見出し画像

バタイユの秘密結社はなぜアセファル(無頭人)なのか


まえがき

バタイユのことを記事にしました。評論ではありません。学生の頃に「エロティシズム」やら色々読みました。でも、実は何が書かれていたのか、今思い出そうとしてもほとんど思い出せません。なので、私はなぜこんな記事を書いてしまったのか、自分でもよくわかりません。謎です。お酒って怖い。バタイユを知らないでこの記事を読む方は、かなり適当なことが書かれている可能性があることをご承知おきください。それと、泥酔しながら書いたので誤字脱字や日本語がおかしなところが多々あります。これについてはそのうち直すつもりです。

エロスについて

「アセファル」(無頭人)というのはエロスの哲学者であるバタイユが作った秘密結社の名称です。なぜ無頭人なのでしょう。
これは皆さん既にご承知のとおり、エロスの根源がポコチンだからです。ポコチンは生と死を司る魔法のスティックです。自由意志により大きくなったり小さくなったり、自在に変化します。世の中、重要な部分はだいたい変化するよう作られているものです。私たちの司令塔は脳ではなく、ポコチンなのです。女性の場合はクリトリスです。体に訊いてみればわかりますよね。したがってこれは周知なわけですが、このことについて理屈っぽく真面目に研究してきた哲学者が何人もいて、特にバタイユの思想は、現代思想にも通じています。

これも皆さん周知だろうと思いますが、そもそも世界というものはポコチンが表象させた単なる人間の方法なわけですから、科学が解明しようとしているものは結局のところ、ポコチン。科学というものは、結局意味のない堂々巡りをしているだけです。ようするに、科学者はポコチンの研究者に過ぎません。

皆さん、本当はポコチンの指令に従って行動したいのに、現実は仕事から命じられるままに生きています。これは頭で自身を縛ってるわけですが、そもそもそうせざるを得ないこの社会とは一体何なのでしょう。頭があることで、脳が誕生し意識が芽生えたことで、逆に人間って損しかしてないんじゃないか、そう考えてみたことはありますか?

社会契約論的な解釈で、社会のために自ら鉄鎖に繋がれ、自由の一部を生贄に差し出すのは止む無しと、もしあなたがそう思ってるとしたら、あなたはきっと真面目過ぎるし、お人好し過ぎます。その真面目過ぎる部分に、システムの為政者は言葉巧みに幻想を流し込んできます。脳の錯覚を利用して。これは、たとえば行動経済学を悪用した認知バイアスマーケティングなんかがそうです。

本来頭なんて必要ありません。脳は生存競争に負けた弱者やブサイクの抑圧されたエロスによって生み出され、進化してきました。ニーチェはこの抑圧されたエロスのことをルサンチマンと言いましたよね。抑圧されたエロスによって脳は誕生し、進化し、近代的な科学文明や社会システムがもたらされたわけですが、果たしてこの進化、実は劣化ではないの?というテーマで過去に記事にしています。


お釈迦様はエロテロリスト

ニーチェと同じことを言ったのがお釈迦様です。ニーチェの師匠だったショーペンハウアーは、仏教思想を西洋哲学に取り入れた人物で、そもそも実存哲学は仏教のパクリです。人間の脳みそは因果論(言語)で物事を捉えるように進化(退化)してしまったので、世界の構造を誤認してしまうと言ったのです。色(因果)で捉えてしまうけど、実在の世界は空なんですよ、と。それで、脳みそが大きいことが生物の優位性を示すものではないので、殺生は止めましょうと言ったわけです。仏教の思想が西洋の実存哲学に影響を与えたという意味で、お釈迦様は完全にエロテロリストです。そのせいで「神は死んでしまった」のですから。この流れを引き継ぎ、西欧の現代思想においても、煩悩や涅槃(解脱)といったエロスの哲学が重要なエッセンスになっているわけですが、そう考えると、本当に西欧思想はくだらないです。西欧は、まわりまわって、結局、数千年前の東洋の思想に行き着いたわけですから。ポスト構造主義の「脱構築」っていう概念は、仏教の解脱や涅槃という概念と同じです。

これもみなさん周知のとおり、一般的にエロテロリストといえばインリン・オブ・ジョイトイですが、彼女とお釈迦様を比べると、バタイユが何を企てたのかがよく理解できると思います。社会の中で抑圧され変態化したエロスを取り上げることで、エロというものが観念として自覚されます。そして変態を突きぬけた先で、純粋なエロスが自覚され、全てが脱構築されるのです。

画像3
インリン・オブ・ジョイトイ
画像2

「【骨まで愛して】インリン・オブ・ジョイトイ(43)、7年ぶりにM字開脚を披露!」、ということで、結局、変態性愛を究極化すると脱構築へと向かうようです。

話しを戻します。別にお釈迦様に言われなくても、大自然の中であまり難しい事を考えずに暮らすことがなんだか本来の生き方のような気がしませんか?アマゾンの原住民はその日食べる量の魚しか捕らないようですが、毎日バカみたいに働くのではなく、そんな生活が本来の生き方のような気がしませんか?そんな気がする人は、ポコチン力がまだ少し残っています。完全にコンクリートジャングルのエコノミックアニマルてしまった人は、そういう気が全く起こらないようです。


