念へ転用され、その際に多くの詭弁が盛り込まれてゆくことになります。このあたりから、かなりおかしくなっていくわけです。(といいますか、カルヴァンがそもそもおかしい。人文主義が、労働による禁欲にすり替えられたのですから。)

そうして、国民国家(社会契約としての共同体)、資本主義、民主主義、基本的人権など、もっともらしい概念が沢山生まれます。

イギリスでは、そもそも王政の裏に封建制があるわけですから、民主主義や基本的人権は、人間牧場を形成するための詭弁として利用されてゆきます。民主主義は奴隷制であり人間牧場です。お金が意味を持つためには、多くの人がお金を信用している必要がありますし、そもそも、人間牧場で女性を養殖してお金で釣りあげるのですから、民主主義や基本的人権は、釣り堀みたいなイメージです。
その人間牧場、釣り堀の管理者が国家であり、その裏にいるのは資本主義の勝者・巨大資本なのです。国家があるのは、人間牧場を人間牧場だと思わせないための装置であり、裏にいる資本主義の勝者が実質的な国家の支配者です。ピケティを読んでください。こんなことは言ってないですが、彼が言いたいことはこういうことです。

商工業者はアダム・スミスが国富論(自由主義で社会が豊かになる)という詭弁をつかって納得させてゆくのですが、結局は、資本の集約(分業の深化)により多くは労働者に堕とされてゆくわけですね。もちろん、それによって富を得る者もいるでしょう。しかし、そもそも、金融システムやメディア(巨大通信社)は巨大資本の手の内にあり揺るぎません。といいますか、巨大資本にとっては、中央銀行を軸とした金融システム(家畜を囲う檻)を確保することが至上命題となります。家畜の檻さえ手に入れることができれば、その檻の中で、ニワトリの卵、牛の牛乳は、捕り放題だし、絞り放題になるのですから。

自由(自然権)という概念が、社会契約という概念にすり替えられて、国家を補強する材料(民衆を巨大資本の家畜にする材料)とされたわけです。ホッブスやジョン・ロックの社会契約論的な国家論(民主主義)の正当性は、アダム・スミスやベンサム、ミルなどが、個人の功利主義的な利益と社会(国家)の利益を論理的に連結することで、背後から、さらに強化されてゆくことになります(個人の利益追求が社会・国家の利益になる)。このような論理的連結は、巨視的に見ると、(分業により)社会の構造を複雑に深化させ、結局のところ、家畜に家畜の檻を作らせるという意味で詭弁なのですが、現代においても理解できてない人が山ほどいます。いやむしろ、自発的な労働により、その本質が徐々に見えなくなっていくこと自体(自発的家畜化というデススパイラル)が、この論理連結トリックがもたらした社会構造の自動深化(自動分業化)の最大の問題なのです。
さらに、ハーバート・スペンサーは、ダーウィンの「自然選択説」を「適者生存」という概念にすり替え、競争によって(自由によって)さらに社会がすばらしいものになると説き(社会進化論)、これよにっても、社会契約論的な国家論(民主主義)がさらに強化されてゆくことになります。

⑥「自由」の意味まとめ

これまで見てきたように、今日において「自由」というものは、資本主義(貨幣経済)や民主主義(過半数優位性)など、様々な制度的社会インフラを前提とした「自由」なわけです。でも、この制度は、そもそも金融システムを巨大資本に乗っ取られていて、メディアも乗っ取られているわけでして、簡単に言えば、私たちは牧場の牛みたいなものです。牧場で生まれた牛にはその牧場が当たり前の世界であり、いつもエサは与えてもらえるものだと思っているわけです。それが当然だと思っている牛は、それが「普通」だと思っているわけです。このことを長々と説明してきました。牧場という檻の中で許された自由ってことです。そもそも、重要な社会インフラを巨大資本に抑えらている私たちは、「普通」を押し付けられているという事です。さて、では、具体的にどうやって押し付けられているのでしょう?私はそんな押し付けには屈しない!と思っているあなたは、是非次の大項目も読むべきです。


