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ショートメッセージ

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聖書から日々黙想をしている中で、短いひとまとまりのメッセージを書き留めています。それをおすそわけします。ご面倒ですが、聖書箇所について聖書を開くか、検索してくださると、いっそう身… もっと読む
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#マタイによる福音書

イエスは教会と共にいる

イエスは教会と共にいる

マタイ28:16-20 
 
復活したイエスは、墓へ来た女たちに出会います。女たちは、まず空の墓を見ました。天使が現れて、イエスは復活した、と女たちに告げました。先にガリラヤへ行っているから、そこで会えるだろうというのです。女たちは、恐れながらも大喜びだという複雑な感情を胸に、弟子たちのいるところへと走りました。走ったというのです。
 
イエスは、その行く手に立っていて、女たちはイエスに出会います

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マリアたちの経験が私の経験となる

マリアたちの経験が私の経験となる

マタイ28:1-6 
 
安息日が明けて、二人のマリアが墓を訪ねます。マタイはそう記します。二人は、墓穴の入口が大きな石で蓋されるのを、先に見ていました。マタイでは、翌日に祭司長たちやファリサイさの面々が、ピラトに申し出たことが描かれています。墓を見張っておくべきことを提言し、受け容れられました。何人か知れませんが、複数の番兵が付けられました。
 
二人のマリアが主の天使の現れに遭遇したとき、この

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財に心を置かぬよう

財に心を置かぬよう

マタイ19:21-29 
 
永遠の命を得るために、どんな善いことをすればよいか。青年であるかどうかはともかくとして、イエスに尋ねたその人物は、真面目な気持ちからであったようです。けれども、持ち物を売り、貧しい人々に与えよとイエスに言われて、悩み悲しみながら立ち去って行きました。その持てる財が多かったゆえである、と説明されています。
 
財は与えれば十分というわけでもありません。財を手放してたその

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結びからの始まり

結びからの始まり

マタイ7:24-27 
 
「私のこれらの言葉を聞いて行う者」がテーマとなります。山上の説教の締め括りとして、マタイはこれを選びました。そこに意とがあるはずです。つまり、これらの新しい律法を行え、と言うのです。聞いただけで「いいお話でした」と笑顔を向けるのが目的ではありません。むしろ、聞いたところからその人の道が始まるのです。
 
心が洗われました。そんな感想は、お門違いです。これほど多くのイエス

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私たちがもたらす平和

私たちがもたらす平和

マタイ10:34-42 
 
派遣する弟子たちへのアドバイスは、後の世代の私たちすべてへのアドバイスとなります。平和を必ずしももたらすためではなく、しかしそのような私たちを受け容れる者、即ち私たちと平和を共に築く者については、十分な祝福があるのだ、ということをイエスは告げました。できるなら、私たちのすべての営みが平和に繋がるものでありたいと願います。
 
私たちはキリストの名を与えられています。キ

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平和を願うために

平和を願うために

マタイ10:5-15 
 
イエスの十二人の弟子を派遣するにあたり、注意を促すのが、ここでの目的です。それは言うまでもないことなのですが、いまの私たちがキリストの弟子としてどうあるべきかを定めた規定である、と見たいと思います。その意図で記されているのだ、と。ただ、この時にはイスラエルの家の失われた家へ行くのが至上目的であったはずです。
 
福音書の時代、イスラエルへの伝道が緊急であったのかもしれま

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いまここに及ぶ呼びかけ

いまここに及ぶ呼びかけ

マタイ9:35-38 
 
イエスは、町や村を残らず回ったといいます。教えや福音を伝えたのは尤もですが、ありとあらゆる病気や患いを癒やした、とマタイは記しています。回ったこと、癒やしたこと、それはよいのですが、「残らず」回り、「ありとあらゆる」病気や患いを癒やした、というところに、注目したいと思います。
 
もちろん、それは一種のレトリックであって、文字通りallの意味であると堅苦しく解釈する必要

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ヘロデはいないか

ヘロデはいないか

マタイ2:1-12 
 
ルカのようにイエス誕生そのもののシーンに触れることはありません。マタイでは、すでにどこかでイエスが生まれてしまったところからドラマが動き始めます。ヨセフの夢に現れて、天使が異常な事態を告げた後、天使の命令を守ったヨセフがマリアを迎え入れると、生まれた子にイエスという名を付けた、というところが、スタートになるのです。
 
それはヘロデ王の時代でした。イエスの誕生は、ユダヤ人

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具体例の一つひとつがすでに現実である

具体例の一つひとつがすでに現実である

マタイ25:31-46 
 
実に耳の痛い話です。「この最も小さな者の一人にしたこと・しなかったこと」が問われます。やや冗長気味に、その具体的な一つひとつの行為がイメージ豊かに繰り返される点に、誰もが一度は恥ずかしく思ったことがあろうかと思います。このイエスの警告の要点は、こうして「したこと・しなかったこと」の違いの方にあると思うようになります。
 
そのとき、挙げられた例の一つひとつについては、

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一人ひとりが映し出される光景

一人ひとりが映し出される光景

マタイ27:32-56 
 
初めの兵士が、少し長い時間映し出された後、画面は目まぐるしく、いろいろな人の姿を見せます。罪状書きを挟んで、二人の強盗がいます。この二人については、すべての福音書が触れています。ルカはそのうち一人のほうを、パラダイスに連れて行くよう描きましたが、他の福音書記者はそのようには書いていないので、本当はさあどうでしょうか。
 
通りかかった人々は、イエスに向かって、自分を救

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私への三つの命令

私への三つの命令

マタイ26:36-46 

 

ゲッセマネの祈りの場面です。人は、このイエスの祈りに注目します。もちろんそれはそれでよいのです。私の思うようにではなく、神の心のままに。キリスト者の範として、心に納めなければなりません。それでよいのです。けれども、それは実際難しい祈りでしょう。また、見失うものがないかと案じます。そう、眠りこけている弟子たちのことです。

 

変貌山のあのイエスに使命を受けて従っ

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譬は譬ではありますが

譬は譬ではありますが

マタイ21:28-32 
 
ある人とは、ぶどう園の主であると仮定します。息子に、そこに行って働くように命じます。まず兄に声をかけますが、言葉で拒んだことで、父親はがっかりし、次に弟のところへ向かいます。弟は快い返事をしますが、結局行きませんでした。一方兄のほうは、考え直して働きに行ったというのです。さあ、どちらが父の望み通りのことをしたのか。
 
イエスは、祭司長や長老といった権威者に対して、こ

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正にそれこそ気をつけよ

正にそれこそ気をつけよ

マタイ4:1-11 
 
悪魔からの荒野での誘惑は、マタイとルカにあり、順番が違うんだ。その理由はさ……こんな、謎解き好みの読み方も、聖書を解釈し研究するにあたり、一度は必要な営みだろうとは思います。けれども、それで満足していても、何にもなりません。そこに留まっていたら、聖書をむしろ弄ぶこととなり、ひとは変わることも救われることもありません。
 
イエスが、悪魔からの恐ろしい、そして心の隙間を突い

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悪人と法

悪人と法

マタイ5:38-42 
 
「目には目、歯には歯」、旧約聖書の出エジプト記・レビ記・申命記に記されていることで知られるようになった、ハンムラビ法典の一部は、中東で広く知られていた、法の原則というものなのでしょう。同害報復の規定は、分かりやすい規準です。解釈の曖昧さや分かれ目というものがなく、どうすればよいかが明確で、分かりやすいと思います。
 
現代的感覚からすると、酷いとも思えるかもしれませんが

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