バタイユと脱構築

バタイユはニーチェの思想を引き継ぎ、人間の本質である「抑圧されたエロス」の概念を思いっきり自身の作品のなかで展開してしまった哲学者で、もともとは実存主義哲学の亜流のように考えられていた人物です。今日においてバタイユの思想は、現代思想を読み解く上で大変に重要な思想なわけですが、これについてはあまり公に言及されません。私が常日ごろから口笛を吹くようにエロスだとかポコチンだとか連呼しているのを、ほとんどの人はくだらない事を言って馬鹿じゃね?と思うでしょう。そうなんです。日本にはコンクリートジャングルのエコノミックアニマルしかいないので、エロスがどうとかこうとか言われても、皆エッチなことしか思い浮かばないのです。このようなエッチなエロは、養殖されたエロス、ゲノム編集されたエロス、農薬漬けのエロス、食品添加物漬けのエロスに過ぎません。人工的に組み替えられた社会的なエロスでしかないのです。バタイユはそんな社会システムの本質を洞察し、彼なりの方法で巧に脱構築をめざしました。

バタイユのエロスの思想は現代思想の根幹を成し、システムの為政者にとても恐れられている思想です。巨大資本に弓引く思想でもありますし、本質論過ぎて、社会システムそのものを無効化してしまうほどのパワーを持っています。ある意味で、とても強力な反抗のツールなので、現代社会においては取扱厳重注意です。そんな中にあって、最近、バタイユもほんの少し人気が出てきてしまったようで、先日、マダム・エドワルダなんていうのを朗読している人と話す機会を得たのですが、私は彼らの言ってることがまるで頓珍漢に感じてしまいました。世の中のムーブメントに乗ろうとしているだけで、エンタメ化された上澄みしか知ることを許されてない人々のように感じたのです。恐ろしいことに、またもやシステムの支配者は、思想の本質部分を相対化し骨抜きにして、エンタメに組み替えた後、単なるムーブメントとして我々に消費させようとしているのです。


バタイユは社会的なエロスをテーマにしました。エロスとはすなわち、「禁止に対する侵犯」。ようするに、チラリズムみたいなもので、隠されているから欲情する、というような話です。
でも、バタイユは本心からエロスが社会的なものだとかエロスは禁止を犯すことで掻き立てられるとか、そういうことを言いたかったわけではありません。そのようなテーマを扱うことで、結局のところ、もともと人間の司令塔は純粋なエロス=ポコチンだけど、社会構造の中でポコチンが抑圧され、むしろ抑圧されたエロスが社会という構造の骨組みになっていると言ったのです。つまり、ブサイクゆえに日ごろポコチンを使えなくてエロスが抑圧されてしまっている人々が、社会を構築していると言っているのです。社会構造が抑圧されたエロスそのものだというわけです。

村上龍は「限りなく透明に近いブルー」において、だらだらと怠惰な日常を住まう若者を描きましたが、それが若者の本性だと言っているわけではなく、若者をそうさせている社会の構造があるということを言いたかったわけです。バタイユが変態ばかりを作品に描いたのは、自分が変態だと言いたいわけでも、描かれた変態が正しいと言いたいわけでもなく、変態にさせている社会の構造があると言いたかったわけです。つまり、抑圧されたエロスをテーマにすることで、この社会の構造を浮かび上がらせ、同時に、社会の本質的な意味のなさを浮かび上がらせたのです。そしてさらに、人間存在の本質としてのエロスが構造の中でうごめき、構造を脱しようとする様を描き出したのです。そして彼のこのような観点が、後のポスト構造主義という思想に繋がってゆくわけです。(と私が勝手に思っています。)


ポスト構造主義

フッサールにより体系化された実存哲学は、その後二つの大きな潮流に引き継がれることになります。サルトルを批判的に超えようとした構造主義。それから、ニーチェやバタイユを引き継いだポスト構造主義。実存哲学はこの世界を個人のフィクションだと考えましたが、構造主義はこの世界を社会が個人に見せるフィクションだと考えました。構造主義で社会を理解し、ポスト構造主義で社会を脱構築する、といったような理解でよいのではないかと思います。ポスト構造主義の思想家は、構造を脱するためのカギがエロス(あるいはルサンチマン)にあると気づいた人たちで、お釈迦様の領域にようやく西欧思想が追いついたというわけです。

