映画「マトリックス」を思想面から大真面目に語る酔っ払い。私には全てが記号に見えるのじゃ!
【重要な追記】
この記事はみなさんに読んでほしくて、かなり平易に書きました。それで、是非この記事を共有してほしいと書きました。でも、そのことが切っ掛けて、この記事を含めいくつかの記事がまとめられたものが勝手に動画にされYouTubeに投稿されてしまうということが起きてしまいました。みなさんの理解を促したくて労力を費やしたことが同意なくパクられてしまい、そのことがショックで、noteを書くのをやめました。そういうことは止めて下さい。
この記事にはわたくしの独自の論理も含んでいますので、盗用するとすぐにわかります。
パクっている方は、他人の記事をパクってるわりに、パクってることをぼやかそうと、意味不明の論理を付け足して、色々ぐちゃぐちゃになっていて、それが逆にとても気持ち悪く、恐怖に感じて、気持ち悪い人に粘着されるのが嫌だったのでnoteやめました。わたくしは、もともとツイッターで物事をわかりやすく発信していたのですが、やはり同じような出来事があってかなり消耗したので、ああ、またか。という感じです。
記事は皆さんに読んでほしいのでこのままにしておきます。本文に入る前の話が長くなってしまい申し訳ありません。
では、以下、本文です。
まえがき
記事のタイトルは、「映画「マトリックス」を見て実存主義と資本主義を真面目に語る」にしようと思ったのですが、難しい話だと思われてしまうかなと思ってシンプルなタイトルにしました。難しく考えないで読んでほしいです。難しいことがよく分からない人にこそ読んでほしいと思います。
この記事は、前の記事でバタイユと村上龍「愛と幻想のファシズム」を語ったので、その勢いのまま、ボードリャールと映画「マトリックス」を語りたいと思って書きはじめました。ボードリャール?だれ?難しい話?と思わないでください。超面白い話がまっていますよ。この二つの作品は、幻想社会を支配する巨大資本を倒す!という構図が同じです。マトリックスでは戦争後に巨大資本のAIが自己増殖して人間を飼っているという設定です。
この記事を見逃したら、あなたは人生を損して生きることになります。この記事は、逆に難しいことがよく分かってなかった方にとっては価値があります、たぶん。それくらいのつもりで書きます。気合で読んでみてください。
この記事の大きなポイントは三つです。
・実存主義とは?
・ハイパー現実とは?
・実存世界をハイパー現実にした巨大資本の手口
この三つのポイントを、なんとなくイメージするとわかりやすいと思います。それでは、以下本文です。
実存としてのマトリックス
ここ数年、世界が映画「マトリックス」で描かれた世界に近づいてるって思いませんか?AIによって脳を支配され仮想現実を見せられるというテーマは、現実世界で実際に進んでいる研究テーマとそっくりです。わたくしたちの世界の巨大資本は、金融システム支配や情報システム支配など、社会インフラ支配の延長として、人間の意識支配を目論んでいます。これは、人間の脳の言語生成器官が、記号(言葉)で身体を統制するよう進化してしまったためで、巨大資本は、逆にそのことを利用して、わたくしたちの意識を支配しようと目論んでいるのです。
このあたりは、ボードリャールではなく、同じポスト構造主義の思想家であるチョムスキーの影響を受けていると思います。チョムスキーとかポスト構造主義というのがよくわからない方は無視してください。難しく考える必要はありません。わたしもよく分かっていません。ポスト構造主義というのは、ソシュールの「記号論」など、言語学や人類学を用いて社会構造を解明しようとした構造主義哲学を批判的に乗り越えようとしたり、構造主義哲学を踏まえてさらに独自理論を展開した思想の潮流くらいの意味です。思想の流れでいえば、
実存主義 → 構造主義 → ポスト構造主義
ということになってるようです。とにかく、この説明は別に知らなくてもいいです。流してください。とにかく、もう少し我慢して読んでください。
チョムスキーは、人間の脳が進化する過程で言語生成器官を発達させて、生まれながらに言語(意識、記号)で身体を統制できるようになったのだと主張しました。あたりまえのように感じるかもしれませんが、重要なポイントは、後天的に言語が話せるようになるのではなく、もともと話せるように脳が進化したと主張したことです。この理論を「生成文法」といいます。この理論は本当にヤバくて、ヤバいのです(笑)。興味がある方は色々調べてみて下さい。私の過去記事もチョムスキーの話が多いです。このチョムスキーの発想が、逆に利用され、巨大資本が、人間の意識を外部から操作しようと企てる切っ掛けになりました。
チョムスキーのこのようは発想は、そもそも、人間の認識には限界があり、人間が認識している世界は「実在の世界」ではなく、人間にとっての世界(「実存の世界」=仮想現実世界)だと考える実存主義哲学に基づいています。じつぞん、と、じつざいの違いを意識してください。じつぞん、が人間が認識できる世界です。
ポスト構造主義というのは、実存主義哲学の次に出てきた構造主義哲学の次の思想潮流です。どれも実存世界(仮想現実)の話をしている哲学の思想です。実存世界(仮想現実)には三つのフェーズがあるということです(多元解釈など解釈方法は他にもありますがここでは無視します)。一応、簡単に説明しておきますが、それぞれについて、これから詳しく説明するので、ここではさらっと流してください。
構造主義とポスト構造主義は、今は無視してください。
とにかく重要なのは実存主義の考えなのです。実存主義がわかれば、構造主義とポスト構造主義も理解できます。ちょっとマトリックスからはなれて、実存主義哲学の話をします。
実存というのは、仮想現実(フィクション)に存在することを意味する哲学の用語です。キルケゴールから始まる実存主義哲学は、フッサールにおてい体系化され、人間が、人間とっての世界しか認識できないことが明らかになりました。(人名は無視してください。実存主義を調べたい人がいるかもしれないので敢えて書いてるだけです。話は難しくないです。難しいと感じる方も、少し我慢してついてきてください。)
つまり、わたくしたちには認識限界があり、実在の世界を認識することができません。そういう意味において、わたくしたちは人間にとって存在する仮想現実世界(実存世界)に生きているのです。社会に暮らす人間みなが同じ仮想現実を見ているので、あたかも実在している世界を認識しているように錯覚しているだけなのです。知らなかった方はここで認識を改めてほしいと思います。難しい話ではないです。本来は遅くても大学生くらいまでには知っておかなくてはいけない認識論です。これを分かってない人は、そもそも、現実社会において、最初から巨大資本(AI)の家畜になっています。
最近、俺たちは巨大資本の家畜だ!国際金融資本がー!NWOがー!ダボス会議がー!など、ワーワー巨大資本の文句を言ってる人たちが沢山いるのですが、実存主義をしらなければお話になりません。社会の構造を理解する土台を全く分かってないことになるのです。実存主義がわかれば、自動的に、構造主義もポスト構造主義もわかってきます。ワーワー言ってる人たちを批判してるわけではありません。正体を見せ始めたこの世界の支配者が、どのように私たちを家畜にしているのかを、彼らにもぜひ知ってほしくて、その土台となる実存主義やハイパー現実の思想について書いているのです。
