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教会の問題

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キリスト教会はとても居心地のよいところです。でも、満点を期待してはいけないでしょう。たくさんの問題を抱えています。とくに内側にいると見えないものを、なんとか見ようとするひねた者が…
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#説教

語る者のことば

語る者のことば

説教塾ブックレット。21世紀になってから、「説教塾紀要」の一部を一般に広く知ってもらうために、というような形で発行されたシリーズがある。その第11弾として、2012年に『まことの説教を求めて』が発行された。副題に「加藤常昭の説教論」と付いており、著者は藤原導夫牧師である。説教塾の一員であり、要でもある。
 
今回は、その書評のようなことをするつもりはない。ただ、そのごく一部から励まされた点を証しし

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説教と礼拝

説教と礼拝

たしかに、「説教」という語を聞くと、日本人なら普通十人が十人、叱られる情景を頭に浮かべ、「お説教」を思い描くだろう。しかも、あまりまともに聞くべきものではない、というニュアンスがそこには漂うことと思う。
 
キリスト教会で「説教」があるよ、などと告げると、その瞬間に伝道が終わってしまうかもしれない。信徒にとっては、大切な「説教」。あるいは教団によっては、「宣教」の方を好む場合もある。「説教」は教え

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逆説と説教

逆説と説教

「逆説」として自分が発案して説を出すとき、世間の人が騙されているのに自分だけは真理を見出した、のような心理を含んでいることがある。
 
はたして逆説とは何か。こういうときに、昔は決まって「広辞苑」によると……と言っていた。広辞苑信仰があった世代に染みついた性であるのかもしれない。少なくとも、それだけを権威にして寄りかかろうとはしないほうがよいだろう。
 
因みに、旧い広辞苑では、「逆説」について、

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説教と聖書

説教と聖書

礼拝説教を重んじるボーレンは、聖書朗読はどうしても必要であるわけではない、とその『説教学Ⅰ』でしきりに主張している。他方、聖書そのものが神の言葉であるから、その朗読こそが命である、と言う人もいる。ボーレンは、説教がその都度神の言葉となる、という方向で説教を見ている。それは、語る者がどうであれ、という辺りも考察しているから、必ずしも理想的な説教者を想定しているわけではないようだ。
 
それを読んでい

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他人の説教を読む礼拝

他人の説教を読む礼拝

アウグスティヌスの言葉らしい。説教者が、他人の説教を語る、ということについて述べているという。「有能ならざる説教者は、安んじて他人の説教を用いるように、と忠告している。」
 
ボーレンの『説教学Ⅰ』からの孫引きである。純粋に理論的に、というよりも、かなり情熱的な勢いも感じるこの本であるが、ここは冷静な態度を示しているように見える。他人の説教を語る、とはどういうことか。
 
牧師は、礼拝説教を、礼拝

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入門

入門

「哲学入門」というタイトルの本は、実に多い。シンプルにそれだけでも沢山あるが、もしそれにいくらかの飾り言葉が付くものまで含めると、数え切れないほどである。
 
何かを真面目に考えたい、という気持ちが、人々に「哲学入門」を手に取るように仕向けるのかもしれない。中には、哲学だったら、自分の考えをどんなふうに言い述べても構わないのだろう、と勘違いしている人もいる。科学であれば、いくら自分の信念を述べても

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説教で本を紹介するとき

説教で本を紹介するとき

礼拝の壇上で、説教者が本を紹介することがある。遠慮がちに、「よかったら読んでみてください」と口にする。パワーをもつ立場の者が、「読め」と命ずることは、圧力をかけることとなる。他方、牧師も教会からすると雇われの身であるとするなら、あまり思い切ったことは言えない面もあるだろう。それだから、「この本を……」と紹介するというのは、かなり勇気の要ることなのではないかと想像する。本当は、めちゃくちゃ読んでもら

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読書感想文のコツ

読書感想文のコツ

もう生徒たちは提出したことだろうが、夏は、読書感想文の課題がよく出る。近年は強要されなくなりつつあるが、以前は「必ず」書きなさい、という圧力があった。
 
感想文というものは、実に厄介だ。子どもたちは、原稿用紙を見ただけで尻込みすることが多い。もちろん、それが楽しくて仕方がない、という生徒もいる。私も、仕事で書かせることがあるが、そんなとき、板書は大きく次のことを書くだけだ。
 
 「楽しくかこう

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寝るより楽はなかりけり

寝るより楽はなかりけり

「寝るより楽はなかりけり」
 
母が夜よくそう言って、布団を被るのを見ていた。一日中家事やらなにやらで疲れた結果、布団に潜ると、もう何もしなくていい。その安堵感を物語っていたのだろうか。一時は内職もしていたから、疲れはなおさらであったことだろう。
 
生活は必ずしも楽ではなかったと思う。入浴も1日おきだったから、「今日はふろの日」などと無邪気に言っていた小さな私だったが、それから思うと、毎日体を洗

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映画のはなし

映画のはなし

映画は、昔から好きだった。小さい頃は、いまと違って週に何度も、映画放送があった。そもそも家の近くには映画館などなかったのであるが、テレビ放映されるものばかり見ていたのは、金銭的な理由が大きい。
 
中学生のときに、近くにあった大学の大学祭に行ったことがあった。何か食べながら、大学生が私と話をしてくれた。そのとき、ふと映画の話が出た。学生は、映画を観るというのは、人間の成長のためにもとてもよいことだ

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ヨシタケシンスケ展かもしれない

ヨシタケシンスケ展かもしれない

意表を突いたタイトルの展覧会が、いま福岡で開催されている。昨年から日本各地で開かれているものだそうで、やっと福岡もその波に追いついたというところであろう。
 
もしヨシタケシンスケさんの本をご存じないとしたら、人生の何%か、損をしていることになるだろう、とまで言いたいと思う。その絵や言葉に触れたら、きっと自分では絶対に見えてこないものが見えてくる体験をするだろう。けれどもそれは、かつて子どもの頃に

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教会と子どもたち(3)

教会と子どもたち(3)

教会の礼拝に、子どもたちも最初から加わる。賛美歌を歌ったり祈りを聞いていたりすることは、子どもにも特別に苦痛なことではないと思いたい。ただ、説教はやはり長い時間にわたり大人の難しい話を聞かさせるとなると、辛い。そこで、説教が始まるときに、子どもたちは別室に行く。そこで教会学校の教師が、子どもたちの牧師となって、子どもたちのための話をし、礼拝を司る。
 
このようなことを複数の教会で実施したことを、

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「~とあります」の心理

「~とあります」の心理

礼拝説教の中では、聖書の文を引用することがある。その中で、「(聖書の文)とあります」という言い方が、口癖のように何度も出てくる話し手がいる。私はそれを聞いていて、あるいは原稿として読んでいて、ずっと違和感を覚えていた。
 
もちろん、その言い方を一度でもしたら変だ、などというつもりはない。異様なのは、それを書かれた文章にするとはっきりすると思うのだが、あまりにもそれが多すぎることである。何かちょっ

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苦しいだろうに

苦しいだろうに

「それにつけても 金の欲しさよ」を上の句につけて狂歌にする遊びがある。検索してみると、江戸時代からあったとか、それ以前ではないかとか、真面目な文献から引いているのが出て来た。上の句が何であろうと、脈絡なくとも暴力的に「それにつけても 金の欲しさよ」とつければ形になって面白い、という遊びである。
 
たとえば礼拝説教でも、それまで辿った当たり障りない聖書の解説の内容ともあまり関係なく、最後に唐突に「

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