ただ、哲学にとって宿命的に不運なのは、システムが常に哲学的観点を悪用しようとする自動機械であるという点で、今日において、数学や物理、はたまた経済学や経営学などは、我々をなお一層衆愚化し家畜化することに賢明です。バタイユを武器としたポスト構造主義は、一旦はシステムから抜け出す方法(脱構築)を提示したものの、今日においては我々は、行動経済学が張り巡らす相対化の罠に絡めとられ、飛び越えようとする意志すら簡単に奪われてしまうほど壮麗かつ堅固な家畜の檻の中で、純粋無垢な記号として飼われています。


念のため、私が使ってるポコチンという意味を誤解しないでください。私はポコチンという言葉でセックス大好き変態おじさんのことを言っているのではないです。煩悩まるだし変態オヤジのポコチンは、悪臭を放つ「抑圧されたエロス」です。「エロス」というのは、仏教でいえば、煩悩ではなく涅槃とか解脱とか、そっちの意味です。エロスを煩悩という意味だと絶対に勘違いしないようご注意願います。この誤解は現代において巧みに悪用され、日本人がみな売春婦にされてしまう元凶となっています。

さて私は、いつもしつこく同じこと言っていますが、この社会の正体は金融システムや情報システムを基盤とした貨幣錯覚(共同幻想)です。これについてはボードリヤールの記号論的洞察を待たずとも、普通に考えれば、私たちはこの悪夢の中でしか通用しない科学や数学という記号の連関を艶麗繊巧な神器に携えガラクタを価値あるものとして消費し続ける無味乾燥な記号そのものであります。特に昨今は、行動経済学や量子脳理論といったような忌むべき空論によって仮想現実の霧は濃くなるばかり。合理主義的欺瞞により人間の認識構造の欠陥とされるものまでが悪用され、飛び越えるべき家畜の檻は空高く終わりが見えません。

科学が物理学で言うところの二重スリットの問題にぶち当たって後、絶対と思い込まされていた共同幻想にほころびが生じたにもかかわらず、今日なお私たちはこの悪夢から抜け出すことが出来ません。ボーアがコペンハーゲン大学の引き出しから引っ張り出してきた解釈は、本来私たちを説得することが出来たはずですが、なんとゲーデルによる説得を待つまで、アインシュタインですら実存についてまるで理解できていなかった。なぜ?相対性理論は誰かのパクリだったの?そしてついに私たちは、ボーアに説得されるのにアラン・アスペまで待たなければならなかった。

多くの人は構造主義やポスト構造主義など哲学的観点を忌避し、実存主義すら知りません。アインシュタインですらそうだったんですから。こういう思想は、そもそも私たちが養豚場の豚舎で飼われているということを示唆する思想なわけで、科学者はこれについて意図的に無教養なわけです。それでボーアがキルケゴールからパクったコペンハーゲン解釈を持ち出してきたとき、多くの科学者はこれを必然として理解できずに、ペテンだ!詭弁だ!と喚いた。驚くことに今でもほとんどの科学者が右に同じ手合で、これはもう多くの科学者が完全に豚にされていて矯正不可能な脳みそになっているということを意味します。ようするに、ほとんどの科学者は結局のところ論理にすら説得されない暗記バカだということです。だから自分がポコチンの研究者に過ぎないということが自覚できないのです。

ポスト構造主義の怠慢

二重スリットの問題は、ポスト構造主義が運よく明確に敵を捉えたことを意味します。巨大資本は、盲目の家畜である科学者を使って、彼ら以外の家畜を管理する方法を発掘してきましたが、科学者自身が、自分たちが家畜だったことに気が付き始めたのです。それで慌てた巨大資本は、量子脳理論やら生成AIやら、意識を支配する方法を全力で開発し、私たちを、絶対に逃げることができないよう幻想のもっとも深い場所に閉じ込めようとしています。

ポスト構造主義は明確に敵を捉えたわけですが、この手の思想は非常にとっつきにくい。いきなり噛みついてもほとんど意味不明です。実存主義や、それ以前の思想から流れで学ばないと論点を明確にできない。流行に乗って、バタイユだけ勉強しても、ニーチェだけ勉強しても意味が分からない。分かりにくいようになっているんです。容易に理解されてしまうとシステム側が困るからです。わかりやすく本当のことを言ってしまうと、論壇にいられなくなってしまうので、皆非常に回りくどい言い回しになる。日本の歴史学者のように権力におもねって本当のことが言えないのです。アマテラスが実は実在した朝鮮人の王だったなどと口が裂けても言えないのと同じです。

だからバタイユが現代思想においてどういう意味を持つかなんて誰も知らないのです。本に書いてあることが難しすぎる。それで一般の人々に思想のエッセンスが伝わらず、結局、科学者も、哲学者も含めて、全体として資本の家畜にされていっている状況なわけです。オルテガを引き継いだ西部邁がやっていたような大衆向けの科学批判を他の思想家がほとんどやらないので、村上龍や宮崎駿、それから庵野秀明がやってきたわけです。メディアへの露出を厭わず今でもあちこち噛みついて真面目に体制批判をやってる思想家ってチョムスキーくらいでは。