「実存」の操作

社会インフラを乗っ取られた後に、わたくしたちは、「普通」の概念をどうやって押し付けられるのでしょうか?
それを知るには、まずは「実存」という概念を知る必要があります。これまでの説明は一度頭から消しさって、次の説明を読んでください。

実存というのは、仮想現実(フィクション)に存在することを意味する哲学の用語です。キルケゴールから始まる実存主義哲学は、フッサールにおてい体系化され、人間が、人間とっての世界しか認識できないことが明らかになりました。
つまり、わたくしたちには認識限界があり、実在の世界を認識することができません。そういう意味において、わたくしたちは人間にとって存在する仮想現実世界(実存世界)に生きているのです。社会に暮らす人間みなが同じ仮想現実を見ているので、あたかも実在している世界を認識しているように錯覚しているだけなのです。知らなかった方はここで認識を改めてほしいと思います。難しい話ではないです。本来は遅くても大学生くらいまでには知っておかなくてはいけない認識論です。これを分かってない人は、そもそも、現実社会において、最初から巨大資本(AI)の家畜になっています。

実存主義は、世界に一人だけがぽつんといるような状態を想定しています。そのぽつんといる一人の人間は、人間の認知機能(身体機能)に限界があって実在の世界を認識できません。だから、その一人にとっての仮想世界を認識しているのです。一人だと社会がないわけですから、言葉も文字も必要ないので、獣のような感じになるのではないでしょうか。

そんな仮想現実を見ている獣のような人間が複数集まって社会を形成したらどうなるの?と考え始めたのが構造主義哲学です。それで彼らは原始人や言語を研究して、実存主義哲学に人類学や言語学を方法論として取り入れていきます。

基本は一人一人が自分の仮想現実を見ているんですが、他者と関わる際に、言葉や制度、モノの概念を共通化してゆきます。たとえばコップ。コップにはコップという名前を付けて、液体を入れるものだという認識を共有しますよね。こうやって人間同士がいろんなものを共有してゆき、社会を形成します。そのコップは、社会で生活する人間にだけにコップとして現象します。犬や猫はコップをコップとして認識できませんよね?世界にぽつんと一人だけいる人間もコップを認識できません。コップをコップたらしめる(コップをコップとして現象させる)のは社会なのです。わかりますか?社会によってあらゆるものが現象させられているんです。社会によって、世界を見せられているんです。これが共同仮想現実という概念です。

ようするに、いろんなものを共有することで、いつしか、人間が社会から幻想を見せられているような世界になっていきます。色んなものを共有して社会を形成するうち、社会というものが、これまで人類が色んな概念を共有してきたその概念の母体・雛形のようなものになってゆくわけです。一人だけなら、世界はその一人だけのフィクションでしかないのですが、他者もいて、社会を形成してしまうと、社会が人間に幻想を見せる装置になってゆきます。これが社会というものの基本概念であり、構造主義哲学の基本的なエッセンスです。

ですので、基本的に、社会というのは、そこで暮らす人間がいろんなものを共有した結果として成立するのですが、最後には、その社会によって縛られ、その社会から、強制的に、共同幻想を見せられるのです。共同仮想現実でもいいです。同じことです。翻って考えると、巨大資本が、社会で暮らす人々が持っている概念を操作することが出来れば、その人々に意図した幻想を見せることができるわけです。だから、巨大資本が真っ先にメディアを支配して、わたくしたち家畜に都合の良い情報を垂れ流すのですね。

おわかりいただけましたでしょうか?

自分の実存と他者の実存が絡み合う中で、社会構造が共同幻想として認識されます。その幻想の中に、巨大資本がメディアを使って巧妙に「普通」を紛れ込ませてくるのです。恐ろしいですね。
そして現代では、単に紛れ込まされているだけでなく、実存(認識)が完全に操作され、わたくしたちは家畜化されています。

実は、この大項目の説明は他の記事から一部転用したものです。さらに詳しく、人間の認識構造を利用して錯覚を植え付けてくる巨大資本のやり口を知りたい方は下のリンク先の記事を読んでください。


「死」の操作

最後に、「死」の操作について話しておきます。
自由というのは、何に対しての自由なのでしょうか?抑圧や苦しみ、悲しみから自由になりたい、楽しい人生を送りたいという意味ではないでしょうか?でも、「死」の主観を操作され、実際には抑圧や苦しみ、悲しみの中で生きることを強要されていると言ったら、みなさんは驚くのではないでしょうか。

そもそも、なぜ、数学や科学があるのか?

