#マタイによる福音書
イエスは教会と共にいる
マタイ28:16-20
復活したイエスは、墓へ来た女たちに出会います。女たちは、まず空の墓を見ました。天使が現れて、イエスは復活した、と女たちに告げました。先にガリラヤへ行っているから、そこで会えるだろうというのです。女たちは、恐れながらも大喜びだという複雑な感情を胸に、弟子たちのいるところへと走りました。走ったというのです。
イエスは、その行く手に立っていて、女たちはイエスに出会います
マリアたちの経験が私の経験となる
マタイ28:1-6
安息日が明けて、二人のマリアが墓を訪ねます。マタイはそう記します。二人は、墓穴の入口が大きな石で蓋されるのを、先に見ていました。マタイでは、翌日に祭司長たちやファリサイさの面々が、ピラトに申し出たことが描かれています。墓を見張っておくべきことを提言し、受け容れられました。何人か知れませんが、複数の番兵が付けられました。
二人のマリアが主の天使の現れに遭遇したとき、この
私たちがもたらす平和
マタイ10:34-42
派遣する弟子たちへのアドバイスは、後の世代の私たちすべてへのアドバイスとなります。平和を必ずしももたらすためではなく、しかしそのような私たちを受け容れる者、即ち私たちと平和を共に築く者については、十分な祝福があるのだ、ということをイエスは告げました。できるなら、私たちのすべての営みが平和に繋がるものでありたいと願います。
私たちはキリストの名を与えられています。キ
いまここに及ぶ呼びかけ
マタイ9:35-38
イエスは、町や村を残らず回ったといいます。教えや福音を伝えたのは尤もですが、ありとあらゆる病気や患いを癒やした、とマタイは記しています。回ったこと、癒やしたこと、それはよいのですが、「残らず」回り、「ありとあらゆる」病気や患いを癒やした、というところに、注目したいと思います。
もちろん、それは一種のレトリックであって、文字通りallの意味であると堅苦しく解釈する必要
具体例の一つひとつがすでに現実である
マタイ25:31-46
実に耳の痛い話です。「この最も小さな者の一人にしたこと・しなかったこと」が問われます。やや冗長気味に、その具体的な一つひとつの行為がイメージ豊かに繰り返される点に、誰もが一度は恥ずかしく思ったことがあろうかと思います。このイエスの警告の要点は、こうして「したこと・しなかったこと」の違いの方にあると思うようになります。
そのとき、挙げられた例の一つひとつについては、
一人ひとりが映し出される光景
マタイ27:32-56
初めの兵士が、少し長い時間映し出された後、画面は目まぐるしく、いろいろな人の姿を見せます。罪状書きを挟んで、二人の強盗がいます。この二人については、すべての福音書が触れています。ルカはそのうち一人のほうを、パラダイスに連れて行くよう描きましたが、他の福音書記者はそのようには書いていないので、本当はさあどうでしょうか。
通りかかった人々は、イエスに向かって、自分を救
譬は譬ではありますが
マタイ21:28-32
ある人とは、ぶどう園の主であると仮定します。息子に、そこに行って働くように命じます。まず兄に声をかけますが、言葉で拒んだことで、父親はがっかりし、次に弟のところへ向かいます。弟は快い返事をしますが、結局行きませんでした。一方兄のほうは、考え直して働きに行ったというのです。さあ、どちらが父の望み通りのことをしたのか。
イエスは、祭司長や長老といった権威者に対して、こ
正にそれこそ気をつけよ
マタイ4:1-11
悪魔からの荒野での誘惑は、マタイとルカにあり、順番が違うんだ。その理由はさ……こんな、謎解き好みの読み方も、聖書を解釈し研究するにあたり、一度は必要な営みだろうとは思います。けれども、それで満足していても、何にもなりません。そこに留まっていたら、聖書をむしろ弄ぶこととなり、ひとは変わることも救われることもありません。
イエスが、悪魔からの恐ろしい、そして心の隙間を突い