現代の思想家の多くが俗物的で、哲学を自分たちだけが分かっていればいい高尚な学の分野にしてしまっていると思います。敵は貨幣錯覚を操作する金融システムであり科学主義なのに、相変わらず変態小説を書いていたり、エロスをロジックとしていじくりまわす哲学者ばかりなのです。科学者と同じで自分の好奇心だけで哲学やってるだけ。こういうのは極めて本末転倒で、ポスト構造主義という武器を持っていながら、単に高尚なことを知っているという自己満足に浸り、社会に関与することをしないのです。だからポスト構造主義。構造主義を超えられなかったという意味でポスト。論理としては超えているわけで、今は哲学という論理が自らの論理によって実践を要求されているのに、それを皆やらない。これは思想家に根暗が多いからでしょう。結局、哲学者も科学者に習い「抑圧されたエロス」に従順なだけ。単に高尚なエサに群がる豚にすぎないことを意味しています。

私たちの原動力はポコチンです。私たちに世界というフィクションを見せるのはポコチン。エロスが資本の社会構造の中に閉じ込められ、抑圧され、変態化しています。抑圧されたエロスはさらに構造を強化するために再利用され、それの繰り返し。エロスが宿命的連鎖によって閉じ込められるのは、そもそも脳の獲得と進化によってエロスが意識化してしまったからです。巨大資本はそれを知ったうえで、私たちの意識を縛ることになんなく成功し、私たちのエロスは今なお囚われの身のまま。でもだからこそ、逆に、そういう資本の檻から脱却(脱構築)するために、私たちはエロスを起点にして、共同幻想のツールをを打ち破ってゆく必要があるわけです。システム側が共同幻想を支配する手法はもうハッキリしているのですから、そうさせないようにするしかない。

アセファルのマニフェストには、「政治の顔をしていたもの、そしてみずからが政治的であると想像していたものは、いつの日にか仮面を脱いで宗教的運動であることを露呈するだろう」(キルケゴール)とあります。

宗教的というのはカルトっていう意味です。論理的に見えることも、実際突き詰めて考えるとカルトが多いのです。この政治という言葉には、科学も、貨幣経済も、金融システムも、情報システムも、全て含まれます。計画性(システム)そのものを批判しているのです。科学や数学さえもカルト、そんなことすら知らない人が山ほどいるのが今日。このマニフェストは、農耕牧畜から始まったこの社会の本質的な幻想性あるいは虚構性を批判しているのだと思います。翻って、やはりバタイユはエロスの純粋なかたちを理想としていたことが伺えます。

さて、ここまで自分の書いた文章を読み返してみましたが、かなり頭のおかしい逝っちゃってる人の文章まるだしです。でも気にしません。バタイユも逝っちゃってるので。でも、そんなバタイユの思想が現代思想の中核を成しています。ですので、ここまで読まれた方には、なんとなく、そんなヤバい人がいて、実は、そのかなりヤバそうな人の言ってることが、既成概念を打ち破る(脱構築)ための武器になるということを知ってほしいと思います。なぜなら哲学者や思想家はもはや当てにならないから。私たちが運悪く着地してしまった滅びの軌道を修正することは難しいかもしれません。でも、仮にそうであったとして、少なくとも我々の良心に課せられた使命は、なおこれに深く直面し、抗うことではないでしょうか。

ということで、次の項では、この論点を多少面白おかしくかみ砕いて、私たち一人一人に何が出来るか、ということを考えてゆきたいと思います。もちろん、家畜として幸せな夢を見続けるのも十分に妥当な選択です。


私的脱構築論① エロスはエロではない

さて、ここからアクロバティックにエロスの哲学を我々の日常に応用したいと思います。私的脱構築論として語ってゆきますが、一番重要なことは、エロスをエロ(抑圧されたエロス)だと勘違いしないことです。

われわれの日常には、やたらと制度的に複雑でややこしいことが溢れています。例えば、何でもいいですが、税金の仕組みですとか、年金の仕組みですとか、ありとあらゆることが複雑怪奇なわけです。こうなっているのは、分業という概念が生まれて後、仕事が異常に細分化され、やたらと複雑になっているからですが、現状、この深化を宿命的に止めることが出来す、私たちは自ら社会システムという檻をより堅固なものにしています。でも、結局、このようなシステムは、ブサイクでモテない人が作ったのです。こういうシステムこそ、抑圧されたエロスが作った家畜の檻なのです。ようするにモテない人がモテたい一心で敢えて一生懸命に難しく作ってしまったのです。生物として生きることを放棄してアホみたいに勉強していい大学に入って官僚になってバカみたいに働きながらストレスで頭をツルツルにしながらやたらと難しい法整備をしたりする人はみんな元からモテない人です。中にはモテるイケメンもいるでしょう。でも、そんな人はやってられなくて辞めていきます。きっとどこかの外資にでも転職して人生を楽しく送っているはずです、たぶん。