彼らに、仏教なら何千年も前にお釈迦様が、西欧哲学なら19世紀にキルケゴールが、巨大資本を倒そうと(社会の認識自体をかえるべきだと)声を上げて、これまで、多くの哲学者が、とても有効な理論をいくつも構築をしてきたということを知ってほしいと思います。最初に簡単に言っておくと、巨大資本(社会の支配者)を倒す有効な理論が誕生し、そして逆に悪用され(吸収され)、その次の理論が誕生するといったことの繰り返しが今日までの歴史です。今日行われている議論は、過去積み上げてきた議論の延長で行われているので、過去の思想家が編み出してきた理論を理解しないと、現在使われている理論(ポスト構造主義など)を理解しないまま、ワーワー文句を言うだけになってしまいます。ですので、まずは実存主義を徹底的に理解する必要があります。といっても難しい話ではないです。上に書いた通りです。
問題は、今認識している世界を実在世界だと思ってきた人が、わたくしにいきなり今認識している世界が仮想現実だと言われて、信じれるかどうかだと思います。いきなりわたくしから、おまえたちは家畜の檻の中にいたんだと言われるようなものですからね。全くそんな認識がなかった人たちが、それを認めることはきっと難しいだろうと思います。(マトリックスの中のネオもそうでしたね。)ですので、わたくしに説得されない方は、調べる前から陰謀論と決めつけず、色々と調べてほしいと思います。重要なことは、自分で調べることです。そもそも、今、わたくしたちが認識している世界が、実は仮想現実だということを知る必要があります。
ただ、実存主義について自分で調べ、自覚するのは結構難しいです。わたくしも、大学生の時に、最初に仮想現実に生きていると知ったときは本当に衝撃でした。そもそも、日本ではちゃんと教えてもらえません。わたくしの場合は、たまたま大学の教養の授業でソシュールの「記号論」が取り上げられて、それをきっかけに自分で図書館で色々調べて、自分で調べる中でその事実を知りました。すんなり頭に入る人もいるかもしれませんが、わたくしはかなり驚きました。わたくしの場合、教養の授業がいきなり実存主義を前提として構造主義から入ったので、最初まったく意味が分からなかったのです。めんどくさいと思って素通り出来てしまうような授業だったので、そこで興味を持たなかったら、もしかしたら、今日まで、この世界の基本構造がまるで分ってなかった可能性もあると思うと、とても恐ろしいです。授業で取り上げられたと言っても複数あるテーマの一つとしてさらっと習っただけなので、本当に、意識してなければ、素通りしてしまうところでした。
映画「マトリックス」が配給され、かなり話題になっても、会社では、内容が難しいとか、あまり面白くなかったという人ばかりで、思想的背景がわかってる人は一人もいませんでした。あらゆる学問の分野において、実存主義など、哲学的思考が論理の土台となるべきなのですが、日本社会ではバカであることが社会の土台として要求されるので、ハッキリ言ってバカしかいません。それで、逆に、哲学やらを素養として、論理的思考ができる人がすごく嫌われてしまいます。私の人生がそうでした。見渡す限りバカばかりで、論理性が全くない家畜であふれていました。数学でも科学でも経済学でも、なんでもかんでも、専門として学問を学ぶ前提になる知識(リベラルアーツ)というのはあると思います。欧米ではそれが当たり前として教育されるのですが、日本では教育せずに、家畜を生産することが教育機関の目的になっていると思います。これは本当に恐ろしい事です。家畜になりたくないと勉強するほど、家畜から叩き潰される社会なのです。その他、当時、わたくしは村上龍の話がしたかったのに、世間では村上春樹ばかりでした。今もですね。これは本当に意味が分かりません。といいますか、この記事の中で、その意味を考えていこうと思います。映画「マトリックス」を考えることで、なぜバカが大量生産されているのかを解き明かしてゆきます。
実存主義の論理を知らないと社会に対する考え方がまるで変わってしまいます。私たちの認識している世界が、社会や巨大資本が見せる仮想現実と考える人と、世界がもともと在って、その中で、社会や巨大資本が活動していると考えるのではまるで違ってきませんか?前者の方が正しいのです。そのあたりも含めてこの記事を読むとさらに理解できるように書いてます。映画「マトリックス」の中の話は思考の構図としては事実なんですよ。本当の話なんです。まずは、え?まじなの?と興味をもって、この記事を読み進めてほしいです。
次に、構造主義哲学の話をします。
これはさらっと流します。ここでややこしいと感じてもらうと困るので。
でも、どんな学問も実は難しいことは何もありません。難しいと感じさせたい人と、そう感じさせて金を稼ぐ人がいるだけです。
上で実存主義について説明してきました。基本は実存主義をしっかり理解すればよいと思います。
実存主義は、世界に一人だけがぽつんといるような状態を想定しています。そのぽつんといる一人の人間は、人間の認知機能(身体機能)に限界があって実在の世界を認識できません。だから、その一人にとっての仮想世界を認識しているのです。一人だと社会がないわけですから、言葉も文字も必要ないので、獣のような感じになるのではないでしょうか。
そんな仮想現実を見ている獣のような人間が複数集まって社会を形成したらどうなるの?と考え始めたのが構造主義哲学です。それで彼らは原始人や言語を研究して、実存主義哲学に人類学や言語学を方法論として取り入れていきます。
基本は一人一人が自分の仮想現実を見ているんですが、他者と関わる際に、言葉や制度、モノの概念を共通化してゆきます。たとえばコップ。コップにはコップという名前を付けて、液体を入れるものだという認識を共有しますよね。こうやって人間同士がいろんなものを共有してゆき、社会を形成します。そのコップは、社会で生活する人間にだけにコップとして現象します。犬や猫はコップをコップとして認識できませんよね?世界にぽつんと一人だけいる人間もコップを認識できません。コップをコップたらしめる(コップをコップとして現象させる)のは社会なのです。わかりますか?社会によってあらゆるものが現象させられているんです。社会によって、世界を見せられているんです。これが共同仮想現実という概念です。
ようするに、いろんなものを共有することで、いつしか、人間が社会から幻想を見せられているような世界になっていきます。色んなものを共有して社会を形成するうち、社会というものが、これまで人類が色んな概念を共有してきたその概念の母体・雛形のようなものになってゆくわけです。一人だけなら、世界はその一人だけのフィクションでしかないのですが、他者もいて、社会を形成してしまうと、社会が人間に幻想を見せる装置になってゆきます。これが社会というものの基本概念であり、構造主義哲学の基本的なエッセンスです。
ですので、基本的に、社会というのは、そこで暮らす人間がいろんなものを共有した結果として成立するのですが、最後には、その社会によって縛られ、その社会から、強制的に、共同幻想を見せられるのです。共同仮想現実でもいいです。同じことです。翻って考えると、巨大資本が、社会で暮らす人々が持っている概念を操作することが出来れば、その人々に意図した幻想を見せることができるわけです。だから、巨大資本が真っ先にメディアを支配して、わたくしたち家畜に都合の良い情報を垂れ流すのですね。
おわかりいただけましたでしょうか?言葉で説明しようとすると難しいです。
上では、コップを例に上げましたが、構造主義は、言語学や人類学を実存主義に取り入れて、社会と実存主義の関係を解明しようとした、ということを知っておくとよいと思います。
ここまでで大丈夫でしょうか?
