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甦るフランク・ロイド・ライト(12)ストラー邸
ストラー邸 Storer House 1923
さて、どの作品からご紹介しようか。
私の作品は、正直どれもまがいもなく傑作じゃ。
しかし、私の関わったプロジェクトは未完のものを合わせると、1000を超える。毎週ご紹介しても20年の時を要してしまう。
・ライト作品年表
まずは、ストラー邸からご紹介しよう。
近代建築史の歴史の授業で、私の作品について、ロビー邸・帝国ホテル・落水荘・ジョンソンワッ
甦るフランク・ロイド・ライト(11)ゲーリー
拝啓、フランク・O・ゲーリー様
フランク・O・ゲーリー(1929年 - )は、ロサンゼルスを拠点としている存命の建築家だ。
同じアメリカの建築家であり、名前も似ている。現在、ゲーリーは95歳だが、91歳で死亡した私より長寿だ。
建築家は長生きするに越したことはない。なぜならば、一つの建築が建つまでに、長き時間を費やすからだ。建築家は、作品ごとに新たなる空間をめくり続け、己の空間を人生を賭けて追及
甦るフランク・ロイド・ライト(10)ザハ
拝啓、ザハ・ハディッド様
ザハ・ハディッド(1950年 - 2016年)は、私とは直接の関係はないように皆思っているじゃろう。
彼女は、イラク・バグダード出身、イギリスを拠点に活躍した建築家であり、生きた世代も場所も私とは縁がない。なぜここで、ザハを扱うのか、不思議に思うかもしれない。
ただ、私は現代の建築家たちの中で、私の思想の残滓を、ザハ・ハディッドとフランク・ゲーリーの建築に見出している
甦るフランク・ロイド・ライト(9) ロートナー
拝啓、ジョン・ロートナー様
ジョン・ロートナー(1911年- 1994年)は、私の精鋭なる弟子の一人である。
紛れもなく彼は、私の次に地球上で優れた建築家だ。疑う余地がない。彼は、世界で最も私と同じ道を進んだ弟子であり同志だ。
私の弟子たちは大変だ。レーモンドの時も話したが、私という才能の光が強すぎて、弟子の成長の芽を殺してしまう。建築家には弟子が育つ建築家とそうでない建築家がいる。造形や素材観
甦るフランク・ロイド・ライト(7)メタボリズム
拝啓、メタボリズム様
メタボリズム(1960 - 1970)は、私が死んだ翌年1960年、東京で行われた世界デザイン会議において、菊竹、大高、黒川らが提唱した建築運動じゃ。彼らは、当時、戦後復興から経済成長中の日本において、社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案した。
メタボリズムは、有機的、生命的と標榜しており、私の建築思想と連続する。
さては、私にリスペクトがあるの
甦るフランク・ロイド・ライト(6)レーモンド
拝啓、アントニン・レーモンド様
アントニン・レーモンド(1888 - 1976)は私の弟子じゃ。
チェコ出身で、1910年にアメリカに移住している。1916年に私の事務所に入所、1919年に帝国ホテル設計の際、日本に私と一緒に来て、1922年に独立した。第二次世界大戦で一時的にアメリカに戻ったが、戦後は、日本で名作を多く遺した。
彼は、私の存在・影響が強すぎたせいで、かなり悩んだようだ。私の才
甦るフランク・ロイド・ライト(4)スカルパ
拝啓、カルロ・スカルパ様
ヨーロッパには、アアルトともう一人、親しい友がいる。カルロ・スカルパ(1906 - 1978)だ。イタリア人だ。彼は、私の正当な後継者の一人だ。皆ご存知であっただろうか。
私は、その昔、恋人と駆け落ちをした。1910年頃だ。ドイツを経由しながら、行き着いたのは、イタリアのフィレンツェであった。滞在期間中は、自由に設計活動をした。イタリアは、私の地元ウィスコンシン州と違
甦るフランク・ロイド・ライト(3)アアルト
拝啓、アルヴァ・アールト様
前回、ミースと私との相対化を図った。
ミースへの想いが強く、少々長くなったので、他の巨匠くんたちは足早にいきたいと思う。
ル・コルビジェ(1887 - 1965)は苦手だった。建築は機械だと大衆をそそのかし、注目を集めることだけに拘った、承認欲求の塊のような建築家だ。当時、よくコルビジェと意見が対立した。
ただ、ロンシャンやラトゥーレット修道院などの後期コルビュジ
甦るフランク・ロイド・ライト(1)ライト登場
私は、フランク・ロイド・ライト(1867年 - 1959年)である。65年前に既に死んでいる。肉体的には死んでいるが、私が遺した建築は、まだたくさん生き永らえているようじゃ。我が子のようであり、どの子たちも傑作じゃ。施主やその後の建築の管理者、面倒を見てくれた弟子たちにも感謝じゃな。
なぜ私が現代に蘇ったかは、よくわからない。
作品にこべり付いていた意識の断片が、時間を経て集まり、再び私が意識を