社会的な権威ですとか地位や名誉というものが本質的に大して意味のないものだということは、皆さんある程度社会人経験のある方であればお気づきだろうと思います。であるなら、もう一歩踏み込んで、自覚的に、積極的に、現代社会の幻想システムを問い直す(脱構築)ことが、生物としての本質的な行為に近いのだということを知ってほしいです。バカみたいに複雑怪奇な今の世の中に疑問を持ちましょう。だから、会社を辞めたり、嫌になってニートになったり、大変な目にあって生きることが嫌になる、といったようなことを、社会から落ちこぼれることだと捉えるのは大きな間違いです。私はむしろ、積極的ドロップアウトを提唱します。日本人には特にです。わがままに、自由に生きてみてはいかがでしょう?今こそ自分と対話して、そして、突きぬけることが必要です。

それから、意識して気をつけてほしいことは、エロに正直に生きることが正しいと勘違いして、アダルトコンテンツに出演したり、動画にして自分の体を売るような行為は絶対やめてください、ということです。盲目的な自分探しの先には大きな落とし穴が待っています。そういうことは、私の言っている事とはまったく逆です。あんなことをする人は、完全に資本の罠に捕らえられ、資本のシステムによって服を脱がされ、イスラム圏や共産圏を思想洗脳するための道具にされているだけです。本当に気をつけてくださいね。

かつて日本では、明治政府のプロパガンダによって多くの女性が「からゆきさん」にされ海外に売り飛ばされました。そして今、同じ悲劇がまた繰り返されています。豊かな時代になったなんて嘘です。認知バイアスマーケティングによって洗脳され、ムーブメントとしてアダルトコンテンツに当たり前にように出演させられているだけです。皆さん自覚無しに、令和のからゆきさんとして売春婦にされているだけです。作為的に貞操観念が奪われているんです。

行動経済学を悪用した巧みなマーケティングによって、社会的な性的欲求が自分本来のものだと勘違いさせられているんです。社会的エロスは純粋なエロスの歪んだかたちです。そういう歪んだ欲求は、資本による巧みなマーケティングによって自覚なく意識下に植え付けられているもので、盲目的セルフ売春婦になっているだけだということを知りましょう。そうならないためには、残念ながら現代社会ではある程度しっかり勉強しないといけません。

何度も言いますが、自覚的に資本のやり口を理解して、彼らのしかけた罠から逃げること(脱構築)が肝要です。この長文記事は、このことを伝えたくて書いてきたのもあります。ようするに、バタイユらのエロスの思想が、社会的なエロス(変態的なエロ)を肯定するような思想だと歪曲されて使われているということです。資本の側はいつもこの手口です。

とても悲しいのは、私が「巨大資本がインチキマーケティングを使って女性の服を脱がせ股を開かせている!」などと言うと、頭のおかしい人だと思われてしまうことです。マーケティングによる欲求の喚起が、どれほどの科学的巧妙さによって実行されているかについて無教養な人々は、私の忠告を陰謀論!などと言います。過去記事でも何度も言いってきたのですが、認知バイアスマーケティングはターゲットに被害者意識を全く喚起させずにカモにできる手法なのです。

最近の若者は本当に頭が悪くて(これは大人に原因がありますが)、そういうことにまるで無自覚です。彼らは、アダルトコンテンツに出演するとか、そういう仕掛けられたエロスを受け入れることが、自分の解放のように考えしまっているわけですが、これは完全にアホです。これは完全に資本主義という構造に捕らえられた囚人です。科学者が貨幣錯覚に囚われているのと同じです。囚われているのに、自分の性を解放しているように錯覚しているのです。そういう感覚は巨大資本が見せる社会的な幻想にすぎないので、そのような構造を脱構築しよう(既成概念を問い直そう)と私は言っているのです。「牛丼シャブ漬け」にされたままで悔しくないの?と私は言ってるんです。

本当に日本は恐ろしい国です。ちょっと油断しただけで直ぐに足元をすくわれます。私が言っているエロスというのは、そのような巧妙なシステムから抜け出すための脱構築のためのエロスです。お金やら、ブランド品やら、虚構に群がる豚にならず、自分をしっかりと持ち続けながら(資本のやり口を理解しながら)、自然環境に配慮し、自然のものを食し、欲を肥大化させず極小化するよう心掛け、こじんまりとシンプルに生きてゆくことを旨とすべきです。

昨今は、「SDGs」、「多様性」、「働き方」などという言葉に要注意です。目新しいスローガンには警戒から入るべきです。嘘が紛れ込んでいる可能性があるからです。資本の側は、彼らのロジックに仇名す観点を相対化するか、或いは彼らに都合のようい形に歪曲して、アブゾーブ(取り込んで)しまいます。これはニーチェがルサンチマンという概念を用いて示唆したように、ある種のシステムの宿命で、別の角度から言うならシステムの自己破壊衝動みたいなものです。

