タナカノナカ

フランク・ロイド・ライトがもし現代に蘇ったらというパロディを連載中 ミース・アアルト…

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フランク・ロイド・ライトがもし現代に蘇ったらというパロディを連載中 ミース・アアルト・スカルパ・カーン・レーモンド・メタボリズム・吉村・篠原・ラトナー・ザハ・ゲーリーあたりまで書こうと思います。

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甦るフランク・ロイド・ライト・1

私は、フランク・ロイド・ライトである。65年前に既に死んでいる。肉体的には死んでいるが、私が遺した建築は、まだたくさん生き永らえているようじゃ。我が子のようであり、どの子たちも傑作じゃ。施主やその後の建築の管理者、面倒を見てくれた弟子たちにも感謝じゃな。 なぜ私が現代に蘇ったかは、よくわからない。私の作品にこべり付いていた意識の断片が、時間を経て集まり、再び私が意識を認識できる程度に纏まったのかもしれない。 さて、65年経て、今の世界はどうなったであろうか。人類は月面に到

    • 甦るフランク・ロイド・ライト・6

      拝啓、アントニン・レーモンド様 アントニン・レーモンド(1888 - 1976)は私の弟子じゃ。 チェコ出身で、1910年にアメリカに移住している。1916年に私の事務所に入所、1919年に帝国ホテル設計の際、日本に私と一緒に来て、1922年に独立した。第二次世界大戦で一時的にアメリカに戻ったが、戦後は、日本で名作を多く遺した。 彼は、私の存在・影響が強すぎたせいで、かなり悩んだようだ。私の才能が濃すぎたため、ある時、自身のデザインの方向性を見失ってしまったのかもしれない

      • 甦るフランク・ロイド・ライト・5

        拝啓、ルイス・カーン様 ルイス・カーン(1901 - 1974)は、私と同じアメリカの建築家である。34歳下である。1959年に91歳で私は死ぬのだが、その時、カーンは58歳という距離感である。 彼はミース同様、ヨーロッパ(ミースはドイツ、カーンはエストニア)からの移民である。 彼の建築の背景には、ハイデガーに至る西洋哲学の色が強い。私は、サリヴァン先生と共にアンチ西洋思想・アメリカン民主主義推進派というスタンスであったため、立ち位置から、結構違う。 建築表現についても、カ

        • 甦るフランク・ロイド・ライト・4

          拝啓、カルロ・スカルパ様 ヨーロッパには、アアルトともう一人、親しい友がいる。カルロ・スカルパ(1906 - 1978)だ。イタリア人だ。彼は、私の正当な後継者の一人だ。皆ご存知であっただろうか。 私は、その昔、恋人と駆け落ちをした。1910年頃だ。ドイツを経由しながら、行き着いたのは、イタリアのフィレンツェであった。滞在期間中は、自由に設計活動をした。イタリアは、私の地元ウィスコンシン州と違って、丘陵地帯が多い。丘陵で気ままに創作活動をしたことによって、後に地形を生かし

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        甦るフランク・ロイド・ライト・1

          甦るフランク・ロイド・ライト・3

          拝啓、アルヴァ・アールト様 前回、ミースと私との相対化を図った。  ミースへの想いが強く、少々長くなったので、他の巨匠くんたちは足早にいきたいと思う。 ル・コルビジェ(1887 - 1965)は最悪だ。建築は機械だと大衆をそそのかし、注目を集めることだけに拘った、承認欲求の塊のような建築家だ。当時、よくコルビジェと意見が対立し、常に私の思想の逆張りを意図しているようで、本当に嫌いだった。 私や師匠サリヴァン先生は、ゴシック様式をこよなく愛しているが、コルビジェは、ゴシック

          甦るフランク・ロイド・ライト・3

          甦るフランク・ロイド・ライト・2

          拝啓、ミース・ファン・デル・ローエ様 前回、現代の建築の状況について憂いてみた。急に甦ってびっくりしたので八つ当たりじゃ。 私は、確実にモダニズムの源流を生み出した。空間の連続性という概念の導入だ。 私の導入がなければ、ミースもコルビジェもアアルトもカーンも、凡庸な建築家に終わったに違いない。皆、私にもっと感謝してほしい。 現在、巨匠と呼ばれている私の後輩たちと大巨匠の私とを相対化したい。私の思想が、死後どのように変容したかを知りたいからだ。 まずはミース・ファン・デル

          甦るフランク・ロイド・ライト・2