小説に実存主義文学というカテゴリーがありますが、初学者には、一見意味不明なものが多いし、読んでもつまらないものが多いので、学生時代の私にはまるで参考になりませんでした。役に立たないものも沢山読んできたので、映画「マトリックス」は実存主義のエッセンス(世界は人間にとって存在するフィクション)を本当にすごくわかりやすく映像にしていると思います。エンタメとしても滅茶苦茶面白くて、本当に素晴らしい作品です。実存のイメージをこんなにわかりやすく映画にしてもらえるなんて凄いことですよ。この作品はポスト構造主義が生んだミラクルです。大学の図書館で一から独学していたわたくしからしたら本当に羨ましい時代です
ボードリャールがどう思っているかは知りませんが、小難しい哲学的な理屈を知らなくても、この映画を見れば、すぐに社会の構造を理解できます。それに、巨大資本やメディアが社会性をそぎ落としやすいアニメとは違い、実写なので、社会性が映画を見た後に余韻として私たちの脳裏に留まりやすいと思います。わたくしたちの敵が何なのか、ということが具体的なイメージとして長く脳裏に焼き付くのです。
なみに、映画「マトリックス」で言うと、AIが人間を飼育していたり、ネブカドネザルやザイオンが存在している世界が共同仮想現実世界で、ネオがプログラマーとして暮らしている世界がハイパー現実世界です。
次の項目で、ハイパー現実世界について説明します。
ハイパー現実としてのマトリックス
映画「マトリックス」はポスト構造主義の社会学者・ボードリヤールの著書「シミュラークルとシミュレーション」からも発想を得ています。これは有名な話です。難しい話ではないので、しっかりついてきてほしいです。
映画「マトリックス」を理解する上でコアになる重要な概念です。
とにかくざっくりとでも私の言いたいことのエッセンスをつかんでください。ここで読むのを諦めたら、あなたは一生巨大資本の家畜のままかもしれません。
それでは、少しだけ実存主義は隅に置いて、「シミュラークルとシミュレーション」を説明します。
「シミュラークルとシミュレーション」は模造品と仮想現実(記号と記号化)という意味です。このあたりは皆さん普通に理解できる話で、現代の大量消費社会はどこのお店に行っても似たり寄ったりの既製品・模造品・コピー商品(シミュラークル)ばかりで、一品物(オリジナル)がないという話です。それで、現代の大量消費社会は、巨大資本が生産する模造品であふれた社会(シミュレーション)を当たり前と受け入れてしまっていて、いつしか、それが当たり前になり、オリジナルが忘れ去られて、巨大資本が支配する模造品だけがあふれる世界に閉じ込められてしまう(仮想現実を本当の現実と思い込まされる)、みたいな話しです。この、巨大資本によって生み出された大量消費社会を当たり前と信じ込んでしまってる状態がハイパー現実世界です。注意して下さい。大量消費社会をハイパー現実世界と言っているのではなくて、大量消費社会を受け入れてしまい、そのうち、それが当然の世界だと錯覚するようになってしまった現実をハイパー現実といいます。冗談みたいな話しに受け取らないでくださいね。
下のリンクの記事は、「つまようじから木の匂いがする」とクレームがきているという記事です。このような世界がまさにハイパー現実です。石油メジャーが市場に流通させる大量の化成品の消費財が世の中を席捲している現代社会では、木の匂いがする、ことの方が異質なのです。化成品であふれる社会の方がオリジナルだと思っている人は山ほどいるのです。そして、これからそのような人はもっともっと増えてゆきます。こういうコラムをちゃんとボードリャールから語ってほしいと思います。批判しているのではありません。仕方ないんです。真面目に哲学青年やってないとなかなかたどり着けないロジックなのです。みなさんにちゃんと理解してほしくて、この記事を書いています。
もっとわかりやすく言えば、養鶏場や養豚場で飼われているニワトリやブタが、養鶏場や養豚場をオリジナルの世界と錯覚して受け入れているという話です。わたくしたちは養鶏場や養豚場で飼われているニワトリでありブタです。まずは、このエッセンスを押さえましょう。ボードリャールは、お前らは養豚場の豚だと言ったも同然です。この養豚場こそが彼の言ったハイパー現実(仮想現実)の概念です。立場のある人が人間牧場だとか養豚場だとは言えないのでハイバー現実と言ったんですね。現代を代表するような思想家が、巨大資本がー!金融資本がー!って言ってるわけです。こういう話を陰謀論だと思っている人こそ現代思想についてこれてないです。
私たちが住んでいる社会は巨大資本の養豚場です。驚くことに、こういう話を陰謀論のように思っている人が8割もいるようです。そういう方は、宮崎駿作品やエヴァンゲリオン、マトリックスを単なるエンタメとしか思ってないわけです。反ワクチン派は陰謀論者!という人に、吉本隆明の「共同幻想論」や、チョムスキーの「生成文法」、ボードリャールの「シミュラークルとシミュレーション」から語ることは不可能です。なので、彼らに調べようとする意志がなければ、社会の構造として、わたくしたちが養豚場の豚にされてるということを理解してもらうことはほぼ不可能です。
映画「マトリックス」で描かれた仮想現実社会は、AIが人間牧場で飼われている人間の脳に流し込む電気信号でしかありません。電気信号は、記号やコードに置き換えられて、人間の脳に仮想現実を見せ、実感させるのです。記号やコードで構成される仮想現実社会というのは、結局、単なる数値やデータ、座標で構成される社会ということです。重要なことは、映画の中で描かれてる仮想現実社会は単なるエンタメではないということです。エンタメではなくて、わたくしたちが生活する現実社会に当てはまるのです。映画「マトリックス」で描かれている仮想現実社会は、現代の情報化社会の行く末を思いっきり描き出しているのです。
現代の情報化社会において、「人」、「モノ」、金、情報は全て記号に置き換えられます。「人」の脳の言語生成器官が、生まれながらに電気信号という記号(言語)で身体を制御していると言ったのはチョムスキーですが、ボードリャールはモノも全て記号(数値)でしかないと言いました。お金や情報は記号(数値)に置き換えられることはすぐ理解できると思うのですが、このお二人は、ソシュールの記号論、実存哲学などからヒントを得て、普通の人が到達できないレベルまで素直になって、既成概念を打ち破り、「人」の意識(言語)の構造や、「モノ」の構造を、記号(数値)というレベルにまで抽象化したのです。