思想家・ボードリャールは「死」という概念が為政者によって操作されていると主張しました。社会システムのトリックで、「死」が怖いと思わされて、平均寿命まで生きないと損してるように思わされているのです。科学や数学が進歩した世界では、早死にすることは、社会不適合者のようなマイナスイメージを与えます。石油メジャーがビックファーマを支配する世界では、とにかく薬漬けで家畜から牛乳を搾り取り、卵を産ませておきながら、その家畜たちには、平均寿命まで生きることだけが満足した人生だったと思い込ませるのです。
これは完全に洗脳でしかありませんが、コンクリートジャングルのエコノミックアニマルである日本人は、「24時間働けますか?(働け)」と社会から扇動されて、自ら家畜となって自分の乳を絞りまくることにだけに専念するのです。それで、私はあの大企業で定年まで頑張ってきて素晴らしい人生だったとか、国家官僚になって国家のために尽くしてきて良い人生だったなどと言う人だらけなのです。「死」の操作によって、主観が操作され、とにかく平均寿命まで、卵を産み続けさせられるニワトリ、乳を搾り取られる牛になってるのですが、それを素晴らしい人生だったと思っている人が殆どなのです。(より詳しい説明は前の記事でしています)

『象徴交換と死』(1976)では、マルクス主義の終焉(しゅうえん)を主張、「労働が終わり、生産が終わり、経済が終わる」とした。モースの「ポトラッチ」研究などにみられる贈与交換社会(贈与を受け、返礼することによってそのシステムを保つ社会)の概念から、社会と人間の「象徴的な贈与関係」を考察し、人間の「死」は、働き、子をつくる社会システムのなかで、「延ばされた死の贈与」を受け取ること、とした。

小学館 日本大百科全書「ボードリャール」の項目より一部抜粋


数学や科学は人間の現象世界で必然として生まれました。それは、人間が、意識として、記号として、数値として、世界を認識をしてしまうように脳が進化(劣化)してきたからです。そして、数学と科学を手に入れた巨大資本によって、結局は、私たちは完全に家畜されています。それが、数学と科学の本質的な意味です。これがルサンチマンの思想を言い換えたものになります。

この記事も下のリンクの記事から一部を抜粋したものです。興味がある方はリンク先の記事を読んでみてください。


あとがき

酔っぱらってるときに書いてるのでおかしな日本語やらはご容赦ください。

また話しが長くなりました。
この記事で書きたかったことは、ルネサンスからホッブスのリヴァイアサン(社会契約説・人工国家)までみたいです。なんとなく書き始めたのですが、書き始めると、自分の頭を整理できます。

この「契約」っていうのが詭弁なんですよね。
二つ目の大項目である「実存の操作」を読んでもらえるとわかりますが、「契約」ではなくて、構造主義的な「構造」という認識構造の中に巨大資本が一方的に彼らに有利な認識構造を流し込んできてるだけです。本気で契約なんて思っている人はアホです。契約になってない。押し売りなんです。
そして、大項目の最後で説明したように、「構造」の中に、「死」の概念すら植えつけられて、バカみたいに死ぬまで働き続けさせられているわけです。

「普通」って言葉を盲目的に振り回す人は気をつけてください。
私は馬鹿みたいに働きたくないんです。社会を構成する一人一人がこの記事に書いたことを認識して目覚めてほしいのです。

でも、ルネサンスとかホッブスとか、実存とか構造とか、話が難しいですよね。全部理解できた!共感できる!と思う方はお便り待ってます。

わたくしは、馬鹿みたいに働きたくない!家畜になりたくない!のです。
みなさん、洗脳されてることに気が付いください。

2022.11.1