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甦るフランク・ロイド・ライト(5)カーン

<あらすじ>
65年の時を経て、フランク・ロイド・ライトが、もし現代に甦ったら何を語るか、というエッセイ集です。一人称の私は、甦ったフランク・ロイド・ライトです。今回(第5話)は、同じアメリカ人建築家ルイス・カーンについて、ライトに話してもらいます。

Jatiyo Sangshad Bhaban, the National Assembly Building of Bangladesh, Dhaka 1962

拝啓、ルイス・カーン様

ルイス・カーン(1901 - 1974)は、私と同じアメリカの建築家である。34歳下である。1959年に91歳で私は死ぬのだが、その時、カーンは58歳という距離感である。
彼はミース同様、ヨーロッパ(ミースはドイツ、カーンはエストニア)からの移民である。
彼の建築の背景には、ハイデガーに至る西洋哲学の色が強い。私は、サリヴァン先生と共にアンチ西洋思想・アメリカン民主主義推進派というスタンスであったため、立ち位置から、結構違う。
建築表現についても、カーンと私とでは大きな違いがある。窓の開け方一つとっても対照的だ。

この対比がどう生まれたのか、整理したいと思う。カーンは思想も建築も哲学的で難解だが、できるだけ平易な解釈で説明を進めてみたい。

カーンの(room)という空間概念の導入は、私の空間概念を参照している。建築において内部空間が一番大事とする概念じゃ。元を辿ると老子まで行き着く。
そして私は、空間の連続性を第一として、その空間の成長を望んだ。ただ、カーンは違った。彼は、空間に差し込む光を敬愛した。

私は、壁・床・屋根という物質ではなく、建築の本質は内部空間だとし、その空間の連続性が、人間と環境に調和をもたらすという思想を提唱した。
カーンは、建築の元初は内部空間(room)であり、その空間が壁・床・屋根に意味を与える。その構造の認知は光(light)によって成し遂げられる。光によって、自然界の原理・宇宙の真理が顕在化するという思想だ。
こう書くと、私とカーンにあまり差異はない気がしてきたが、一番大きな違いは、光に対する認識と、それに伴う時間観の差異だと思う。カーンは、私の思想をベースとして、より現象学的に建築論を推し進めたのである。

私は、空間に成長を望んだ。その成長は、人間の希望や物質の振る舞いによって促される。なので、私の時間軸は、くるくるしたり、枝分かれしたりどこか情緒的だ。住宅設計が多かったせいか、建築の時間軸も人間の一生程度で捉えていた気がする。また、私の光は暖炉の炎である。暗闇の中に燃える暖炉から光と熱量が部屋に広がるイメージをもって、空間の連続性というコンセプトが生まれた。暖炉の炎は、燃え続けることはなく、そのうち消える。
一方、カーンの空間は、普遍的で永続的だ。私より線形でより力強い軸線をもっている。
なぜこの強固な時間観を設定できたかというと、その根拠を光(自然光)に依拠させたからだ。

ソーク生物学研究所 ルイス・カーン 1965年

光は、観念的にも物理学的にも不変の象徴だ。空間の属性を、普遍的な光を根拠にしたことによって、人間や物質に右往左往することなく、空間の自律性を保ったのだ。この光と人間の知覚を根拠とした空間の自律性は、西欧の古典建築にも同様に見出すことはでき、より確信を得たカーンは、光とそれを知覚する人間のための空間を創造し続けた。素晴らしいの一言じゃ。

キンベル美術館 ルイス・カーン 1972年

ここで、私とカーンのデザインの違いを説明する。私の空間は、水平に連続しなければならないため、壁は不要だった。壁の存在を認める訳がないので、壁を穿つ窓は作らなかった。そもそも壁などないではないかというスタンスじゃ。
カーンは、光の認知のために、壁が必要だった。光(light)と沈黙(silence)と呼んでいたが、光の知覚には明暗が必要なのだ。その実現のための装置として壁と穿つ窓という関係が必須だった。これが冒頭言っていた、窓デザインに関する、私とカーンの差異じゃ。

カーンの弱点を指摘するとすると、光は視覚によって認知されるので、他の知覚(触覚や聴覚)に対する対応が疎かになりがちなことだ。神々しい光とコンクリートの量塊に目は圧倒はされるが、少し身体を圧迫される印象だ。
この打開策として、カーンは素材の内在性について、思慮を深めていたのかもしれない。私もカーンも素材は素材らしく、ありのままでという思想は、同様である。多分、カーンが私を参照した。

カーンの空間の自律性は、その後、とても便利に活用された。ポストモダニズム建築は、外在性なく生成されるため、この空間の自律性は大いなる後ろ盾になった。カーンの生徒の中に、ヴェンチューリがいたということも納得できる。
また、空間の自律性を高めると、建築の生成論理はクリアになる。そのため、ワンアイディア・ダイアグラムからスケールアップするダイアグラム建築の生成にも寄与している。

ただ、ポストモダニズム建築もダイアグラム建築も、しょうもない。
何がしょうもないかというと、ルイス・カーンが発明した、空間の自律性についての誤用が酷い。
私の思想も同様な扱いを受けたので、ひどく同情してしまう。カーン君にも甦って頂き、現代の建築を憂いて飲み交わしたい。我々が育てた空間はどこにいってしまったんだと。

何が誤用なのか。
彼の空間の自律性は、内部空間(room)を照らす光と、その光を享受する人間の感性を根拠としている。要は、空間は、光を媒介として人間のために在るという構造だったのである。
当初カーンによって設定されていた内部空間(room)の目的を考慮せず、空間の自律性を使うなど言語同断だ。カーンに対する不敬罪だ。

自律性は、すぐ建築を独りよがりの孤独に突き落とす。

ルイス・カーンは、私の感性から出現した空間論を、より哲学的に美しく建築に昇華してくれた功績は大きい。感謝じゃ。おそらく現代の建築家が、空間を問題にする際、必ずカーンが参照されていると言っても過言ではない。
ただ、哲学も物理学も時代とともに変化する。ルイス・カーンが参照したハイデガーも、今はもう古い。更新した方が良い。
現代では、空間と時間は合致し、時空間として扱い、キリスト教的時間概念は成立しない。光も決して不変ではない。量子学では、真空から光子が突然出現するし、粒子か波かすら曖昧だ。アインシュタインの物理学からも、少しずつ変化しておる。

可能ならば、現代の建築家は、今一度私ライトの空間に立ち戻り、ルイス・カーンと同様の手順でその内容を更新し、現代的なる生きられる空間を創造してくれることを皆に求む。


カーンとスカルパ  仲が良さそうじゃ
ルイス・カーンに宿る私は、スカルパによる影響が大きそうだ

参考文献
ルイス・カーン建築論集 1992年 SD選書

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