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甦るフランク・ロイド・ライト(2)ミース

<あらすじ>
65年の時を経て、フランク・ロイド・ライトが、もし現代に甦ったら何を語るか、というエッセイ集です。一人称の私は、甦ったフランク・ロイド・ライトです。今回(第2話)は、ミースについて話してもらいました。

拝啓、ミース・ファン・デル・ローエ様

前回、現代の建築の状況について憂いてみた。急に甦ってびっくりしたので八つ当たりだ。

私は、確実にモダニズムの源流を生み出した。
空間の連続性という概念の導入だ。私が始めた。
私の導入がなければ、ミースもコルビジェもアアルトもカーンも、凡庸な建築家に終わったに違いない。皆、私にもっと感謝してほしい。

現在、巨匠と呼ばれている私の後輩たちと大巨匠の私とを相対化したい。私の思想が、死後どのように変容したかを知りたいからだ。
まずはミース・ファン・デル・ローエ(1886 - 1969)くんからじゃ。

煉瓦造田園住宅案 ミース・ファン・デル・ローエ 1924年

ミースの煉瓦造田園住宅案は、私のヴァスムート・ポートフォリオ(私がドイツで出版した作品集)のパクリだ。
彼がベーレンス事務所で働いているとき、事務所のライブラリーで作品集を見て、衝撃を受けた。建築の自由の存在を確信してくれたようじゃ。

私はミースに「いつも私の真似事をしてないで、いつか私のところで勉強しなさい」と手紙を送ったことがある。その手紙の甲斐あってか1938年頃、ミースは4日間、私のタリアセン事務所に滞在してくれた。一緒に働いてはくれなかったがな。彼の功績を鑑みると無理な話だ。

1947年にニューヨーク近代美術館でミース展があった際、私も参加し会場で「大した事ないのに大騒ぎしている」と発言した。さすがの私も後悔し、ミースに「その発言は本意ではなく、あなたを傷つけるつもりはなかった」と謝罪文を送った。ミースからは、「そもそもその発言は聞いていないし、もし聞いたとしても二人で笑ったよ」と返事があった。ミースの作品にも敬意を払うが、人間としても素晴らしい人物だったと、ここで言っておきたい。

ただ、ミースは私より、多くの超高層ビルを実現させた。私もミースのようにアメリカの、世界の規範になるような超高層ビルを遺したかった。
私も超高層の計画をいくつか計画したが、実現したのはプライス・タワーのみじゃ。数の比較だけでも、ミースの方が当時優れた超高層ビルを生み出したと言わざるを得ない。確かに美しいが、どこか物哀しい気持ちにはなるのだが。

プライス・タワー フランク・ロイド・ライト  1952

ミースが、なぜ私より超高層の実現作品が多いかご説明しよう。

一つは、私の師匠がルイス・サリヴァンだからだ。彼は当時シカゴ派と呼ばれ、超高層ビルをボコボコ建てていた。師匠が超高層をたくさん建てていたので、私は別の方向性に行かざるを得なかった。その時、私が問題にしたかったのは、郊外に広がる住宅だった。住宅をテーマにしたがため、水平性や人間性への創意工夫に必死で、垂直性に関して検討する時間などなかったのだ。

これが一つ目の理由だ。超高層ビルと住宅では、建築に関する競技が違うのだ。走り幅跳びと走り高跳びくらい違う。
私が、初めから住宅ではなく高層ビルをデザインしていたら、都市の大半は私の高層ビルで埋め尽くされていたであろう。そもそも、空間は水平に広がり連続するわけで、鉛直方向に空間を導くことなど不可能である。無理くり水平性を保ちつつ鉛直移動を可能にさせたのが、グッゲンハイム美術館である。動線は長くなるし、コストもかかるので、世界中に普及する一般解には成り得ない。

もう一つの理由は、私とミースの、空間の流れ・連続性の取扱い方の違いにある。

私たちには、空間の澄んだ流れが見えているし、感じられる。空間センスというものじゃ。
その空間の流れを、3次元的に導くことが、我々のデザインの基本とすることなのだが、私の場合は、その空間が触れるサーフェイス・物質たちも流れに追従させる。大地から得る流れを、造形や物質と共に盛り上げ、賑やかに踊りながら、空へ導くのが私のデザインである。その流れは大きなうねりとなり、時には人を包み込み、永続的なる空間の交響曲になる。