この二人が凄いといいますか、チョムスキーが言うように、人間の脳は最終的に何でもかんでも記号として認識してしまうように進化(退化)してしまったのです。分かりやすく言うと、「人」は、世界を、言語として、数値として、因果として、論理として、意識として、認識してしまうように脳が進化(劣化)してしまったのです。つまり、チョムスキーやボードリャールじゃなくても、いつか誰かがそれに気が付き、同じことを言ったはずです。ニュートンもアインシュタインもボーアもゲーデルもそうです。みな賢かったのですが、結局は、人間の進化(劣化)の必然として、誰かが因果律を用いて(論理的に)、彼らが発見したような事実に気が付き、今あるような社会認識は必然として形成されていたのだと思います。
チョムスキーの話は難しいと思いますので、ここは飛ばして次へどうぞ。とにかく、チョムスキーが脳の働き(意識)を記号(言語、数値)と言い、ボードリャールがモノを記号(数値)と言ったということだけ押さえてください。
実存世界とハイパー現実の関係
ここまで、仮想現実世界、共同仮想現実世界、ハイバー現実世界について説明してきました。ややこしいと思いますので、少し整理します。違いを知ることは資本主義との関係で重要です。
分りやすくす書くと、以下の通りです。
実在世界は人間には認識できない世界でした。実存世界は三つのフェーズ(次元)があります。
これまでも話してきましたが、実存世界(仮想現実世界)は、多重構造になっています。わたくしたち人間は、実在世界を認識できず、実存世界(共同仮想現実世界)で暮らしています。それは、これまで説明したように、そもそも人間の認知機能に限界があって、実在の世界を認識できないからです。
この、「認知機能に限界がある」というところですが、これは、人間が進化する過程で、脳を獲得し、意識を獲得したことが原因だと考えられます。その獲得した意識(認知機能)が実在を認識できるほど優れていなかったのです(これを、認知バイアスと言います)。人間を他の生物より優れてると思うのは間違いです。実は、人間は、進化の過程で意識(脳の生成文法機能)を獲得してしまったせいで、実在の世界の認識できなくなって、認知バイアスを大きくしてきた可能性があります。
この認知バイアス(認識において錯覚を起こしてしまう性質)を悪用して巨大資本がマーケティングを行うために、既製品のモノがあふれて、いつしか、既製品があふれる世界を本当の世界と思いこんでしまうのです。この、思い込んでしまった社会がハイバー現実です。
もう一度整理します。人間の脳は、進化の過程で認知バイアスを起こすようになり、「実在」の世界を認識できなくなりました。そのために、これまでは「共同仮想現実」という世界にいたのですが、巨大資本が、人間の認知バイアスをさらに悪用して既製品があふれる大量消費社会にしてしまい、家畜たちが、今度はそっちを現実の社会だと思い込でしまうようになりました。現実だと思い込んでしまっている大量消費社会が「ハイパー現実世界」です。
実在→実存(仮想現実→共同仮想現実→ハイパー現実)という流れで、どんどん仮想現実が深くなっていってるのです。上の方で説明したように、そもそも、社会が人間に幻想を見せる装置として機能しているので、普通に生活していても共同幻想(共同仮想現実)を見せられているのに、そのロジックが巨大資本に悪用されて、ハイパー現実世界を見せられる完全家畜社会となっているのです。どんどん深みにはまっていってるのです。
もっとわかりやすく説明すると、例えば、畜産農家が牛を飼うのに、放し飼いから、牛舎で飼うのに変えるイメージです。放し飼いなら、牛にも少しは自由はあったのですが、牛舎で抗生物質を打ちまくられながら、常に牛乳を搾り続けられている状態を、牛が当たり前の現実だと思うようになってしまったその状態がハイパー現実です。このエッセンスは、映画マトリックスの中では、人間牧場のシーンとして描かれていす。AIが人間を熱源とするために牧場で人間を飼育してるシーンがありましたよね。
これまで説明してきたことから当然予想できることは、人間の認知バイアスが巨大資本のマーケティングによって悪用され、意図的に多元的な仮想現実階層を作られてしまうことです。今研究が行われている意識支配もそうですね。これが技術的に実装されたら次の次元が出来ます。その前にメタバースが広まれば、それが意識支配次元の前段階の次元になるでしょう。
巨大資本など世界を支配する為政者は、意図的に、テクニカルに、仮想現実の次元を作り出し、何重にも深い檻の中にわたくしたちを閉じ込めようとしているのです。目新しいものに飛びついてしまうと、結局は自分自身を深い深い檻の中に自ら閉じ込めることになってしまいます。本当に要注意です。
なんとなくざっくりと説明するとこんな感じです(下)。矢印で示してますが重層的なイメージです。これは一例です。説明したように、「仮想現実の階層(次元)」は巨大資本によって意図的に何層もつくられてしまいます。もちろんすべて上手くいくとは限りません。だから多くの科学領域があるのです。科学の研究は、結局この仮想現実の層(次元)を作ることにつながるだけです。自ら家畜の檻を研究してるだけです。だからわたくしは、いつも科学者に文句を言っているのです。結局のところ、科学の発展は、わたくしたちを深い檻の中に閉じ込めてセルフ家畜化することになるだけです。
このように、仮想現実の深みにはめられる仕組みを知るために、まずは、実存主義の考えが必須になります。そもそも、人間には認識限界(認知バイアス)がるので、騙されやすい生物なんだという理解が必要です。人間も、基本的には、豚や牛と同じなのです。人間だけが世界をちゃんと認識できてるなんて、実存という観点から考えればおかしな理解だったことに気が付くでしょう。わたくしたちは、本当に用心しなければならないのです。
こういうことをちゃんとイメージ出来ていれば絶対にワクチンなんて打ちません。ボードリャールは、著書「シミュラークルとシミュレーション」で、巨大資本がこういうことをしていると言っているわけです。この本を読んでない人が馬鹿と言っているのではありません。日本人を家畜にするために、敢えて日本では哲学やら論理的思考の基礎を教えないのです。この記事を読んで、初めてこのような事実を知った方は、腹を立てるべきだと思います。
実存世界と資本主義の関係
実存世界とハイパー現実の概要について説明したので、実存主義と資本主義の関係という観点から「シミュラークルとシミュレーション」を説明します。つまり、共同仮想現実世界をハイパー現実(大量消費者社会=現在の社会)に意図的に作り変える巨大資本の手口です。この実存主義と資本主義の関係が、ボードリャールが一番言いたかったことです。
ボードリャールは、現代の大量消費社会において、モノも全て「記号」(数値)だといいました。モノが記号?数値?って思いますよね。でも、簡単な話です。昨今、一般の人でも知っているようなマーケティングの話です。ブランディングのような話です。