彼らはいつも先回りして罠を仕掛けてくるので、私たちは何をするにしても、ひとつひとつの事柄に用心して注意しながら進まないと罠に嵌ってカモられてしまいます。バタイユの論点や、例えばもっとわかりやすく言うなら宮崎駿が「風の谷のナウシカ」で提示した論点など、資本の論理に仇名す観点は、システムという必然により相対化され、骨抜きにされ、単なるエンタメされてしまうのです。このような手法に無自覚だとダメですよ、と私は行っているのです。とにかく皆さん、今の日本では、好奇心旺盛にあれこれ手を出してしまうと失敗しますのご用心願います。


私的脱構築論② エロスって結局何?

エロスを一言で言うと、因果律で考えない状態です。ポコチンでありハンター(狩猟者)であり涅槃であり解脱の境地です。繰り返しますが煩悩ではありません。抑圧されたエロスは煩悩そのものです。資本によって煩悩が養殖されてるんです。皆さんの頭の中にある煩悩に肥料を撒かれていて、皆さんの頭のなかのエロがどんどん大きく育っています。その煩悩を操作して色んなモノを買わせたり、消費させたり、果ては売春婦にさせられてしまいます。

重要なことは、資本のやり口についてはしっかりと因果律(論理)で理解して防御しながら、自覚的にエロスの境地(無我)を追及するという事です(自覚的無我の追及)。現代においては、単に東洋思想を学んで涅槃や解脱を追及することは、無防備になってカモられることを意味します。

エロスの境地を追及するということは、質素に暮らすということでもありますし、世の中の構造を極力シンプルにする努力をするということでもあります。大量生産・大量消費社会を見直すということでもありますし、分業社会を見直すということでもあります(分業の深化を止めて徐々に分業のレベルを後戻りさせることです)。質素に暮らしたり、社会構造をシンプルにすることが正しいと言ってるわけではないです。とにかく今は、過剰にモノがあふれ、複雑化した幻想社会から、一刻も早く脱構築することが肝要です。

ではようやく具体的なメソッドです。

まず、スローガンを決めます。(※この項目は私が勝手にお勧めする自己啓発メソッドです。)

梵我一如でも無為自然でも居敬窮理でも色即是空でも、なんでもいいのですが、そういう境地を自覚的に目指す必要があると思います。瞑想するにしてもヨガをするにしても、大方針をしっかりと決めて行うことが大事です。それにはまずはスローガンを設定するのが良いと思います。仏教など、東洋の思想を学び実践に生かす、というざっくりしたスローガンでもよいと思います。私もそんな感じです。ちなみに、上でも少し紹介した量子物理学者のボーアは、晩年、仏教や老荘思想に陶酔してしまいました。

実践としては、公園を散歩するだけでもいいと思います。自覚的に、草木を愛で、生かされていることを感じるのです。重要なことは、自覚的にそういうことをして、自分の中のエロスを感じ、対話しようと試みることだと思います。私は、こういうことを、自覚的に行うことが重要だと思います。自覚的無為自然です。自覚的無我です。自覚的にやるべきと考えているので、儒教のエッセンスも入っていても良いと思います。私的なメソッドですので、好きな東洋思想から自分が好きなのを選べばよいです。とくに宗教にこだわる必要はないと思います。とにかく、目標は「自覚的に、質素に、シンプルに生きる」ということです。そのために皆さんの性情に合った東洋思想を選べばよいと思います。宗教でなく、ハンターのような狩猟採集をしていたころの人類をイメージしてもよいと思います。村上龍はハンターを理想像として作品に登場させました。私はハンターと仏教のハイブリット型を採用しています。なんだかよく分からない話になってきましたが、これはもうイメージの問題ですので皆さんの頭の中で何でもドッキングさせてしまえばいいのです。

それから、食生活です。

思想だけでなく、東洋の食生活、特に、ハーブを取り入れることも重要です。梅干しを食べてください。ワサビやショウガを食べてください。食生活を東洋のスタイルに変えて下さい。日本の和食に変えましょう。農薬や添加物など汚染物質は極力避けてください。猪の皮をかぶって草原を疾駆していた頃の自分をイメージしてください。現代に生きるハンターを目指しましょう。ハンターをイメージしながら、自覚的に、質素に、シンプルに生きるのです。これがバタイユのエロス思想を応用した実践メソッドです。

次に、体(呼吸と姿勢)を整えることです。

単にストレス発散のためにヨガや座禅を無自覚にやるのもいいのでしょうけど、西欧の資本主義や科学主義のロジックは無自覚的にヨガや座禅をやって逃げ切れるような相手ではありません。座禅だとかヨガだとか写経だとか、そういうものを、単に健康になるためだとか、自己啓発のためだとか、そのように考えてやると損します。どうせやるなら、資本が構築した社会システムから自分を防御するために実践しているのだと、自覚的に行うことが重要です。