ユニテリアン教会 フランク・ロイド・ライト 1951

一方、ミースはどうだろうか。ミースも確実に空間の流れが見えているし、連続性についてリスペクトしている。ただ、その後の所作が私と違う。彼は空間の流れを尊重するために、流れを阻害する物質を徹底的に排除したのだ。
時代の技術も彼を後押しした。私の頃は、スチールサッシを基本として、重量・強度についての制約が厳しかった。ただ、1952年竣工の国連ビルを皮切りに、アルミ製、ステンレス製、ブロンズ製のサッシが次々に開発された。この技術革新を根拠として、ミースは、無駄なものをそぎ落としたシャープな開口部を有したいくつもの超高層ビルをデザインした。
彼の方法論は、当時の社会的価値観とも合致した。余分なものを排除しやすいので、合理的で、事業者との合意形成も取りやすい。私のデザインは、空間は躍動するが、少々喧しくなってしまう。どこか、アメリカ人としての固有のデザインを、空間に投影してしまう癖があるようじゃ。そのデザインについて、施主に共感されなければ、プロジェクトごと頓挫してしまうのだ。
その分、ミースは土地固有のものに拘らず、当時の社会的要請を上手く汲み取り、空間の結晶化に成功した。・・ただ、ミースのやり方では、社会的要請の終焉とともに、進化が止まる。また、空間の連続性に関する大いなる誤解を生んでしまった。

前述したが、空間は鉛直には伸びない。おそらく重力と人間の認知の関係に起因する。
では、なぜミースが鉛直に空間を積めたかというと、彼は、空間をギリギリまで薄めてしまった。
空間の性質自体を希薄にすれば、空間の抵抗する力が弱まり、均質的に整列することができるのだ。

私にはそれができなかった。なぜならば空間を愛しているからだ。私が鉛直に空間を積もうと思っても、躍動する空間が、明後日の方向に飛んでいき、制御できなかった。制御しようとサーフェイスで必死に繋ぎとめようとしたが、コストが跳ね上がりどうしようもなかった。
ミースは冷徹に空間を殺し、建築の全体性を獲得したのである。

まあ、良い。そういうやり方もある。だが、これを良しとして世界中に広まることは宜しくない。
無味無臭の死んだ空間を墓石のように並べ、人類の思考は均質化の一途を辿る。均質化はスタート当初はスマートでカッコいいが、時間が経つと、引き返せないし、身動きできないし、死にたくなるほど退屈になる。ミースは、美しい結晶としての建築を創出した功績もあるが、均質化への流れを導いた功罪も同時に抱えているのである。

シーグラム・ビル ミース・ファン・デル・ローエ 1958年

ここまでの整理で、ミースが何を間違えたかは明らかじゃ。
空間を殺してはならない。空間は生き生きとしたものとして扱わなければならない。
建築家は、明るく温もりがあり、光影の濃淡があり、心が震える空間をイメージしなければならないのだ。生きられる空間とは、大地と人間と物質とが極めて明確に連続する空間だ。
ミースは、空間をリスペクトする大義名分をもとに、物質や大地を、邪魔ものとして扱い、空間自体を殺してしまったのだ。悲劇的なる過ちである。

間違えは、反省し、訂正して前に進めば良い。
空間の連続性をリスペクトしてくれたことには感謝している。流れを止めない彼の澄んだディテールも素晴らしい。ただ、空間を少し殺しすぎた。
おそらくこの手の問題は、その後ルイス・カーン(1901 - 1974)によって一旦の解決をみるが、またいつか後述する。

何はともあれ、私の死の10年後ミースも逝く。1969年だ。モダニズムの最盛期だ。その後、ミースの建築手法は、SOMなどアメリカの組織設計事務所に受け継がれ、今日に至る。
ただ、どの高層ビルもミースを超越できたことはない。これは、いくら技術を鍛えようが、結局は、建築家個人の感性で建築のレベルが、数段階跳ね上がることを示していることに他ならない。

クラウン・ホール ミース・ファン・デル・ローエ 1956年
ミース高層建築批判はしたが、ミースの低層建築はパーフェクトじゃ

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