大量消費社会では、必要に迫られてモノを買うのではなく、「意味」(=「記号」)を買ってる人がほとんどなわけです。これを身に付けたら金持ちと思われる、これを身に付けたらカッコいいと思われる、これを見につけたら頭が良さそうに見える、という具合です。なので、巨大資本はこのモノの意味を巧みに操作して(マーケティングして)、私たち家畜にモノを買わせたり、サービスを消費させたりするのです。こういう背景があるから、アパレルやら業界が談合でその季節の流行り(モード)を勝手に決めてメディアで喧伝するわけですよね。彼らはモノを売るのではなくて、「意味」を売ってることをよく理解しているのです。この辺りはマーケティングの基本ですので、理解しやすいと思います。モノの価値や意味を巧みに操って私たちを家畜にしているのです。ボードリャールは、この意味や価値のことを「記号」と言っているのです。正確に言うと記号と記号の差(数値と数値の差)です。その差異によって意味や価値を演出するのです。
ただ、モノを一方的に売りつけられているように感じないのは、実際見ためは良かったりするわけです。見た目が良いと感じるのは、人間の趣味嗜好に適っているということなのですが、実は、巨大資本のマーケティングの裏には、とんでもない科学的な悪意が潜んでいることを知る必要があります。
昨今は、ビックデータが解析されることにより、人間の行動パターンが把握され(数値化され)、人間の人格やモノが数値化され、そして、それらの関係が数値化され、さらに、認知バイアスマーケティングにより、効率的に(
(科学的に)、「意味」(モノ)を売り込まれてしまいます。この昨今頻繁に使われている認知バイアスマーケティングという手法は、心理学や認知科学の発達で明らかになった人間の認知機能における欠陥が、どう経済活動(行動)に影響するかを研究対象する行動経済学を悪用して、科学的に人間をだまして、極めて効率的ににモノを押し売りする手法です。わたくしは、いろんな記事でこの手法の文句を言っているのですが、本当にとんでもない悪魔の手法です。「シミュラークルとシミュレーション」の世界観や、マトリックスの世界観をまだまだ先の話とかSFのように捉えないでください。現実が急速にマトリックスで描かれた世界に近づいているのです。
人間が数値化され、モノが数値化され、人間とモノの関係が数値化され、全てが数値に置き換えられてゆくのです。怖くないですか?
例えば、季節とか、天候とか温度とか、どの道が何時にどれくらい渋滞するとか人の流れがどれくらいあるとか、いつどこで花火大会があるとか、何もかもが数値化されて、解析されて、行動を先回りで予測されて、あらかじめ把握され数値化された人格を元に、認知バイアスマーケティングによって科学的にモノを売り込まれるわけです。本当に最悪です。
人材会社から流出した履歴書の学歴が把握され、レンタルDVD店から提供された個人のレンタル履歴が解析され思想信条・趣味嗜好が把握され、どこかから漏れたり売られたりした個人の購買履歴や生体情報が解析されて、健康状態から行動パターンまで全て把握されて、最終的に人格を把握されます。それから、人格が把握された人々の行動パターンがマクロとして解析されて、集合体がどういう消費行動をとるか解析されて、いつ、どこで、何を、どのタイミングで売れば効率的に売れるか解析されてしまい、最終的にモノが押し売りされるわけです。モノについても、色や形、味などあらゆるものが数値化されます。どんな学歴で、どんな購買履歴を持っていて、どんな生体情報を持つOLさんが、どんな思想信条や趣味嗜好を持っていて、どんなバックを好むかなど、いろんなことがすべて事前に把握されているのです。今は完璧ではないかもしれませんが、それがわかるようになる社会を目指しているのです。とにかく、ぜーんぶ、ぜーーんぶ、把握され数値化されます。この仮想現実のあらゆる現象が数値化(記号化)され人間牛舎とされてしまった世界がシミュラークル世界です。
何度も説明してきましたが、人間の世界は、記号(言葉、数値)として現象を捉えてしまうよう進化(劣化)した脳(意識)が表象させた共同仮想現実なので、この世界のあらゆるも(現象)のを数値化することができるのです。怖すぎませんか?よくみなさん文句をいわないで素通りできますね。
同じことを何度も言いますが、巨大資本によって、人間にとっての意味(人間とモノとの関係)が全て数値化された上でマーケティングされるのです。みなさんはあまり意識してないかもしれませんが、巨大資本は、すべてのモノを、数値や数値の組み合わせ(コード)、数値の関係(座標、関数)として認識していますし、しようとしています。それは、人間がこの世界を認識している基本的な認知手法を逆手に取られているだけなのです。つまり、わたくしたちに、実存主義や構造主義の理解が無ければ、巨大資本のやり口を理解することができないのです。。なので、巨大資本のやり口から身を守るためには、まず、実存や構造という概念を理解し、そもそも私たちが世界を数値として、記号として、言語として、意識として理解しているんだという基本構造を知る必要があります。
それから、私たちには、実は認知バイアスがあり、数学的合理性とは違った行動原理をもっていることを知る必要があります。わたくしたちの認知バイアスが悪用され、モノを買わされるということがどういうことか理解する必要があります。無理やり買わされるということなのです。押し売りされているんです。認知バイアスマーケティングは、消費者に押し売りされている被害者であることに気付かせずにモノを売る手法なのです。つまり、完全家畜社会の到来というわけです。
ちなみにマーケティングを職業としている人は私の記事を読まないでください。私は、そういうことをしている人間を、人間のクズだと思っているのです。なぜなら、このようなマーケティング手法の先にあるのは自滅だからです。とにかく、認知バイアスを利用してモノを押し売りしてるような連中は人間のクズです。
(この項目の以下の部分は、10.28に追加)
問題なのは、巨大資本が利用する行動経済学が、人間の経済活動のみに焦点をあてて数学的に認知バイアスを算出していることです。人間と消費行動との関係だけを抜き出して算出しているのです。人間の認知バイアスは正確には欠点ではありません。わたくしは、人間の現象認識構造は、基本的に生存のために外環境との調和を図ろうとした結果の産物である考えています。したがって、全体の調和を図ろうとして出来た現象認識機構(認知機構)と近現代の経済活動だけに着目したときとの認識機構に差が生じてしまうのはあたりまえの話です。
