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財に心を置かぬよう

マタイ19:21-29 
 
永遠の命を得るために、どんな善いことをすればよいか。青年であるかどうかはともかくとして、イエスに尋ねたその人物は、真面目な気持ちからであったようです。けれども、持ち物を売り、貧しい人々に与えよとイエスに言われて、悩み悲しみながら立ち去って行きました。その持てる財が多かったゆえである、と説明されています。
 
財は与えれば十分というわけでもありません。財を手放してたその上に、「それから、私に従いなさい」とイエスは、永遠の命のために必要なことを述べました。与えたとき、天に宝を積むことになるのだそうです。しかしそれだけではありませんでした。天に宝を積むことは、何か献げることであるかのように聞こえる可能性が確かにあります。
 
けれども、「積むことになる」というのであって、「積んだ」のではありません。そのときしたことは、与えることであり、手放すこと、放棄することです。この世のものを、自分にとり離せないものとはしないことです。もししがみつかなかった、囚われなかったにしても、持ち物を売るためには、相当の覚悟が必要になるように思えます。
 
修道院などは、これを文字通り実行しました。但しイエスは、すべてを捨てよ、と命じているわけではないように思います。生きるための手段を、すべて捨てよなどと迫ったのではありません。「財産」と呼ぶべきものを、この青年なる人物が手放せなかった点を知るべきでしょう。神の国に入る、つまり神の支配の下に入るのは、そこの問題です。
 
弟子たちは絶望的になりました。だが「神には何でもできる」とイエスは言います。するとペトロが、「何もかも捨てて、あなたに従って」きたと言います。イエスは「報いを受け」ると答え、「新しい世界」になったとき、確実に神の国で「永遠の命」を受け継ぐことを告げます。イエスの名のため、財も、人も、捨てた者は皆、そうだというのですが。

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