この動画は、駒野宏人さんのYouTubeチャンネルにあったものなのですが、この駒野宏人さんという方は、東北有志医師の会の動画でワクチンについて凄く的確なことを言っておられました(下のリンクの画像の左上の方です)。素晴らしい方だと思ってネット検索していたらこの動画が出てきまして、それを時々見ています。


この方は知りません。YouTubeで検索したら出てきました。なんだか説得力があります。

最後に、他人のために何かを行う精神性
これがなぜエロス?と思うかもしれませんが、生態系におけるRNAの相互依存体系がこのような精神性によく似ていると思います。ようするに、生態系の要素それぞれがバランサーとなってこの世界は維持されているわけです。これを競争のなかでバランスが取れると言ったハイエクも本質論的観点から言えば嘘付きとなるでしょう。経済学者は本当に嘘つきが多いのです。進歩観念に囚われた資本主義が支配するこの現代の社会システムにおいて、競争によって均衡が保たれることはありません。成長の限界などどこ吹く風と人間までもがゲノム改変され、自然がことごとく破壊されてゆくだけです。だからこそ、競争のみによるバランスではなく、意識的にバランサーになろうとする精神性は非常に重要なことです。アダム・スミスは「道徳感情論」で同じことを言っています。

でも、これはなかなか出来ることではないです。ですので、まずは五体投地というものを知らねばなりません。これは、日本人が毎日お金のために満員電車に揺られて会社に通勤するのとはわけが違います。この動画の人々は皆、他人のために、社会の平和のために、世界の平和のためにやっているのです。これも植え付けられた共同幻想の儀式だと捉えることも可能かもしれません。でも、彼らは私たちの先の先にいると思います。彼らはエロスとの対話を終え、エロスをコントロールし、社会の安定と維持の段階に到達しています。


動画は検索したら出てきたものです。

以上です。


あとがき

よっぱらって書きました。誤字脱字やおかしな日本語はまた暇なときに直します。最後の私的脱構築論という項目はなんだかまとまりがないので、そのうちまたしっかりと書き直します(放置の可能性もあり)。

記事の中でも触れましたが、昨今、エロスの思想が歪曲され、性に対して寛容的な思想であるかの如く喧伝されています。これは全くの誤訳なわけですが、そのようなプロパガンダもあってか最近バタイユを読む人が増えているような気がします。

少し話がそれますが、私は行動経済学を悪用した昨今の奇襲的な洗脳攻撃を「プロパガンダ奇襲」と呼んでいます。これは、真実を予め陰謀論として吹聴して相対化した後に、嘘を真実として宣伝するやり口です。例えば、真実が一般に知れ渡る前に、反ワクチンは陰謀論!、反ウクライナやってる人々はロシア支持の頭のおかしい人!と吹聴する。

この手法は、その逆を正しいと思い込ませる認知バイアス(洗脳)マーケティングの典型です。この手のプロパガンダに乗っかってしまい早々にSNS等でワクチン支持やウクライナ支持を表明してしまうと、もう後戻りできなくなる。今回は東大の教授がこういう攻撃をやってるわけです。反ワクと反ウクは共通してる!などと、ニュースメディアを通じて大々的に攻撃を仕掛けてきています。

昨今はこの手の攻撃がSNSと連動していて、公務員でもないのに「無謬性の原則」が社会として徹底されています。これも行動経済学の応用でしょう。プロパガンダ奇襲だと気が付かずSNS等で安易に「主張の確定」をしてしまうと、もう社会が全体として後戻りできなくなる。昨今はこういうことが科学的な戦略として行われているんです。認識構造の欠陥に付け入られ嘘を真実と思い込まされるため、不誠実で不正義な体制を克服できる端緒が削り取られてしまっています。その結果、相変わらず体制側の既得権が守られてしまうことになります。ようするに、システムとして不正義が克服できないような社会になりつつあるということです。

この記事で取り上げた論点に立ち返るなら、この手法によって、今日、多くの日本人女性が無自覚的に売春婦にされています。それに皆気が付かないんです。社会的に喚起されるエロに対し正直でいることが、自分の自由意志だと誤認させられている。洗脳されてることに気が付けない。実は、これと似たようなことは戦前にもありました。戦前は、農民が政策的に農奴(奴隷)として留め置かれ、売春婦や兵士の供給源にされました。政策的にです。でも、当時も多くの人が誘導されていることに気が付けなかった。夏目漱石や樋口一葉がまさかプロパガンダとして利用されているなんて思いもしなかったからです。

昨今は、プロパガンダを使って誘導するだけでなく、こういうことがシステマティックに行われ始めています。経済理論に基づいて科学的に誘導されるんです。本当に恐ろしいと感じます。こんな状況なのに、多くの人が歴史から何も学べてないし、そもそも資本側のやり口を理解できてない。道徳の欠片も持ち合わせていない人買いが、相変わらず跋扈しているという意識すらない。