とても簡単に説明すると、アマゾンの原住民がその日たべる魚しか捕らないのを、経済的に損している、認知バイアスがある、と考えるのが行動経済学です。この視点があきらかに近現代的な経済的側面だけを取り出していることが理解できるでしょう。認知バイアスというのは、近現代的な経済面に着目したときだけに把握される差異で、それを悪用するのは非常に近視眼的な手法です。構造主義的な観点から言えば、調和をとる視点がある人ほど科学的にカモられる仕組みなのです。
巨大資本は、この差異に着目し、わたくしたちは、完全に家畜化されようとしているのです。結局、近現代において、仮想現実が急速に深くなっているのです。
数値化(シミュレーション)の先にあるハイパー整形美人社会
この項目の表題は、一番最初にこの記事を書き始めたときのタイトルです。私は男性なので、モノが既製品になるのはともかく、女性が全て既製品(レディ・メイド)になるのが一番恐ろしくて、このタイトルにしてました。でも、タイトルとしてはちょっと分かりにくいかなと思って結局今のタイトルに落ち着つきました。とにかく、「シミュラークルとシミュレーション」の先にある未来は全てが均一化、均質化する社会です。嫌じゃないですか?仕方ないと思って諦めますか?この話は陰謀論じゃなくてマジの話です。
先の項目の続きですが、「記号化」(数値化)され、「差異化」される社会の先にあるのは差異化されたくないと願う人々の自発的均一化です。差異を数値に置き換えられる社会は、プライバシーのない社会でもあります。ブサイクと美人の差異がハッキリと数値化されてしまう世界です。だから、皆が美人になろうとするわけです。イケメンの遺伝子を欲しがる女性が増え、子供がみんな美人になると思いますか?そうはなりません。差異が商品化される世界では皆がハイパー美人を目指すことになります。つまりハイパー整形美人だけの社会が誕生します。そのうち、もう美人さんのクローン解禁、という話になっていくかもしれませんね。でも、美人さんのクローン契約は高いので、やっぱ私は整形でいいや、などという話がいろんなところでされる時代になるでしょう。そしてその先にあるのは、ゲノム編集によるゲノム編集ハイパー美人の誕生でしょう。最後にはみんな同じ顔になります。
当面、「シミュラークルとシミュレーション」の先にある社会はハイパー整形美人社会です。これはおそらく間違いないでしょう。ようするに、「シミュラークルとシミュレーション」は、必然的に自己膨張してゆき、全てを均一化、均質化して、わたくしたちを巨大資本の「完全家畜」とするのです。セルフ完全家畜化です。
鶏舎のニワトリや豚舎の豚は、すべからく同じ規格、同じ品質である必要があるわけですが、シミュレーション社会では、それを、ニワトリや豚みずからが望むようになるのです。実際のニワトリや豚はみずからそれを望みませんが、人間の脳は進化(劣化)して意識(現象を数値・記号・言語として認識する機能)を獲得してまったので、他者との差異が生まれることを否応なく意識してしまい、みずから均一化された家畜になりたいと望むようになってしまうのです。「シミュラークルとシミュレーション」を理解せずに、抗わず放置した先にあるのは、そういう社会です。
私はそんなニワトリや豚にはならない、なんて思わないでください。そんな風になってしまった側からの圧力はものすごいです。わたくしは、ワクチン打たないだけでも、圧力が物凄かったのですから。常に、巨大資本がわれわれをどうしたいのか、どうしようとしているのか、という視点で考えましょう。巨大資本は、巧みに、そしてしつこく、わたくしたちに圧力をかけてきます。
マトリックスは本当によく描けています。わたくしも、ワクチン打たないだけで、このようなエージェントにめちゃくちゃ圧力をかけられました。この作品は、映画の域を超えてもはや予言です。そのうち、女性もみんなこんな感じに均一化します。女性から見れば、男性がみんなこんな感じになります。嫌じゃないですか?
ハイパー現実の脱構築
映画・マトリックスでは、最後にネオは救世主としてAIを倒しますが、その救世主の部分をお釈迦様に言い換えて説明してみます。
ネオは最終的にハイパー現実世界(シミュレーション)を数値・記号(シミュラークル)として理解し(悟りの境地に至り)、AIに打ち勝ちます。AIは世界を数値・記号として理解しているわけですから、そのAIに勝つためにはネオも世界を数値・記号として理解し、コード(プログラム)となってAIに勝つしかなかったのです。ネオは最終的にハイパー現実世界を数値として認識し、その本質的な意味の無さを悟り(色即是空に至り=因果律の意味の無さを理解し)、脱構築を成し遂げたのです。仏教で言えば涅槃(解脱)の境地に至ったわけですね。救世主になったということは、お釈迦様のように悟りに至ったということです。この記事の流れでいえば、ネオは「シミュラークルとシミュレーション」を理解するに至ったのです。理解が脱構築に繋がったという話になっています。※脱構築はポスト構造主義の言葉ですが、脱却するとか、組み替える、くらいの意味で柔軟に使っています。
この辺りもすごく面白いです。とにもかくにも、まずはこの世界の構造を理解することが重要だということです。世界を認識する人間の認知機能には限界があって(認知バイアスがあって)、それを巧みに利用されて、わたくしたちは家畜にされ、檻の中に閉じ込められていますが、まずは、そのことをしっかり理解する必要があります。理解が脱構築(巨大資本支配からの脱却)に繋がります。
この救世主という概念、わたくしは好きです。ただ、監督さんは宗教的な要素をちょっと盛り込みすぎたように感じます。それで、救世主に宗教色が付きすぎてしまっています。日本人は全く気にならないのですが、そのせいで、世界中で受け入れられるものではなくなっていると思います。上で言い換えたように、お釈迦様をモデルにしたら完璧だったと思います。
なぜなら、実は、冒頭から説明している実存主義哲学のエッセンスはもともと仏教のものだからです。実存哲学は、仏教思想の色即是空とか解脱とか、わたくしたちでもちょっとは聞いたことがあるようなエッセンスを仏教から輸入したのです。仏教にとりわけ関心のあったショーペンハウアーという人がニーチェの御師匠様で、彼の影響を受けたニーチェ、それから、バタイユという哲学者の思想が、このボードリャールを含むポスト構造主義という脱構築の思想(解脱の思想)に影響を与えています。影響を与えたと言いますか、おもいっきり引きついてでいるのです。もろに同じ系譜なのです。ニーチェは特にキリスト教に嫌悪を抱いていたようで、ルサンチマンと言う概念でコテンパンに批判しています。
