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イエスは教会と共にいる

マタイ28:16-20 
 
復活したイエスは、墓へ来た女たちに出会います。女たちは、まず空の墓を見ました。天使が現れて、イエスは復活した、と女たちに告げました。先にガリラヤへ行っているから、そこで会えるだろうというのです。女たちは、恐れながらも大喜びだという複雑な感情を胸に、弟子たちのいるところへと走りました。走ったというのです。
 
イエスは、その行く手に立っていて、女たちはイエスに出会います。イエスの復活劇の中で、殆ど無視されている記事だと思います。女たちは、嬉しさのあまりイエスの足を抱いたといいます。復活のイエスに触ったという、貴重な証言です。イエスは女たちに、あくまでもガリラヤで会えるのだ、と弟子たちに伝えよ、と言いました。不思議です。
 
そこで、ユダ不在のため11人だった弟子たちは、ガリラヤへ行きます。エルサレムに留まるよう支持したルカ伝とは異なります。果たしていつイエスが指示していたのか知りませんが、指摘の山があって、弟子たちはそこへ登ります。マタイはこの劇的な再会の場面を、あっさりと、「そして、イエスに会い、ひれ伏した」と書いて終わりにしています。
 
何のドラマチックな展開もなければ、どんな会話がそこにあったかについても、まるで関心がないように見えます。「しかし、疑う者もいた」というのは、何のために挟まれたのかすら分かりません。ヨハネ伝のトマスのことかと思いますが、ヨハネ伝の方が遅く成立したとすると、ここだけマタイが追加したのでしょうか。それでも不自然です。
 
その不安定さを残したまま、イエスが近寄って来て、語ります。ここで言った言葉で、マタイの福音書は結ばれます。あまりにも謎が多い結末です。これは、弟子たちとイエスとのドラマを記したものではないのでしょう。これはもう、復活の記録にすらなっていません。マタイは、マルコ伝が復活について完結していないことは分かっていました。
 
マタイ伝は個人作というよりも、編集委員会のグループがまとめたと思われますが、それは、今後の教会を導く指針を形にしようとしたように見えます。「あなたがた」と呼んでいるのは「教会」と読み替えて然るべきでしょう。すべての民に福音を伝え、洗礼を授けよ。キリストの教えを守らせよ。これからもずっとイエスは、教会と共にいるのだから。

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