今日、ボードリヤールやフーコーが予言したよりもさらに恐ろしい管理社会が到来しつつあります。私はこのような状況を黙って見過ごすことができません。これは私の性情によるものでしょうか、最近自分でもよくわからなくなります。皆さんは、女性が人買いにカモられるのを黙って見過ごすことができますか?そもそも、家畜の檻に飼われる豚でいいのですか?私は既に孤独には十分すぎるほどに慣れていますが、それでも最近、芯から怖く感じることがあります。孤独に対してではなく、これはおそらく、芥川が言ったような「ぼんやりとした不安」のようなものです。

この記事は、そんな状況を脱構築し克服するための方法論として、エロスの思想を取り上げ私なりに語ったものです。こんな話は酔っぱらってないとできません。過去の記事でも似たようなことは何度も書きましたが、今回はポスト構造主義と構造主義を明確に分けて書きました。ポスト構造主義は、存在論的観点を除くなら、資本が構築した社会システムをいかにして脱構築してゆくか、という点に主眼を置いた思想です。レヴィ・ストロースやジャレド・ダイアモンドの成果は、社会を構造として捉え直した場合、西欧主義だけが他の文明や地域的慣習に比して優位性のあるイデオロギーでも理性的な思想でもないことを示唆しています。この構造主義的な観点を引きついで、フーコーやデリダは西欧主義的価値を脱構築しようと試みたわけですが、彼らの勇敢な試みは、いまだ多くの人に知られているとは言えない状況です。論壇の中で難しい話をするだけでは意味がないんです。このような状況を危惧して、偉大な思想家であるチョムスキーは、誤解されることを厭わずいつも様々なメディアを通じて積極的に西欧主義を批判しています。

チョムスキーの生成文法は、長らく資本の側に悪用され相対化され続けてきた哲学的論点で、近年、生命科学や脳科学の進化を伴う形で私たちの意識を支配するための技術に改変されつつあり、恐ろしいことにその技術的実現はもはや時間の問題と考えられています。加えて、カーネマンが理論構築した悪の教典である行動経済学は、人間の認知バイアスに群がり付け入ろうとする豚以下のマーケターを無尽蔵に世に送り続けています。その結果私たちの多くが牛丼シャブ漬けにされ、ありとあらゆる無価値な記号群に無意識的に縛り付けられている状況です。被害者としての自覚がないまま中毒にされているのですから、本当に恐ろしい状況です。

私的脱構築論と題した項では、私が日ごろ意識して気を付けている事や私のモチベーションを少し紹介しました。この項は、単にバタイユを論じるだけならいらなかったかなと思います。ただ私は、できればみなさんの生活スタイルや思考にまで干渉して変えてやりたい、という思惑をもっておりますので、取るに足らない私独自の方法論ではありますが、加筆させていただきました。ただ、ハンターという概念はとても面白いと思います。参考になれば幸いです。村上龍はこの概念を巧みに取り入れ、「愛と幻想のファシズム」という素晴らしい小説を書いています。お勧めの小説です。

2022.10.21


追記

この記事は多くの方に読んでもらっているのですが、泥酔の威を借りた自動記述の効果覿面、恐ろしいほどだらしのない日本語を披露してしまっていたので、どこかで時間を作って隠さなきゃと思いつつ、気が付けばすでに1年以上も経過してしまっていました。

この記事を修正しながら、学生の頃、澁澤龍彦やバタイユを読み漁り、あれやこれや自分なりに思考を巡らせていたことなどを想い出していました。学生の頃からこんなものを読み漁っていたために、これまで本当に試行錯誤の人生でした。こんなもの読んでいなければ、巨大な水槽の中を優雅に泳ぐ鯛やヒラメのように、幸せに生きてこられたのかもしれない。そう思うこともあります。

巨大なガラクタがあちこち浮遊し足元が容易くヘドロに絡まるこの社会はあまりにも泳ぎにくい。だから私はときどき焼酎の力を借りてダダイスティックに真っ青な海を泳ぐ。この記事もそうやって書いたので、意図的だらしなさをどこまで隠すべきか悩みました。悩みつつ前半部分は少し丁寧に手直ししたのですが、しなかったほうが良かったかもしれません。後半は自動記述の部分をかなり残しました。文章を通して過去の自分と向き合うことは有益ですね、自分に教えてもらいました。自分、ありがとう。

最近暇なときに仏の思想家であるナンシーの論点を確認したりするのですが、自分が書いたこの記事がナンシーを理解するのに大いに役立ちました。自分がこんな記事を過去に書いていたなんて本当に驚きです。お酒って怖い。でも何はともあれ、自分、ありがとう。

2024.1.17

修正履歴
2024.1.14 前半部分、日本語修正。後半部分はまだ。
2024.1.17 後半部分修正。