要するに、実は、ニーチェやバタイユの頭の根底にある思想は東洋思想なのです。つまり、東洋思想によって西洋思想とくにキリスト教批判をしたのです。その延長にボードリャールがいるのです。この項目の表題につかった「脱構築」という言葉は、同じくポスト構造主義のデリダという哲学者が使った言葉ですが、これは仏教の「解脱」や「涅槃」という意味と同じです。脱構築という言葉は、ハイパー現実の構造を理解して脱却する、組み替える、巨大資本を倒す、くらいの意味で考えれば良いと思います。言葉の意味よりも、仏教の涅槃や解脱と同じと理解する方が重要だと思います。
繰り返しになりますが、20世紀以降の西欧の哲学は、東洋思想や未開の地域から多くのエッセンスを取り入れながら、西欧の価値観(西欧中心主義)を批判してきたのです。こういうことを皆さん全く知らないのです、実存主義→構造主義→ポスト構造主義という思想の流れがあることを冒頭に説明しましたが、この流れは、西洋哲学が、東洋思想を取り入れて、全力で西洋の価値観(宗教)=西欧中心主義を批判してきた流れなのです。実存主義は仏教の概念を取り入れ、構造主義は未開の地の社会観念を取り入れて(言語学や人類学を用いて)、西欧合理主義や西洋中心主義を批判してきて、その流れを、ポスト構造主義が引きついでいるのです。あまり難しく考えずに、そういう一番重要なことを知るべきだと思います。
いまの世の中では、本当にシンプルで重要なことは説明されません。
ボードリャールは、結局のところ、実存哲学(東洋思想)をつかって、プロテスタンティズム(キリスト教)が生み出した資本主義による暴走社会を思いっきり批判しているのです。このとても大きな思想の流れを理解しましょう。ポスト構造主義の思想家は、東洋思想によって西欧の価値観(西欧中心主義、西欧合理主義)を批判しているので、マトリックスの救世主の設定については、ちょっと理解できない部分があるのではないかと思います。ボードリャールからみたら、ちょっと意味不明な作品だと思っている可能性はあります。ただ、わたくしは、何度も言いますが、その矛盾についてはまるで気にならず、実存主義哲学やハイパー現実のエッセンスをすごく上手く映像たポスト構造主義が生んだミラクルだと思っています。
以上が、マトリックスの中での脱構築の話。
では、現実世界において、ボードリャールはどのように脱構築を目指したのでしょうか。
彼の場合は、最終的には、社会で生まれる脱構築の芽を上手く育てることに徹した、という理解をしています。「シミュラークルとシミュレーション」の概念は、普通に消費活動を注視していれば、多くの人はなんとなく気が付きます。俺たちは社会の歯車だ!とか言ってる過労死寸前のサラリーマンは日本にもわんさかいます。彼らの主張と似ています。そういう一般社会の愚痴をうまく拾い上げて抽象的な概念として、言葉として、世の中に提示し、尚且つ、すでにあるシュミレーショニズムなど脱構築を目指す芸術運動を促進した、という理解です。
大衆もバカばかりではないので、思想家や学者が、いろんなところに首を突っ込んで言葉として後押しするということは重要です。日本で言えば、吉本隆明とか村上龍などでしょうか。最近はテレビも見ないし世の中の事をあまり知らないので、どんな人が注目されているのか知りません。時々テレビを見ると、弁護士や政治学者が世相を語っていてうんざりします。私自身はテレビを持っていません。10年先とか20年先とか50年先とか、そいう先の事を見据えて物事を語れない人ばかり連れてきてしゃべらせて、本当に日本のメディアは衆愚化・洗脳の装置でしかないと思います。恐ろしいほど巧妙に私たちは家畜として飼いならされているのに、周りを見渡しても、みなワクチンを打ってしまっていて、一回も打ってないと言うと奇異な目で見られるのです。最初からそんな感じなので、色々忠告しようとすると、切れられるか、呆れられてしまうのです。全部、メディアのせいです。ボードリャールもそう思ってたみたいですけどね。メディアの裏には常に巨大資本が控えていて、行動経済学に基づいた認知バイアスマーケティングを巧みに使ってわたくしたちを家畜にしようとしているのです。
いつも言ってるのですが、作品をエンタメとして消化せずに、素直に作品のエッセンスに影響されたらいいと思います。仮面ライダーのベルトを付けて群衆の前で恥ずかしげもなく思いっきり変身できてしまう子供のような無邪気さで、マトリックスを見て、「シミュラークルとシミュレーション」を理解してほしいです。映画「マトリックス」ではネオがハイパー現実世界を理解することがイコール脱構築(解脱)に繋がるように描かれてますが、その通りだと思います。この「シミュラークルとシミュレーション」が理解できれば、巨大資本のやり口がわかるわけです。必然的に巨大資本に抗うことに繋がると思います。なので、まずは理解しましょう。
冒頭でも触れましたが、現在、チョムスキーの思想を応用して、わたくしたちの意識支配が進んでいます。急ぐ必要があります。わたくしのこの記事を共有してください。我々には本当に時間がありません。
私的脱構築論 思想家とクリエーターがコラボする重要性
この項目は、わたくしの私的脱構築論です。
チョムスキーの概念を上手く表現したのは伊藤計劃「虐殺器官」でしたが、ボードリャールの概念や実存哲学のそもそも論を上手く表現したのが「マトリックス」です。その他、吉本隆明の概念を上手く表現したのが村上龍「愛と幻想のファシズム」。科学主義の問題をテーマにしながら実存に気づかせてくれる映画と言えば、宮崎駿「風の谷のナウシカ」、庵野秀明「新世紀エヴァンゲリオン」。近未来科学と実存がデーマだったのが「攻殻機動隊」、アニメ「サイコパス」。と、過去記事で、現代思想との関連で、色々とわたくしが興味を持った作品を取り上げさせていただきました。
先の記事でも書きましたが、ポスト構造主義のポイントは、敵(社会構造)を明確に捉えたことに在ります。社会構造というのは、ハッキリいえば巨大資本の作り上げた社会システムです。敵を倒せないので、ポストなわけですが、敵は捕捉できました。あとは方法論の問題です。追い詰められていることに慌てた巨大資本は、焦りまくって、量子脳理論や行動経済学の理論を社会に実装しようとしていて、わたしたちの完全家畜化を急いでいます。(量子脳理論や行動経済学の理論はともに人間の意識支配の方法論に繋がっています。)そういう流れで、現実社会を見れば、なんで最近いきなり世の中がおかしくなってんだ?ということが理解できると思います。彼らも焦っているのです。
(先の記事はこれです↓)
