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脱学校的人間(新編集版)〈14〉

 世間一般においては、「教育問題」なるものが時折沸き起こることがある。そのような「問題」が取り沙汰されるようなときにはたいがいにして、「今の教育の一体どの部分がどのように問題なのか?」とか、「なぜそれがうまく機能していないのか?」とか、「いかにすれば教育はうまく機能するのか?」とか、「よい教育とはいかなるものか?」とかいったように、もっぱら教育の「いかに・どうすれば」という部分が喧しく議論されていることだろう。
 しかしそれに関して柄谷行人は以下のように疑義を呈している。
「…教育にかんして、その内容がいかに問題にされても、すこしも疑われていないのは、義務教育制度そのものである。…」(※1)
 つまり、個別の教育方法やその内容を問うことで「その内包する様々な教育思想が批判されるとき、そこではいつも学制そのものの意味作用が見落とされ」(※2)ているのであり、ゆえにその問いにおいては常に「教育そのものが疑われずに残る」(※3)ことになるのだ、と。
 そのように、教育問題とはすなわち教育の方法や内容を問うものであるとして、その「問いの解」が教育の制度をよりよく発展させるものであると考えられているのだとすれば、むしろ学校制度とは「そのような問題(さまざまなトラブルや制度的バグなどを含めて)を、あえてあらかじめ設定」しておいて、それを「逐次改善すること」により自らをさらに望ましいものとしていこうと、「あらかじめ意図している」かのような制度なのだ、とは言えないだろうか?
 とすると、「それまでの問題のある教育を受けてきた、かつての子どもたち」は、そういった「改善された教育」を目の当たりにしながら、しかし自分たちはその「恩恵を享受できない」ということとなり、それは言うなれば「いい面の皮」だ、ということになってしまうのではないのだろうか?

 さらに教育をめぐる議論というものは、なぜだかいつも「いかに教育するか?」という、「教育する側」からの議論のみがなされているばかりで、「教育される側」から「自分たちはいかに教育されるべきか?」などという議論が沸き起こることはほとんどないのだとも言えよう。「教育される側」というのはいつだって、ただひたすら「一方的に教育されるだけ」であって、言い換えれば人は「自らを教育すること」について、どのような欲望や情熱も持ちえないものなのだ。
 むしろ「教育する欲望」とは常に、一方的に「他者」へと向けられる。もし仮に「自らを教育することへの欲望」を抱く者があるとするならば、それはいわば「自分自身を他者と見なしている」だけのことだ。
 ゆえにもし本当に「教育される側」が、「自分はいかに教育されるべきか?」などと大真面目に考えるようなことがあるとしたら、それは結局のところ「教育する側の視点」を反転させて、それに自らの立場を転移させているにすぎないのである。それは控えめに言って倒錯であり、もう少し言えばある種の「おもねり」に似た態度であるとさえ言いうる。結局のところそのような態度は、ただ大人たちにほめられたいだけにも見えるし、あるいは大人になったつもりでいるだけであるようにさえ見える。これは言い過ぎだろうか?

 ともあれ教育の意図とはそのように、「教育する者たちにおける、その教育の対象となる他者への欲望」にもとづいているものなのである。そしてそれは「彼ら教育者自身の利害に直接結びついているもの」でもあるのだ。彼らの欲望が果たされるか否かは、彼らの「教育者としての利害」に直結するもの以外ではない。
 しかし彼ら「教育者」はなぜ、それを正直に言わないのだろうか?なぜそれを意図的に覆い隠して、普遍性だの本質だの善だのと持ち出してきては、それを誰にでも適用しうるものとして一般化しようとするのか?
 彼ら教育者はいつだって、教育なるものがあたかも自分らの意図・思惑・利害からは切り離されているものであるかのように振る舞う。まるでそれが心底彼らの「善意」からきたものであるかのように見せかける。しかしそれは明らかな欺瞞であろう。彼らの振る舞いのいっさいは、あくまでも彼ら自身の欲求からきているものなのである。彼らはその自らの欲求を懐に忍ばせながら、いかにも「聖職者でござい」といった澄まし顔でいる。だから「教育者なるもの」は、いつもどこかいやらしくて胡散臭いように思えてならないのだ。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 柄谷行人「日本近代文学の起源」
※2 柄谷行人「日本近代文学の起源」
※3 柄谷行人「日本近代文学の起源」


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