残念ながら、巨大資本のやり口は巧妙で、わたくしたちの完全家畜化は近づいているわけですが、彼らを倒せる可能性がある限り、諦めるわけにはいきません。したがって、わたくしのようなザコ平民がこのようなところでワーワー自分の独自理論を展開しているわけです。なぜなら、わたくしのようなザコ平民こそがワーワー文句を言う事が重要だと思っているからです。どういうことかというと、論理や思想をもった上流市民は、ターゲットにされて、みな貨幣錯覚によって巨大資本に取り込まれ、走狗にされてしまうからです。したがって、オルテガや西部邁、芥川龍之介が目指したように、顔を持たない庶民こそがシステムの構造を理解し、巨大資本のやり口を知ることが、最終的な脱構築に繋がります。
だから、庶民にも判りやすい形で、社会構造を問い直すエッセンスを表現したクリエーターの作品は本当に意味があるし、素晴らしいと思います。思想家と同等に、理解があり上手く表現できるクリエーターは素晴らしいと思います。芥川の短編が今でも読まれ続けるのは、社会の構造をシンプルなかたちで表現しているからですよね。なんでもそうですが、シンプルな形で伝えるということは非常に難しいのです。多くの時間を費やして勉強してきた俗物的な思想家は、問題のエッセンスをわかりやすく他者に伝えることを非常にいやがります。したがって、なおさら、クリエーターの社会的役割は重要です。
そういうこともあって、昨今は、特に漫画やアニメの制作現場では、意図的に、分業として、コラボレーションが企画されることが多いようです。こういう試みは素晴らしいと思います。結局のところ、社会構造は、必然的に、自発的対称性の破れといいますか、自発的脱構築の流にあるのかもしれません。過去記事でも語りましたが、資本主義・科学主義は結局のところ自滅のシステムでもあります。みなを巻き込まずに、巨大資本だけ自滅してくれれば一番いいと思いますが、きっと自発的にはそうならないので、わたくしたちには、意図して、彼らだけを自滅させるテクニックが必要だと思います。
従いまして、理解のあるクリエーターを育てること。
これが、この記事における私の私的脱構築論です。
以上です。
あとがき
この記事は疲れました。
noteがなんか途中でおかしくなりました。新エディタの変更のせい?なんかよくわかりません。二窓でやってたら、自分がアクティブだと思ってない方の窓がうっかり保存されてしまったりして、書いてた記事が殆ど上書きで消えてしまったりして、絶望に打ちひしがれながらもまた書き直していたら、新機能で保存履歴があると分かって、そこからリカバリーしたけど、もう新しく半分くらい書き直していて、今度はそのリカバリーした記事と新しく書いてた方の記事を比べて、、、、とか色んなことやってたら本当に疲れました。
この記事は、ボードリャールの影響で映画「マトリックス」が生まれたことをテーマにしましたが、その他にも、ボードリャールの思想はシミュレーショニズムという芸術運動を後押ししました。過去を振り返れば、デュシャンのダダや、アンドレ・ブルトンのシュルレアリスムなど、思想が多くの芸術活動を後押ししてきました。モネの「日の出」のような単純な絵画が大きく時代を動かしたこともありました。あまり知られてないですが、モネは当時の画壇に喧嘩を売りまくった画家です。デュシャンもブルトンもです。思想をクリエーターが形にするという作業は過去においても非常に重要だったことは歴史が証明していると思います。ダダやシュルレアリスムのことは、バタイユの記事で書けばよかったなと、いまさらながら思います。これらの芸術運動は、エロスの概念との関係でも重要な運動でした。興味がある方は澁澤龍彦の美術評論を読んでください。文庫で沢山出版されています。
ちなみに、わたくしは現代美術は意味を込め過ぎているのと、抽象的過ぎて一見意味が分からないものが多くあまり好きではありません。わたくしが好きな画家は、シュルレアリスムのバルテュス。それから、フォービスムのマティスです。マティスは原始的な暮らしをテーマした作品を残しています。欧州で、20世紀になり、思想的に、西欧中心主義からの脱却が図られ、未開の地にスポットライトが当てられたことが背景です。クリエーターのほとんどは、その時代の思想を作品に盛り込んでいます。だからこそ、有名になったのもあるのでしょう。
問題は、そのような美術作品すらも、巨大資本が、金額を付けて記号化し、差異化して、取り込んでしまう事です。要するに、陳腐化してしまうのです。こういうのを、戦略的陳腐化と言います。時代を変えるような可能性のある作品を選択的にターゲットにして陳腐化してしまうのですね。日本人がゴッホの絵に何十億と値段を付けてしまうと、もう、作品の意味以上にしらけてしまうわけです。わたくしは、こういうことは戦略的に行われていると思っています。
脱構築の運動(思想家とクリエーターのコラボ)は、作品を世に提示して、その作品が話題を集めるほど、ターゲットにされ、陳腐化され、吸収され、消化され、同化されます。歴史を振り返ってもこれの繰り返しです。しかし、わたくしたちは、この攻撃を止めるべきではないと思います。
彼らの弾薬が尽きるまで、わたくしたちは、意味のある作品を世に提出し続けるべきです。
当初は、今「あとがき」に書いてきた内容を含め、記事の中に、かなり長くだらだらと書いていたのですが、さすがにまとまりがないし、美術評論になってしまっていると判断して、この「あとがき」に少しだけ書かせていただきました。
それから、これも記事には書きませんでしたが、ボードリャールの具体的な脱構築論は、この記事で取り上げた著書とは別のところで、「象徴交換」とうい概念(贈与論)で展開されています。その辺りのことも書こうと思ってかなり筆を進めていましたが、マトリックスからそれるし、現代において脱構築のための経済理論として贈与論を説くというのはちょっとピンと来なくて、この記事としては、書くのを途中で止めました。またなにかの関連で、機会があれば、記事の中に盛り込みます。
ただ、そもそも、わたくしは贈与論をよく知りません。原始的な社会における相互扶助的な贈与と返礼のシステムだとか、エッセンスは分かりますが、こういう相互扶助的な制度は、ロバート・パットナムや宇沢弘文のソーシャルキャピタル(社会的共通資本)の概念とは違うのでしょうか?
贈与論の話は、社会制度としてのソーシャルキャピタルという概念に近いような気がします。例えば、健康保険制度や、年金制度です。原始的な経済的利益を無視した相互扶助的な制度は「保険」というかたちで現代にもあるような気がします。ただ、本質にある利己的な発想という点においては、原始的な概念とは根本的に異なるのでしょう。
贈与論をよく知らないので、ボードリャールの言いたいことには深い意味があるのかもしれません。きっとそうでしょう。
学問の世界は広すぎます。
ハンターとして猪の皮をかぶって草原を疾走していたころに戻りたいです。
2022.10.24